其は総べる事も無く 瞬く煌めきを辿る
僅かな 刻の波間に飲まれ 失われてゆく
我等を地の底に繋ぐ針はいずれ滅び去る
見上げれば 漂うは昏き闇
我等の望みで 遍く漆黒が満たされる
しかし幾ら足搔こうとも 我等の願い及ばず
そして 人はまた 散りゆくのだ
だが 届かねばならぬ あの空がどれ程遠くとも
再び 手放す事は出来ぬ 其を
巡り来る近き星霜を経た我等は 何時の日か世の理となるだろう
――ヴィダイク神帝歴三十三年。
天運に恵まれ、智と武に優れた彼の者は、好く国を治めた。
幾多の国難あれども、遍く照らす威光の下、国と民は速やかに乗り越える事だろう。
――ベルゼ神帝歴二十五年。
温厚な彼の者の世、寄せる波も吹く風も穏やかに、彼の国を通り抜けた。
ただ過ぎ行くのみであったが、大きな禍は訪れる筈も無い。
――グリスト神帝歴三年。
傲り、騙り、謀られ、暗愚と噂の彼の者、遂に人心を得る事適わず。
そう時を経ず国は割れ、あちこちに疫が流れ、戦が世を満たした。
――法が世を照らさなくなりどれ程の時が流れたか。
英雄は皆斃れ、王や帝は現れず、また戦も終ぞ聞かぬ日は無かった。
全てを力で奪うこの時代、民を救う者などありはしない。
――暗黒の時代が訪れてより五十八年。
昏き時代は突如として終わりを告げ、独りの王にて統べられた。
戦は鳴りを潜め、皆はこぞって彼の国へと集う。
――王国歴二十七年。
大地の痕に蔓延る疫は未だ失せず、遥か彼方古の地に、封じられし神在りとの噂が流れ。
勇敢なるジェイナス王、神を救いに遠征に出るが、還って来る事は遂に無かった。
――王国歴四十二年。
世を憂いたジェイナス二世、封じられし神を救うべし、との君命を発す。
戦う者、商う者、知恵者を始めとした、多くの者が集い、古の地を目指した。
――そして。
アンシエンラント創世記 第1話
―――――鎮められた神殿―――――
1章.地の底
暗い。
兎に角、暗い。
突如がきり、と鉄と鉄が打ち合わされる音が、暗闇に響く。
飛び散る火花に一瞬、人影が見えたような気がした。
勢いに任せ、力の限り押すと、ぐらりと傾き――。
その隙を逃さず、剣を振り抜く。
ぺきり、と軽い物を弾くような音を上げて、薄らと見えていた影がひとつ、地に倒れ伏す。
余りにも軽い、普段とは違う手応えが、手の中に何時までも残った。
気が付けば、脇下には大量の汗。
襲撃を受けてから、どの位の時間が経ったのか。
気配を感じ、誰何を問うても何も答えず、そのまま闇の中での交戦となる。
ランタンは少し離れた後ろ、地に置いたままだ。
背後で煌々と細く揺れる薄明かりは、襲撃者達の姿が、はっきりと見える程には、届いていない。
残りの影はひとつ。
既に幾人かを斃したが、違和感を覚えている。
敵意、殺意、害意、恐れ、動揺、焦り等の入り混じった息遣い――。
暗がりから襲い来る彼等から、それらしきもの、聴こえて来るものが何もないのだ。
迫る唸りを頼りに、何度打ち返しても、冷たい空気の揺らぎが、淡々と近づいて来る。
ただ、黙々と近づき、そして獲物を振るう。
その動きだけを、延々と繰り返している様であった。
最後に残った何者かが、その手に抱えた獲物を、大きく振りかぶる気配。
様子を察し、軽く身を捻ったが、がちん、と頭に被った兜が鳴り響く。
華麗に避け切った、とは言い難いが、どうやら頭は無事の様子――残った感触から察するに、兜はもう駄目かもしれないが。
影に映る者が大振りの攻撃で、姿勢を崩している事を祈る。
そして、渾身の力を籠め、手にした剣を振り抜く。
確かな手応え。
次の瞬間には、ばらばらと、何故か軽い物が地に散らばる音が、聴こえて来た。
漸く、暗闇の向こうの、空気の揺れが収まる。
襲撃者達は、居なくなったのだろう。
ひゅうひゅうと流れ動く風以外に、もう聞こえて来るものは無い。
襲い来る者を、全て撃退したのを確認した後、長剣を背の留め具に吊るし、兜に手を掛ける。
思った通りに酷く切れ込み、使い物にならなくなった兜を脱ぎ、投げ捨てた音を最後に、暗闇での戦いの音が止んだ。
妙な手応えを感じたのではあったが、動く者はもう居らず、傍に置かれた、ランタン――小さな光源に手を伸ばす。
一体、何者だったのだろう。
せめて顔でも拝んでやるかと、片手で掴むそれを突き出すようにして、地を照らし、目を凝らした。
信じ難い光景が、眼下に映し出される。
足元に照らし出されたのは、散らばった白い破片。
――骨だ。
骨。
確かにそこにはあった――揺れる炎に写し出される、人骨らしきものが。
打ち砕かれた白い骨、そして先程の者――襲撃者達の、手にしていたであろう剣と盾の残骸が、一様に散乱しているのが伺える。
耳元で煩く響く、荒い呼吸が、一瞬にして静まるのを感じた。
夢でも見ているのか?
