2020年10月23日金曜日

ブログ小説 アンシエンラント創世記 2話 未知の力 4章.休息―rest2―

アンシエンラント創世記 2話

―――――未知の力―――――

4章.休息―rest2―



微かに何かが流れる音が、ハザの耳に飛び込んで来る。
だがその音は、彼が想像していたよりも、量や流れが少ない。
もっと、泳げる程にはなみなみとした水量がある、そう考えて来たのだが、当てが外れたのか。
彼等一行が目の当たりにしたそれは、壁の裂け目から沁み出た水が、床を削り小さな流れとなっていた。

「思っていた通り、十分な量が流れていますね」
確かに勢いだけはある様だが、ちょろちょろと、掬う程の量しか流れていない、窪みの流れを見てリムは言う。
これの何処が、体や服を洗うのに、十分な量だというのか、この女は。
どこからどう見ても、不十分だ。
そもそも幅が全然足りない様に思えるが、俺の目がおかしいとは全く思えない――。
呆れを通り越して、困惑し始めたハザを尻目に、流れる水場の縁に立った娘は、軽く片方の手を振る。

刹那、彼女の姿が消えた。
「えっ!?」
思わず、ハザの不可思議そうな声が、口から転び出ていた。
一体、どこへ消えたのだろう。
慌てて左右を見渡す彼に、下から届く、何者かの声。
「ハザ――。
我等は此処に居ます。
こちらですよ、下を見てくれませんか」
足元からきゅうきゅうと、妙に甲高い声が聴こえてくる。
声に従い、下を見るとそこには、小さくなった娘が、茫洋とした澄まし顔で、ハザの方を見上げていた。
彼女の大きさは、掌の上に乗れる程のサイズ寸法と言っても、過言では無いだろう。
ハザは小さくなった女を、不思議そうな目付きで、しげしげと眺めている。
どうにも、この娘と出会ってから、理解を超える出来事が続く。
これ程までに小さくなって、一体どうすると言うのか。
すると、リムは甲高く聞こえる声で、こう言った。
「ハザ。
我等を貴方の掌の上に乗せて、流水に浸けて下さいませんか」



成程――、こうすれば十分な量の水が流れている、とも言えなくはない、か。
両手に乗せられる程、そして驚く程小さく軽くなった娘を載せて、幅の狭い冷たい流れの中に差し込む。
その掌に掬った水の中、彼女はローブ表着を身に纏ったまま、風呂に入る様にして浸かっていた。
本当に、何時から洗っていなかったのだろう、娘が水に浸かるや否や、黒い物が浮き出て来て、ゆらゆらとした濁流となり、溢れるように流れてゆく。
両手にも、その指の隙間からも、何らかの塊が引っかかり、積もってゆくのが分かる。
見た目よりも、相当汚れていたのだろう。
「汗の出そうな所は、今の内しっかりと洗っておけ。
他に着れそうな物は無いのか?」
「はい。
我等の持ち物で、着る物はこれしかありません」
掌の水面から、きゅるきゅる、きゅるきゅると響く、大きな時とはまるで違った、妙に高い声での返事。
ここから出る事が出来たら、新しい衣服を用意しなければならないようだ。
当然だが、食糧や服と交換できる、貨幣など持ってはいないに違いない。
こちらが用立ててやる必要があるだろう。
通貨を持っていない訳では無いが、女物の衣服等、生まれてこの方、取引する事がまるで無かった彼は、どのようにして商う者と話をすれば、上手く交換できるのか、暫し思い悩む。
その時はどんな顔をすれば良いのか、真面目に考えている内に、手が冷たくなってきた。
澄んだ清涼な流れだが、水は雪解けの様に冷たい。
「もういいか?
手が冷えて来た」
ハザの声に立ち上がった娘は、着ている衣服の裾を掴んで、返事をする。
「はい。
我等は構いませんよ」

手を流れから引き上げると、指の隙間から零れ落ちた雫が、ぽたぽたと垂れてゆく。
彼は立ち上がり平らな所へと、小さくなった女を、下ろしてやろうとした時、それは起こった。
娘は掌の上で、軽く手を振る。
すると物凄い速さで、彼女が大きくなってゆく。
見る見るうちに、元の大きさへと戻った女の荷重が加わり、突然の事に、意表を突かれたハザは、蹈鞴を踏んで堪えようとしたが、間に合わずに転倒してしまう。
尻餅をついた姿勢から、それ以上後ろへ行かぬよう肘で上半身を支えた。
何とか踏ん張った所へと続いて、宙に浮いたリムが、彼の上にどさりとのしかかる。
瞬く間に柔らかい質感が、鼻と頬を覆う。
「どうでしょうか」
転倒させた事を悪びれもせず、彼女の声と、ローブ表着から滴る水滴が、頭上から降り注ぐ。
冷たい飛沫が顔に掛かり、青年は思わず目を瞬かせ、顔を顰めた。
小さかった時に甲高かった声は、不思議と元の聴き慣れた、静かで清涼な音程へと戻っている。
どう、とは恐らく、臭いの事を尋ねているに違いない。
しかし、ハザはすぐに答える事が出来ない――彼の顔には、リムのふくよかな胸が押し付けられ、発言する事を妨げられていた。

