2020年1月4日土曜日

ブログ小説 縁切徹 第一話 揉め事探し(1)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

揉め事探し(1)



どこか遠くで雷鳴が響いている。

広々とした輝ける晴れ間を、厚く薄暗い雲が、蔑み嘲笑うかのように覆い尽し。
暗くなりゆく空は、ますますその表情を曇らせ、哀しみの色をより一層強くその身に宿す。
びゅうびゅうと怒り吹き荒ぶ虚空の叫びが、耳朶に染み入る気味の悪い旋律となり。
天を畏れ惑い震えるかの如く、怪しげに揺れる木々達は、幾重にも重なり合う重奏を演じ。
何者かに纏い付く様に、未練がましく湿った風が吹く、水の香りを乗せて。
道行く者達は足を速めた。
これから聴えてくるであろう雨の足音に、濡れはしまいかという、不安な胸中を表すかのように。



――――――――(1)――――――――



道外れ。
幾人かの怒声と剣戟の音。
一行は突然現れた来訪者に、激しく困惑していた。
目的の街まで街道を移動する旅。
目下の予定では、大して危険は無い旅になる筈だったのだが。
街道を離れた所で小休止している時、長脇差一振りを腰に差し、ふらりと現れた娘。
ふらふらと、何をするでもなくゆったりと近づいて来るが、しかし、その足取りは明らかに一行を追ってのものだ。

足元は脚絆と草を編んだ履物。
見慣れない葉の意匠が裾に施された着流しを着崩し、その上に羽織を纏い、更にその上にうちかけて合羽を着、だらしなく開いた胸元にはさらしを巻き、風呂敷包みを左肩口から降ろすように結ぶ。
腰の帯には、朱色の柄と鞘が見え、その隣には硝子の根付に提げ物。
頭には三角錐の形状の笠を被り、顎紐で留めている様子が伺える。
口元には柔らかい笑みが浮かんでいるようにも見えた。
しかし、菅笠を目深に被り、確かな表情を読み取る事は出来ない。

はっきりと声の届くであろう位置に相対した時、訝し気に思った一行の誰かが、誰何を問う。
すると、娘は歩みを止め、口を開いた。

―――――――お前様方 ちょっくら あっしと遊んでおくんなせえまし

そよ風が草木を優しく撫でるような、清涼感溢るる声。
突拍子の無い言葉に、その場に居合わせた誰しもが、現実味の無い夢でも見ているのかと思い、唖然として声の主の方を見、またお互いの顔を見合わせ、更に訝しむ。
ふと気付くと、いつの間にか鯉口が切られている。
気付いた者が娘に打ちかかったが、鉄の打ち合う音と怒声が、突然悲鳴に変わり。
遊び、の意味を一行が理解した頃には、既に二人が斃されていた。

数合も打ち合わず、瞬く間に仲間を二人も討った娘が腰を落とし、ゆっくりと手にした獲物を胸先に掲げ、紋様の付いた衣を纏う若い男の方を向く。
仲間を失った事に悲しむ暇も無く、先手を獲られ、主導権を奪われた不利な状態で、否応なくの応戦。
得も言われぬ、異様な雰囲気が辺りに満ちていた。
そこはかとなく沸き起こる、嫌な気持ちを避けるように、右に左にと歩を進め、体を揺すり何かと正対を控えるよう努力したが、切っ先はまるで意志を持ち男の方を追うように、向きを変えつつ、じりじりと距離を詰めてくる。
嫌な気持ちは、怯えにも似た黒い感情へと姿を変え、零れ落ちそうな程胸中に満ち溢れてゆく。
どうやら次の標的は、既に選ばれていたようだ。
切っ先が頭上より高く跳ね上げられ、間に合わない、と感じた男は、杖を握り締め前に出し、思わず目を閉じて身を硬くする。
ビュン、と空気を切り裂く鋭い音に、しっかり握り締めていた筈の両手が、弾かれた様に左右に広がるのを感じ、目を開くと手にした杖が、真っ二つに断たれているのが視野に入った。
同時に衣服の上に赤い華が咲く。
それは、ゆっくりと盛り上がり、滝のような奔流を描き、ねっとりと滑り落ちる。
得意の魔法を行使する間もないまま、男は倒れ、呻きつつ、助けを求め這いずった。
だが、この出血で力尽きるのは時間の問題だろう。