戒めの為、親が子に語り聴かせるような、または奇妙な話に没頭する、物好きが喜びそうな出来事。
墓場から埋葬された筈の人が蘇り、近くの者へ襲いかかる――。
一瞬、非現実的な思考が脳裏に浮かぶ。
先程までの乱闘が、まるで嘘のような静けさの中で、その様な事が起きたとは、この身を以って体感した、すぐ後だと云うのに、その事を全く信じられない。
死体が動く等と言う、有り得ない出来事の想像に、思わず背筋に寒気が走り、身震いする。
まさか、死者が棲むという、何処ぞの国の伝承に伝わる、死の国へ迷い込んでしまった訳でも無いだろうに。
考え過ぎだな――少し疲れているのだろう。
この身に敵が居ない訳では無い……、恐らくは、何者かが謀ろうとしているのだ。
そう考えると、頭を振って、考える事を止める。
息を整えてから歩き始めても、しつこく残る不安を振り払う様に、この地へ足を踏み入れた時の事を、思い出す。
積み上げた石が、崩れた所に出来た隙間。
そこへ、忍び込む様に身を潜らせる。
中は暗いものだと思っていたが、陽の光が届き、暫くの間、視野の確保には全く困らなかった。
遺構を辿り下へ、下へと深く進むにつれ、陽光は徐々に小さく、細く陰り、消えてゆく。
程なくして、ランタンの出番となる。
頭上を照らす光は今は無く、手元の小さな光源だけが頼りだ。
一体今は何時なのか?
代り映えせぬ暗闇が続き、時間の感覚が、ややおかしくなって来ている気がする。
もう少し、もう少しだけ進んで、何もなかったら帰ろう。
何度もそう思いつつ、足を進めて来た。
先程の様に、戦っている時だけ、生きた心地が蘇る。
その時だけは、流石に退屈はしない。
暗闇と共に埋もれてゆく意識を、しっかりと繋ぎ留めておく為には、強い刺激が必要なのだろう。
喜ぶべきことなのか、そうでは無いのか。
敵は、他にも居た。
そして――今に至る。
時折、頼り無い灯火を高く掲げても、暗闇に映る物は何も見えなかった。
その度に聞こえる、諦めにも似た、小さな溜息がひとつ。
コツコツと、周囲に反する足音だけを頼りに、先へと進む。
この先に向かえば、まだ下に進む道があるのだろうか、今までの様に。
足元は、今までの石畳を敷き詰めた通路とは違い、固めてあるとは言えども、剥き出しの地であるから、そうは考えにくいのだが。
今居る陰鬱な暗い空間が、地の底で他に道は無く、もうすぐ最奥に辿り着ける筈。
何度もそう、念じる――いや、祈るかの様に、同じ事を考えてしまう。
流石に先へ進む事に不安を覚え始め、脚が竦む思いをし始めた頃、それは現れた。
壁――石造りの、壁。
うっすらと光と闇の狭間、そこへ朧げに映る、聳え立つ様な人造物。
まるで測った様に岩肌を削り、くり抜き、掘られたそれは、自然に出来たものでは無い。
道にはご丁寧にも石畳が敷かれ、その周囲へと広がる様にして、規則正しく並べられた石達も、薄らと見える。
これらも、人の手が加わっている事は明らかだ。
遂に辿り着いたのか、それとも――?