そして徐に肩を掴み、軽々と持ち上げ――丁寧に女体を脇へと押し退けた後、ともすれば下敷きになりそうな体制から、何とか脱した彼は言う。
「ぷぁッ――。
急に大きくなるんじゃないッ。
危ないだろう、全く。
臭いの方は、前よりは、大分マシにはなったが……」
「それではもう一度、水に浸かりましょうか?」
「いや、もう良い。
矢張りこれ以上は、きちんと洗って、干さねばならんだろうな。
続きは、上に登ってからだ」
そう言うと彼は立ち上がり、長剣の留め具を取り付けたベルト帯革、そして肩当を外し、鎧を抜ぐ。

自分も今の内に汗位は拭こうと、鞄から手拭いを取り出すと、ぼんやりと見ていた彼女が、声を掛けて来た。
「ハザも小さくなって、洗いますか?」
ジャケット外衣を脱ぎ捨てた時、突然に、リムは突拍子も無い事を言い出してくる。
ハザは思わず彼女の顔を見返し、瞬き数度繰り返す。
「出来るのか!?」
「はい、可能です」
可能だという返事は、僅かながら彼の興味を引く。
しかし、小さくなるという事は、どのような危険が迫るのかを考え、一応ながらにも、どうなるかを、確認しておかねばならない。

リムの返答を聞きながら、シャツ襯衣を脱ぎ、質問を返す。
「ひとつ、聞くが。
もし、俺が小さくなったままで、敵の襲撃を受け、お前が倒れたとする。
その場合、元の大きさに戻るまで、どの位かかる?」
言い終えて、小さな流れに手拭いを浸け、絞ると体を拭き始めるハザ。
位置を悟られるという事は、先手を取られる、という事でもある。
今この場も、誰が覗き見ているのかも、分からないからだ。
掌に乗れるようなサイズ寸法で、小さくなったまま戦う事になり、普通はあり得ない筈の、尋常でない体格差で、終始圧倒されては敵わない。
「その場合ですか。
我等が貴方を戻すまで、そのままですよ」
「そのままか。
敵地と言っても良いここでは、危険過ぎるな。
興味はあるが――、止めておこう。
そういう事は、もっと安全な場所で試す事にするさ。
今は、汗を拭くだけにする」
「はい、成程。
分かりました」
彼女は、大人しく引き下がる。
どうやらリムは、無理やりにでも彼を小さくする気は無いらしい。
ハザは頭と顔を拭くと、再び清涼な流れに手拭いを浸す。

そして彼は、細身だが、逞しく鍛え上げられた体を、丹念に拭き始めた。
刺し傷が見える左の肩口。
張り詰めた分厚い胸板は、その長剣を存分に振える事を、万人へと十分に納得させるに違いない。
その下、軽く肘を曲げるだけで、力強く隆起する力瘤。
爪痕の様な引っ掻き傷が3本、脇から2つの腕の下に向かい、真っ直ぐに伸びている。
更にその下には、綺麗に6つに割れた腹――その脇腹にも幾つか、刺し傷や切り傷が見て取れた。
しかし、その古傷の全てがひとつたりとも、急所へと至っていない事が、手練れの者であるならば、直ぐに理解できるだろう。
正面を拭き終えると、ハザは手拭いを伸ばし、背中を拭き始める。
首から肩にかけて、動作に合わせ、異なる形へと張り詰める筋肉、そして引き締まった体。
肩から下に向けても、隆起の陰影がくっきりと映し出され、所々ごつごつと、岩の様に膨れ上がっており。
それは、並々ならぬ鍛え方を行った事を連想させる。
彼のその上半身は、見事なまでに逆三角を描いていた。

背中を拭き終えたハザは、赤い色のシャツ襯衣を身に着け、その上から、青色のジャケット外衣を着込み、留め紐を通すと、鎧を身に纏う。
最後に、肩当を右肩に留め、身支度を整え終える。