ちらりと視線を投げかけ、素早く長脇差を構え直した娘が次の獲物へと、狙いを定める。
すると、これ以上好きにはさせぬと言わんばかりに、全身を鎧兜で固めた男が、長脇差を構える娘の行く手を塞ぐように立ちはだかった。
片手で支える大きな盾で身を隠し、端から対峙する敵を覗き込む。
守りに徹し、用心深く出方を伺っているようだ。
しかし、娘はひと呼吸も待たずに白刃を煌めかせ、突き崩す。
兜の隙間を恐るべき正確さで、鋭い鋼の塊を眉間に徹した後、一瞬で引き抜いた。
ごぽりと頬当ての隙間や首元から赤い雫が零れ出、雨露と混じり、流れ、鎧兜に身を包んだ男は、声を発する間も無く膝をつく――薄れゆく意識の中、故郷の景色、そして帰りを待つ両親と妹の顔が浮かんだが、それもやがて混濁した記憶の彼方に埋もれてゆく。
男が何も思い出せなくなった時、膝をついた体がぐらりと傾き、どう、と大きな音を立てて大地に沈んだ。

「よくも!」
長剣を携えた男が、娘の背後から切りかかる。
その瞳は、仲間を討たれた事への怒りに燃えていた。
完全に不意をついたつもりだったが、狙い澄ました渾身の一撃は、ひらりと身を翻した女に刃で受けられてしまう。
突如、ぱたぱたと木や土が鳴りだし、大きな雫が天より降り注ぐ。
降り始めた小雨が辺り一面を濡らしたが、刃を交えた娘と男は、自らが濡れるのも厭わず、互いに一歩も引かぬ姿勢を鮮明に表していた。

お互いが両手で剣と刃を間近で支え合う距離、長剣を打ち付けた姿勢。
自身より遥かに小柄な娘の腕は細く、足腰も華奢で。
柄を握る、たおやかな指先ではとても、己の豪剣を受け止め続けられるようには見えず。
男は、こんな小娘に力で負ける筈がない、このまま押し切ってやる、と腕に力を込めた。
「うおおっ!おおおおお!」
裂帛の気合と雄叫びが、自然と喉から漏れ出、すぐに長剣が密接した刃を押し始める。
キリキリと、時折火花を散らして鋼と鋼が軋み、嫌な音を周囲に響かせた。
己が打ち倒すつもりで、娘の背後に近づきつつある仲間に目で合図する。
ここは俺に任せろ、と。
勝つ自信は先程と寸分も違わず己を支えており、これまで培ってきた知識が、冒険者としての年季が、このまま押し崩せると訴えていた。
更に進む剣身、体格差から発する圧に震える、か細い娘の腕。
もう一息で押し切れる、志半ばに討たれた仲間の仇を取るんだと、そう念じ全身に渾身の力を込める。
その時、めきり、と小さな音が鋼の中心を貫き、敵刃が喉元を駆け抜けた、ような気がした。

何が起きたのか分からない。
一瞬、天を覆う雨模様の空が見え、奇妙な浮遊感、そして急速な落下感。
その後、いやに軽い妙な弾みを付け、己が地に転がるのを感じた。
動かぬ我が身を不審に思い、必死に瞳を動かす。
目に映ったのは一人残った仲間に駆け寄る女の背、見覚えのある折れた長剣、そしてゆっくりと頽れる、首の無い自分の体。
そんな、嘘だろ――そう思ったのも束の間、視野が昏く狭まり、何もかもが薄れ、希薄になってゆく。
現状を自覚した時、男はその人生の幕をあっけなく下ろしたのだった。

残るは、身形の良い男唯一人となる。
ゆっくりと倒れ逝くかつての仲間に、一瞥もくれず振り向き、駆け寄る娘に思わず男は生唾を呑む。
びしゃり、と追手の後ろに何かが落ち転がるのが見え。