まだ遠いそれに近づくと、何かしら音が聴こえて来る。
自身の足音、口内と鼻腔を潜る吐息、地の底を吹き抜ける風。
聴こえて来るものは、それ以外全く無い空間。
それ故に、すぐに気付く事が出来た。
――周囲に、歌のような音が流れている事に。
ふと立ち止まり、考える。
始めの内は、風の音かとも思ったが、どうやらそうではない。
音楽を奏でるような存在が、この先に居るとでも言うのか。
この地の底に。
暫しの間、歌に聞き入っていたが、再び歩き始める。
かつり、かつりと、硬く古い石畳を歩く音が、歌を運ぶ風の音に重なり、暗室のような広場に響き渡った。
やがて遺構にある程度近づき、朧気であった遺構が、はっきりと見え始めた時。
幾重にも重なり合うように、奏でられていた音楽――歌声だろうか?――が、ぴたりと止まってしまう。
それとほぼ同時に、足音も止まる。
静寂があっという間に、辺りを満たしてゆく。
しかし、その中でも風だけは、時折唸り声を上げるかの様な咆哮を、止める事は無かった。
足を止めて、暫く待つ。
――だが、何も起きない。
見渡しても、何かが起きた、或いは起きる予兆のようなものは、まるで感じられず、途方に暮れる。
何があったのだろう?
やもすると、奏者に何か起きたのか。
しかし、異変が起きるような気配や音は、何も感じてはいないのだ。
調べが止まったと同時に、そこかしこから、視線を感じるような気がする。
だが、広めの空洞とは言えど、地の底であるこの場所に、身を隠す場所など無い。
どうせ辺りは暗いのだ、音がしようとしまいと、ここが危険なのは変わらん。
気を取り直し、先へ進むことにして、更に近づく。
再び、石畳で舗装されたらしい、古い道を歩む足音が響き始め、広い暗闇の中に木霊する。
やがて苔生した壁面に、測った様に掘り抜いたのか、幾つかの段差と窪み――階段と入り口かもしれない――が、薄らとランタンの光に照らされ、影となって映し出された。
地底に手が加えられた、古い道の終焉。
特に手が込められている事が判る、色とりどりの石で造られた石段。
その上に、太古の祀り事を執り行ったであろう、大きな建物が地底の壁の隙間にはめ込まれる様に、聳え立っていた。
ここからでは天井まで、手元の光が届かず、その全容を窺い知る事は出来ない。
一体どれ程の大きさの建物なのか。
そして更には、かつては華美な装飾が、施されていた様子が見て取れる。
が、しかし、今は大きな力が加わった様に歪み、地の底だと云うのに、雨上がりであるかの如く、湿り気を帯びており、その水気を追う様にして、苔生した跡が、大仰に広がっていた。
恐らく、訪れる者が居なくなってから、随分と時間が経過してしまったのだろう。
地底深くの思わぬ所へ、姿を現した遺跡に暫く圧倒された後、入り口から中を覗き、足を踏み入れる。
荘厳な外観こそ、仰々しかったものの、いざ足を踏み入れると、想像している程の広さでは無い。
建材を持ち込んで建てたのでは無く、掘って外観を建物のように誂えた物なのだろう。
遺跡の中央にぽっかりと空いた、入り口らしき空洞を抜けると、そこは小さな広間となっており、浅い階段が、扇状に配置されていた。
訪れる者が居なかったであろうに、その室内は土埃や砂埃は、不思議と見当たらない。
左程高さは無い、それを登った所は、行き止まりとなっており、壁に据え付けられた、両開きの大きな扉が見える。
それは人が、潜り抜けられる程には開いており、長い間訪れぬ来訪者を、待ち受けている様にも見えた。
他に、入り口に相当するような場所は見当たらず、扉はその1つしかない。
段差を跨ぎつつ登り、扉の中を覗く。
床は、蔦の様なもので、びっしりと覆われていた。
それらの全ては、奥から敷き詰められる、絨毯の代わりであるかの様に、伸びて来ている。
奥には薄い煌めきに映し出される、幾つかの柱。
意を決して、足を踏み入れる。
さくさくと小気味良い、軽く、小さな音が鳴った。
予想通り、奥は左程広くは無い。
人が5人ほど並ぶ隙間を開けて、等間隔に並ぶ柱が8つ立ち並ぶ、やや縦長を思わせる空間。
だが、玄室の中は手を入れる者が長い間居らず、荒れ放題の様相を醸し出している。
近づいて見ると、柱は全て風と、地下に染み出る水に蝕まれ、かつて誇っていたであろう、栄華に影を落としていた。
時折滴る水と、吹き込む風の音以外は、この空間に聴こえて来るものは無い。
この先へ進めば、先程の奏ベが流れて来たのは、どの辺りか、またはそれが、その正体が判るだろうか?