壁際にもたれる様に青年が座ると、彼女――リムはふわりと近くに来て、立っていた。
矢張り、地に足を着けていない。
座る様子を見せない――浮いているから、立ちっぱなしでも疲れないのだろうか。
そう言えば、この地底で暮らしていた時は、どんな営みをしていたのだろう。
あの時は確か、引き返そうとした時に、美しい歌声が聞こえた。
彼女が暗がりに響く歌を歌い、遺跡のあの玄室で、暮らしている姿が目に浮かぶ。
その時、唐突にリムが透き通った声で、座った青年に話を始める。
「我等は唄など、歌ってはいませんよ。
此処に幽閉されたのは、随分と昔の事、それからずっと、我等はこのままです」
彼女の声に従い、青年が確かに、古い剣を引き抜いた筈だ。
それでも、この娘は今だに幽閉されていると言う――その言葉は、どういう事を差して言っているのか、ハザは皆目見当が付かない。
聊か察しかねる意味を持つ、リムの言葉を慎重に思案しつつ、彼は答える。
「あんな凄い技を使えるお前が、閉じ込められるとは、驚きだ。
しかしもうあそこからは抜け出せたんだ、もう心配はいらん。
上までは、俺が連れて行ってやる。
そう言えば、リム、あの古びた剣は何だったんだ?」
彼女の云う幽閉と言う言葉で、思い出すハザ。
封じられていた、という話に興味が湧き、リムに話を促す。

あんな炎が出せて、むざむざ捕らえられた等と、彼の感覚からすれば、到底信じられる話では無いが。
争った時にあの技で、振り払いは――しなかったのだろうな。
当時は、美しく磨かれていたであろう剣に、その胸を貫かれるまで、ぼんやりと眺めている様が、まるで目の前に浮かぶ様だ。
「その事ですか――。
我等は未だ、幽閉されている身ですよ。
それにあの針は、人にしか抜けない物でした。
抜く前に崩れ去ってしまえば、更に長い時間、あの場所へ留まる事となったでしょう」
「もう古い剣は無くなった。
それで、針の呪いとやらは解けたのか」

問う青年の声に、返って来る短い沈黙。
その時、リムは少しだけ、唇を歪めた様な気がした。
忌々し気に――いや、困り気に。
「それが――。
我等を縫い付けていた、針が抜けた程度では……。
この遺構そのものが、我等の対話を妨げる、そのような呪いが、込められている様なのです。
そして、我等も幽閉から抜けられくなる、秘術が編み込まれていました。
彼の者達も、実に抜け目の無い」
「俺があそこへ来なければ、抜け出せなかったという事か。
お前独りでは、厳しい状況なんだな」
「針の失せた今となれば――。
我等だけでも、地表まで出る事は可能でしょう。
しかし、魔の力が扱えぬハザお独りでは、かなりの困難が予想されますし。
我等では成し得ぬ、ご助力がありましたので、そのお礼にと、ご一緒しています」
この女、口は達者な方だと思ってはいたが、俺を相手に、中々言ってくれるな。
――ハザは気取られぬよう、内心で唸る。
他の者が彼に、このような口を利けば、その背負った長剣であっという間に、首と胴を切り離されてしまうに違いない。

彼女の減らず口に、ハザは口元を若干引き攣らせながら言う。
「抜かせッ。
そもそもここには、俺1人で辿り着いた。
1人でも、こんな薄暗い穴蔵から、さっさと抜け出せるに決まっている。
敵が現れる度に、バタバタ斃れている輩に、言われたくはないな」
この娘は、好奇心が強い訳でも、特別に人懐っこい訳でもない。
何と言うか、警戒心の様なものが、あまりにも薄いのだ。
普通備わっているであろう、そういったものが、欠如していると言っても、過言では無いだろう。
そのような性質のお陰か、目の前の敵が獲物を振るっても、罠が迫っていても、避けようとすらせず、じっと眺めている。
よくも、そんな事が出来るものだと、ハザは内心呆れていた。
「我等は我等で、被害が最小となる様、きちんと選択をしています。
ご心配には及びません。