……次は自分だ。

転がったものが一体何なのか、を見届けてしまい、背筋に冷たいものが走った。
全部で六人いた筈が、いつの間にやら、一人となっている現実。
このままでは仲間だった者達の二の舞になるという、恐ろしい現実に思い当たった時、男は見栄と誇り、そして己の半身とも言うべき、反りのある剣をその場に打ち捨て、バシャバシャと、地に出来始めた泥濘や水溜りの上を、肌触りと質の良い生地の服が泥飛沫に汚れるのも構わずに、勢い良く走り出した。
恐怖を飲み込み、なけなしの勇気を奮い、精一杯喉から絞り出し発した悲鳴を雨空に響かせて。
女が追い、男が逃げ惑う。
豪奢な長靴が泥水を踏む様を重く響かせ、その倍は速く軽やかな足音が近づいてくる――不思議な事に、娘はずぶ濡れた地を幾ら蹴っても、飛沫や波紋一つ生じない。
さほど時間もかからず、十分に距離を詰め、手にした鋭い鋼で銀閃を振るう。
見るからに立派な刺繍を施された、品のある高価そうな帽子が、ふわりと舞い上がり。
そして血に塗れた泥水に浸かり、台無しになった。

小雨は何時の間にか本降りとなり、ざあざあと不規則な拍子で草木を打ちつけている。
雨足にかき消される様に、小さくなりつつある呻きや怨嗟の声が止んだ。
場は静寂を取り戻し――とは言え徐々に雨脚が強まり、地を、木々を打つ音が次第に、大きくなってきてはいるが、動く者は独りを残して、もう居ない。

その中で、先程よりも一層激しく、菅笠を叩く雨粒の合唱の中でただ一人。
ぽつり。

―――――――お前様方と現世の縁 確と断たせて貰いやした

と、長脇差を鞘に仕舞いつつ、娘はそう独り言つ。
右手で菅笠を摘まみ上げ、倒れ伏した者たちに視線を投げかける。
幾粒もの雨雫が白く、しなやかな指を伝い、滑り落ちてゆく。
その向こうに、やや幼く見える若い娘の、整った容姿が伺える。
肩口には銀色の髪がかかっており、その耳は人間と比べ、長く尖っていた。
一通り周囲を見渡し、起き上がる者が居ないのを確認すると、摘まみ上げた笠を放す。
ちらり、と見えていた紅い瞳が隠れ、濡れた銀の髪を翻し、道外れでの戦いを制した娘は、街道へと歩み去る。

雨は、まだ止みそうに無い。
周囲に漂い始める死の香りを、降り注ぐ大粒の雫が洗い流していた。



――――――――(2)――――――――



酒場の扉が大きく開く。
雨に濡れた厳めしい面構えの男達が、靴に付いた飛沫を飛ばしつつ、足音も荒く続け様にぞろぞろと立ち入る。
何事か、と店に居座る連中の幾人かが、振り向いた。
向かうは店の一角にある豪奢な椅子。
店の角、丸い机の前に空いた華美な装飾の椅子、奥では肩肘を張った男が、壮観な外観を持つ椅子に、どかりと座っていた。
さもここが己の居場所だと言わんばかりに。
奥まった所に辿り着いた、目つきの悪い連中が、周囲にある飾り気の無い椅子に、乱雑に腰掛けた。
そして、一同から視線が一斉に、先客へと集まる。
円卓に集う見るからに不道義な一団。
その視軸の先には、場違いとも言える一輪の華が咲き誇っていた。
肩口まで流れる銀の髪、尖った耳を持つ娘が、足元には風呂敷包みと菅笠を置き、椅子の上にちょこんと座る。
物怖じした様子を素振りに出さず、鮮やかな紅い瞳が、集う荒くれ男達の前で、興味深げに揺れており、勘繰りや物珍しさという幾多の視線も、見た目の歳にそぐわない程落ち着き払った態度で、軽く受け流しているように見えた。
女を見て、一人だけ造りの違う椅子に腰掛けた男は、フフンと鼻を鳴らし、肩をゆすり脚を組み直す。

先程椅子に腰かけたばかりの、水滴を滴らせた男の内の一人が、口を開く。
「カヤ、ってのはアンタかい?」
その言葉にうら若き娘が、清涼で緩やかな風を思わせる声を上げた。