しかし、程なくしてすぐに、玄室の行き止まりへと突き当たる。
これ以上奥に進めそうな所は無さそうだ――隠された入り口等が無ければ。
寸分も狂い無く、きちんと積み上げられた、小高い石段の上に、供物を捧げるらしき、台座のようなものが鎮座していた。
祭壇がある、という事は、ここが最奥なのか。
ひと際美しい装飾が施された跡。
天井から滴る水に穿たれ、古く寂れていなければ、これらはさぞかし、大切に扱われて来た事が伺えよう。
見ればその一角に、もたれる様な姿勢で、干乾びた死体がたったひとつ、剣に刺し貫かれ、鎮座していた。
――女。
ほっそりとしたその姿は、生前は女性であった事を思わせる。
見た事の無い、古びた衣服。
太古に暮らす人々は、皆このような衣服を、身に纏っていたのか。
供物とされた者であるのか、はたまた争いの果てであるのか、何も判らない――全貌が風化した状況から、見て知れる範囲の程度では、何も。
その衣服は、時折吹き付ける風に、ほつれた袖や裾を、軽く靡かせているのみ。
時折それをはためかせる他に、彼女は何も答えてはくれそうに無い。
少しだけ視線を上げる。
痩せ細り変色した頬、落ち窪んだ眼窩が虚空を眺める、頭部からは床に届く程の、長い髪が伸びているのが伺えた。
見れば、踏み鳴らして来た、全ての蔦が、その頭部に集う。
驚いた事に、床に伸びているものは、何やら見知らぬ蔦の1種、だと思っていたのだが、これは髪。
豊かに伸びる、というには多すぎる量の、あの死体から伸びた髪が、この玄室に敷き詰められているのだ。
死しても、髪はそれ程までに伸びてゆくのだろうか。
人の生ひとつを丸々掛けても、この玄室を敷き詰める程に、髪を伸ばす事は難しいように思える。
ここまで伸びた理由については、判断できる材料に乏しい為、分からない。
今、それについて考え、時間を浪費するのは止そう。
放っておいても、時が過ぎてゆく事に違いは無いし、朽ちてゆくのを待つのみ。
それが世の仕組みとは言え、一抹の寂しさを感じる者も居るだろうが、今、感傷に浸る暇は無い。
浮かび上がる、数々疑問を断ち切り、更にその上に視線を這わせると、苔や蔦に覆われた、大きな壁画が描かれていた跡。
ひと目で分かる程の、大きな亀裂が幾つか、それはまさしく伝説に伝え聞くような――他にこれを見た者が居たならば、恐らく、竜を思い浮かべるだろうか?――大きな生き物が振るった爪痕と、見紛うかの如くに入り込み、そこから少し水が染み出しているようだ。
その隙間から、根や葉の様なものが、吹き出す様に伸び、壁沿いに広がっている。
辛うじて残った部分も、随分と色褪せており、かつては色鮮やかに美しくそして、煌びやかに描かれていたであろう、その内容や情景を、今ではまるで窺い知る事は出来ない。
知恵者や、商いを行う者、絵心を有する者がこの場に居れば、恐らくこう言うだろう。
この絵にはもう、価値が無い、と。
それは美に関心が無い者であろうとも、それが容易に察せる状態である事が伺えた。
元の色すら判らねば、どのような達人であっても、修繕も出来まい。
これでは、如何に知恵が回る者でも、何が行われて来たのかを、想像する事や想定する事は難しい、と思われる。
何もかもが色褪せ、抜け落ちた後の灰色の世界――その様な印象を抱くだろう。
もしこの玄室を訪れた者が、他に居たならば。
……ここに目的のものは無い、帰るか。
期待したものが得られない、残念そうな軽い溜息が、辺りに反する。
大きな発見はあった。
だが、探していたものとは違う。
考えるのは、知恵者の仕事だ――見た事を土産話として持ち帰れば、きっと喜ぶ者も居るに違いない。
今ここに留まる理由もない、この遺跡で何が行われていたかに、思いを馳せようにも、判別出来そうなものが何一つ、遺されてはいないのだ。
せめて壁画がもう少し残っていてくれたら、暫く時が過ぎるまでは、楽しめたのかもしれないが。
ここにある全ては、かつては在った筈の、何かが喪われた痕跡でしかない。
そう考えると、踵を返す。
ざりり、と床一面へと散らばった髪が、踏み締められ、石畳と擦り合わさった音を立てる。
その時――。
少し前に鳴り止んだと思っていた、先程の音楽が響く。
が、すぐに奏でられていた音は、聴こえなくなり、再び凍り付いたような静寂が戻る。
何事かと思い、辺りを見渡していると、遺跡の玄室に、再び静かな調べが響いた。
【失われた歴史】