とは言え――。
脱出にハザのご助力があったお陰で、2~3千年程は、目算が縮みました。
その辺りは、貴方のご助力、感謝していますよ。
空いた時間で、他の事が出来ますから」
薄暗い穴蔵から地表に出る、たったそれだけで、数千年単位で待つとか、どれだけ気が長いんだ。
先程から、茫洋とした顔付きを全く変えずに、平然と言い放つ娘の言葉に、彼は再び呆れる。
「彼の者達が練り上げた針の呪いは――。
それはもう、とても強いものでした。
流石に我等とて、短い期間で紐解く事は出来ません。
準備は整えていましたが、こればかりは、待つ他に途は無かったのです」
……短い期間とは一体、どの位の年月の事を差すのやら。
この対話で、この娘の時間の概念が、何となく分かった気がした。
「ああ、わかったわかった。
そこまで言うなら、そう言う事にしておこうか。
魔の力とやらは、良く知らんからな。
例え騙されていたとしても、俺には区別がつかん」
彼は、精一杯の憎まれ口を返し、様子を見たが、彼女――リムの顔色は何一つ変わらない。

胸中に沸いた、臍を噛む思いは収まらないが、そこまで言って、軽く眠気を覚えたハザは、腰の鞄を外し、中から取り出した布を被り、そして鞄を枕とすると、背を向けた。
「俺は話疲れた、少し寝る。
何かあったら、遠慮なく叩き起こしてくれ」
「――はい。
その、何か、の際には、どうすれば良いでしょうか?」
「何か、音を立てろ。
それで起きる」
「音とは、どのような?」
「お前、歌っていただろう。
……あんな感じで音を出せば良い。
それで、すぐに目を覚ます」
遺跡の前と内部、そして先程聴いた、美しい音楽の事を、彼は思い出していた。
それを聞き、思い当たる事があったのか、弁明するリム。
「あれは――。
人は、その様に聴こえると言うのですが、唄ではありませんよ。
我等の言葉で、よろしいのですね。
それならば、お安い御用です」

彼女の言葉に頷くと、手元にランタン角灯を引き寄せ、火口を絞めるつまみを回す。
だが、壊れたランタン角灯のつまみ、そこにそのような感触は無く、良く見ると、覆っていた硝子は割れ、火口は拉げて曲がり、芯も無い。
有体に言えば、取っ手と枠しか無いのだ。
まるで気が付かなかった――リムは何故こんな物を持ってきたのか、疑問に思っていたが、漸く察する。
奇妙な技で、灯火を持ち歩く為だろう。
そんな、使い物にならなくなった照明具、その中央辺りで、ゆらゆらと丸く輝く玉が浮いていた。
不思議に思い、指先でそっと触れてみたが、輝きに熱さは感じない。
それもその筈だ、油を入れる所も割れてしまい、中身はとうの昔に空っぽのまま。
今更ながらに、燃えている物ではない、と彼の直感が訴える。
さて、どうしたものかと考え、しばらく眺めていると、様子を眺めていた女の声が、ハザの耳に飛び込む。
「――?
どうなさいましたか」
「俺が聞きたい。
よく見たらこれも、お前の奇妙な技のひとつか。
火が着いてないぞ……。
これ、どうやって消すんだ」
リム――彼女からの返事は無い。
だが、直ぐに壊れたランタン角灯から転び出る、眩い輝きは徐々に小さく、薄くなりやがて、――音もなく消えた。
どうやら、自身で消す事は出来ない代物らしい。
実に不便な光源だ、壊れる前の方がまだ可愛げがある。
「成程。
改良が必要な様ですが、すぐに解決する事は難しいかと」
光が失せた後の、暗がりの中に小さく、消え入りそうな声が、耳元まで届く。

壊れて、火の着かなくなってしまったランタン角灯を、これ以上どうしようと言うのか、全く分からない。
リムの云う、良く分からない言葉の意味は、もう気にしない事にして、当たり障りのない話題を、軽い口調で投げかけるハザ。
「暗くても平気か?」
確か、この女は明かりの無い中に居た。
心配は全く要らないとは思うが、一応念の為に、尋ねてみる事にする。
間髪入れずに、変わらず茫洋とした声が、耳朶に飛び込む。
闇の中と言えど、まるでその面持ち、顔色まで想像出来そうだ。
「以前もお伝えしましたが、光陰は我等に、何ら影響をもたらす事はありません。
どうぞごゆっくり、お休みください」
余計なお世話だったようだ、気遣い等と、慣れない事はするもんじゃないな。
軽い溜息と共に、寝転がったままの姿勢で青年は言った。
「ああ、そうさせて貰う」
その言葉を皮切りに、会話が収まり静けさが戻る。
話し声はそこで止まり、訪れた暗闇には緩やかに、空気の流れる音、そして小さな水路のせせらぎだけが、微かに響く。
ハザの立てる静かな寝息は、時折吹く風に紛れ、静かな闇の中でも聴こえる事は無かった。



ブログ小説 アンシエンラント創世記  2話4章挿絵

【清流と巨影、そして小さき人】