―――――――へい 左様で

短く答え、口元に柔らかい笑みを浮かべる。
物珍しそうな表情で、話し始めた。
「お嬢ちゃん。
調べに行ったが、アンタの言った通りの状況だったよ。
あの人数をたった一人でやっちまうたぁ、見上げた腕前だ」
褒められてはいたが、状況を確認するまで信じていなかったのだろう。
事実、彼女は仕事を終えても報酬を貰えず、酒場で確認を終えるまで待たされていた。
だが今は、すっかり評価が逆転した事が伺える。
「いや、すげえ腕前だ。
あいつらだって俺達じゃ歯が立たねえ、結構な強さだったって言うのに。
一体どうやったんだ?
お頭、コイツぁアタリもアタリ、大アタリですぜ!」
先程の一行に積もる恨みでもあったのだろうか。
現場を調べて来たらしい、顔に傷がある荒くれの一人が興奮した面持ちで、叫ぶように話す。
他にも幾人かに痛々しく巻かれた包帯が、この酒場に集う荒くれ達の腕前を示していた。

―――――――へい 恐れ入りやす

座った姿勢でやんわりと軽く会釈をする娘に、後ろに控えた別の男が話を続ける。
「お前の話が、本当だという事がこれで分かった。
約束の金は払おう。
それでな。
お前の腕を見込んでウチの頭領から、改めて話がある」
部下らしき男が言い切ると同時に、返事や挨拶も待たず、贅沢さが自慢の椅子に腰掛けた男は話し始めた。

「実はな、お前の腕を見込んで次の仕事も頼みたい。
この街に住む俺の倅がなァ、熱を上げてる女がいるんだが。
それが困った事にな、邪魔な虫がもうくっ付いちまっててよ。
街の入り口にでかい宿があるだろう、そこで下働きをしている男なんだがな。
真面目に勤め上げる事だけが取り柄の、大した事の無ェ詰まらねえヤツさ。
コイツの、お前の言う縁ってヤツを斬り捨てて欲しいんだ。
金は今の仕事と同じだけ出してやろうじゃあないか」
少し高いが、それなりの金さえ払えば好きな様に動かせるに違いない。
払えない額では無いし、この腕があればもっとこの界隈で力を伸ばせるはずだ。
そう思い話を続ける男。
頭の中はもう既に、更なる増益で笑いが止まらぬ程に潤う懐と、弥増した権力を振るう己の姿が浮んでいた。
しかし、話せば話すほど、娘は表情を硬くするように思える。
見る見るうちに口が、への字に曲がっていくのが、誰の目にも見て取れた。
噛み合わない何かを感じた男は、確かめるように言う。
「どうだ?
虫を一匹叩くだけの、割の良い仕事だ。
悪い話じゃあねぇだろう。
おっ。
まさか都合が悪いのか?
暫く後でも構わねェんだぜ。
自信がねぇなら、お前一人だけでなくてもいいんだ、もっと手下を雇ってだな。
何なら……、」
慌てて弁明するかのように説明を付け加えたが、カヤと呼ばれた娘は言い切る前に、片手を振って制す。
思わず言葉を飲み込んだ男に、一言。

―――――――誠に 申し訳ねぇんでございやすが あっしは 堅気は斬らねえんでさ

柔らかい物言いだが、寒空に冷え切り、乾いた風のような声が届く。
娘はそう言うと、そそくさと荷物を纏め、笠を被った。
帰り支度を始めた彼女を見、男は諦め苦虫を噛み潰したような表情で、低く唸る。
取り巻きの男達も口々に、何かしら甘言で誘おうとしたが、興味の無い仕事には関わらないと、固く結ばれた口元が雄弁に物語っており、もう何を話しても、彼女の関心を買う事は出来ないだろう。
「そうか。
……、残念だ」
諦めて椅子から立ち上がった男は、引き攣った笑顔の儘、片手で合図をすると、円卓の上に金の入った袋が投げ出される。
その儘、つい先程まで引き込もうとしていた娘の方を見向きもせず、いかにも不機嫌そうに肩肘を張り、店の奥へと消えた。
後に控えていた幾人かの男が、慌ててそれに倣い、続く。
それに合わせ店中にドカドカと、荒い足音が連なり、再び、何事かと、店に居合わせた客が一斉に視線を合わせた。

偉そうに歩く男と、早足でそれに続く取り巻き。
それらが続く元へと目をやる。
金の入った袋、この辺りでは珍しい、エルヴンの女。
今という時間を、己の都合よく過ごす事しか関心の無い、彼らが興味を持ちそうな対象が、そこにはあった。
朝から店で飲んだくれるような、禄でなしの自覚がある男達の目はもう、何があったかという事は思い起こさず、その事しか映していない。
赤ら顔の男が一人、周囲に同意を求めるかのように薄ら笑いを向け、席を立つ。
随分と飲んでいるのか、誰の目でも見ても明らかに、酔った足取りで彼女の方へ歩き出した。

支度を終えた娘が机に近づき、報酬の入った袋に手を伸ばす。
「おっと」
近づいていたガラの悪そうな男が、待ち構えていたかのように同時に手を伸ばした。
紅潮した額が、随分と酒に浸かっている事を告げている。
酔った勢いで難癖でもつけるつもりだったのだろうか。
「へへっ」
と、誰かが笑う。
それを合図としたのか、娘に視線を向けた男達に下卑た笑みが、伝染してゆくかのように浮かんでゆく。
これから、このたおやかな物腰の女で楽しんでやろうという、ある種の期待を込めて。
記憶にも残らぬ程の薄い繋がりしか無いが、同じ酒場で飲む飲んだくれ仲間。
盛り上がりゆく期待の視軸を一身に浴び、そのご期待通りの働きを見せて進ぜよう、と時折手と愛想笑いを振り撒き、自信満々に近づいた男は腕を伸ばし、細く滑らかな手元を狙う。
……手応えは、無い。

男の目が僅かに見開いた。
皆、素早く近づく男の腕が、たおやかな手を掴んだと思ったその時。
ゆらり。
娘の手がゆらめき、動く。
炎に映された影が揺らめくかの如く、ゆらゆらと。
大きく開いた五指が小さく滑らかな指を、するりと掴み損ね――ぴたり、とお互いの動きが止まった時、手を掴まれていたのは酒で顔の赤く染まった、男の方であった。
驚愕に目を見開き、男の表情が凍り付く。
華奢な小娘の片手に、そっと握り締められた手は、ピクリとも動かなかったからだ。

腕を振る。
肩をゆする。
反対の手で掴み、押し、引く。
後退る。

何をやっても握られた場所から、男の手は何かで固められてしまったかの如く、少しも動こうとしない。
表情と瞳には、焦りと恐れと慄きが、次第に刻み込まれつつある。
助けを求めるかのように、その瞳が、顔が、左右へとせわしなく動く。
代わり始めた異様な空気に呑まれた男達は、捕獲された仲間の為に、指一本動かせない。
同じく周囲にも屈強な男達がそれを見ていた――が、体格で遥かに劣る小娘の予想外の反応に、下卑た笑い声はいつの間にか止み、誰も見入ったまま動きもせず、声を発しようともせず。
無言。
武骨な男の右手を軽く握った姿勢で、カヤは口元に柔らかい笑みを浮かべたまま、暫し無言の時間が過ぎる。

周囲の視線と沈黙に耐えかね、男は逃げるように視線を反らす。
その表情には凍り付いた笑みが張り付き、その瞳は完膚なきまで叩きのめされ、屈服した畜生の色を湛えていた。
ようやく察してくれた娘の手が、ゆっくりと離れていく。
すると男は、待っていたと言わんばかりに素早く引っ込め、右手を何度も摩る。
解放された手にはしっかりと、充血した掌の型が浮かび上がっていた。
暫くの間、しとしとと屋根を伝い、雫が流れ落ちる音だけが響く。
突然訪れた静寂を破り、次に聞えたのは、細流の音を運ぶ、そよ風の様な女の声。

―――――――それじゃあ あっしはこの辺で 御免なすって

今度は邪魔が入らず、金の入った袋を懐に仕舞い込み、奇妙な技で男共を黙らせた彼女は、酒場の出入口へと歩む。
戸口で振り向き、先程やりこめた男達の方へ視線を向けた後、ぺこりと頭を下げ、合羽を翻す。
ゆっくりと戸が閉じられ、その姿が細まり、やがて見えなくなった。
不可思議な静寂が、その場にじっとりと残っている。
娘がふらりと歩み去った後、誰も口を開こうとしない。
床に濡れた跡がなければ、そこに誰かが居たとは思えない程、ただただ静かな刻が漂う。

先程より小雨にはなったが、まだ雨は降り続く。



――――――――(3)――――――――



料理の味と客層、ついでに雰囲気も悪い酒場を出、雨の中を暫しさ迷う。
金を手に入れて懐が温まり、それとなく空腹を覚えたカヤは、食事の出来そうな店を尋ね歩いたが、折しもの雨で立ち往生した旅人が多く集い、いずれも満席であった。
泥濘と水溜りを跡一つ付けずに歩き、ふらふらと大通りから外れた脇道へと向かう。

細い道を抜けると左右に大きな建物が目立って並ぶ。
幾つか連なった建物、並んでいる扉。
その中の一つに、飯屋の印を見つける事が出来た。
雨から逃げるよう、小さな軒先に身を寄せる。
笠を脱ぎ、まるで積もる様に溜まった雨水を払い落とし、左手に笠を持ち直す。
柔らかく艶めかしい指が拳を形作り、木製の素朴な意匠の扉に、小指と掌の腹を向けて軽く振った。

―――――――申し申し 御免くだせえ

ぽつぽつ、ぽつぽつ、と幾度かに渡りぶ厚い戸を叩きつつ、声を掛ける。
暫く待ったが、返事は無い。
空いた右手が少しの間空をさ迷い、やがてそっと取っ手に手を掛け、体ごと押し付けるような姿勢で押す。
僅かな軋みが聞こえ、同時にカラン、と扉に付けられた鐘が店内に鳴り響く。
どうやら、戸を叩かなくとも良い代物であった様子が伺えたが、彼女は左程気に留めず、押し開けた扉隙間から、するりと滑るように中に入り込む。

中は広間になっており、梁の見える素朴な内装の壁と天井、床には幾つかの丸い机と、壁際に四角い机が並び立つ。
壁際の大きな窓から差し込む光は、雨曇りの空でも周囲を一瞥出来る程の明るさを保っている。
「いらっしゃいませ。
こちらへどうぞ」
店の奥から出てきた若い男が、案内をしようと愛想笑いを浮かべ、進み出た。
カヤは軽く左右を見渡すと、窓際の四角い机に向かって歩き出す。
背負い荷を解き、席に着く。
幾つかのやり取りの後、ご注文はお決まりでしょうか、と店員が愛想良く尋ね、さらさらと木々を揺らす爽やかな風の様な声で彼女は答えた。

―――――――へい それじゃあ 飯と茶をお頼み申し上げやす

「おう、客か?」
注文を受け、店員が厨房に戻ると、恰幅の良い男の店主が顔を覗かせる。
「飯と茶って言ってたんですけど。
いつも出してるやつで良いんでしょうか」
言いながら粉を練り、香ばしく焼いた物を皿に並べる。
「飯と茶、……ねぇ?」
注文の文言に違和感を感じ、広間を一瞥した店長が言った。
「馬鹿野郎!
今日の客、エルヴンじゃねえか。
米を出せよ、米を」
「えっ? こ、米ですか
えるぶん? あの人……が?」
「そうだよ。
何でか知らんがあいつら、米がやたら好きで良く食うからな。
お前も店持つんなら、覚えておいて損はないぞ」
「何でそんなこと知っているんですか?
この辺りにエルヴン、少ないって聞いてますが」
「何でって、そりゃあお前。
知り合いがいてな、昔一緒に旅したからだよ」
「あっ……、……。
店長が冒険者だったっていう話……、本当に、ホラじゃなかったんですね」
とっておきの自慢話を信じていなかった事実を店員が述べ、店主は舌打ちをしながら答える。
「ひっでぇなぁ!
お前、俺を信じてなかったのかよ!」
ひとしきり二人は笑い合うと、手際良く調理の支度を始めた。

程なくして、盆に乗せられた温かい食事が、カヤの元へ届けられる。
不器用に握られた米の塊と、薄い褐色の汁がこの店が出した食事であった。
皿にごろりと転がる、大きな塊と小さな塊。
わざわざ固めてあるのは、握り飯のつもりなのだろうか。
大きな方が小さな方に遠慮なくもたれ掛かり、潰されんばかりのその小さく儚い形は、見事なまでに歪み、拉げていた。
見ると米の塊には薄っすらと色が付き、所々何やら菜のようなものや、細かく切られた破片が顔を覗かせている。
見た目から固く握られた様に見えたが、手で摘まむとぼろぼろと崩れてしまう。
割れるように崩れた米を手で食べるのを諦め、汁に添えてあった匙で掬い、口へと運ぶ。
少し塩辛いが、噛み締めると菜と肉、そして米の甘さが舌の上で踊る。
続いて口に運んだ汁からは、緑の菜を煮たほんのりと甘い味、香辛料の効いた魚と調和のとれた風味が引き立つ。
味を確かめた彼女の唇は、幾度か頷きながらもゆっくりと笑みの形へと変わり、それを厨房から横目で見ていた店員と店主は、にんまりと微笑んだ。

食事を終え、食器が触れ合う音が立ち去ってから久しく、広間には静けさが訪れ、屋外の庇から滴る水の音が、不規則な音頭を取り、耳朶を打つ。
新たな客も現れず、ただただ静かに窓辺から滴り落ち、過ぎ行く刻を眺める彼女。
お茶のお代わりを持って行くふりをして、店員は自身にとって珍しい他種族を観察する。
雨曇りの光の下でも艶のある銀の髪。
その、流れるように煌めく髪の横から、自分たち人とは違う、長く尖った耳の先端が誇らしげに聳え立つ。
そして顔の下、こちらもあまり見ない不思議な形状の、ゆったりした衣服に目を向けた。
着崩れ開けた服から見える、ふくよかな胸元は細く長い布で包まれ、見事な曲線を描き、下に目をやると帯下の布の境目から、右足が惜しげも無く晒され、眩しく映える。
店長も奥に腰かけ、時折伺うような視線を投げかけ、女がこちらを見ない事を良い事に、店員と店主は何度も何度も年頃の娘の躰に視線を這わせた。
幾度目になるのか、窓の方へ顔を向けた儘、細くしなやかな指が、その手が茶瓶から茶を注ぎ。
ふわりと羽が舞ったのか、と見紛う動作で茶碗を手に取った。
それは、取っ手の付いた小さな茶碗であったが、彼女は取っ手を摘ままず、両手で包み込むようにして持つ。
左手は底に手を当て、右手は器に添える様に。
形の良い唇がついっと器に近づき、色の付いた渋めの液体を含んだ。
穴が開く程の視線が送られている事を知ってか知らずか、うら若き娘は窓の外を眺め続け、斑に透けた硝子で造られた素っ気ない意匠の、安物の茶瓶から茶が無くなった頃、ようやっと女の声が静寂を破る。
店主と店員は、随分と久方ぶりに声を聴いた気がした。

―――――――随分と 御馳走になっちまいやして そろそろお暇を致しやしょうかと
―――――へい 御代はこちらに

声を掛け、根付から伸びる紐で吊した提げ物から貨幣を一枚取り出すと、机の上に置く。
座っていた椅子の隣に置かれた風呂敷包みを、道中合羽の下から器用に背負い直し、胸元で結び、最後に笠を目深に被る。
透き通るような美しい色合いを保つ銀の前髪と、整った魅惑的な目元と赤い瞳が隠れ、表情が分からなくなった。
外見からは想像出来ない程の、手慣れた仕草で支度を整えると、彼女は入ってきた扉へと歩む。
追いかけるように、愛想笑いの店主と店員が、後片付けと確認の為、食事と茶を済ませた机へ向かう。
「えっ?」
机に視線を投げかけた店主が訝しむ。
「……何です?」
釣られて思わず、店員も机の上に視線を向けた。
食器の横に置かれた、楕円形の黄金色に輝く貨幣が一枚。
思わず二人で顔を見合わせる。
貨幣を手にし奇妙な物を見るかのように、しげしげと眺めていた店主が、何かを理解したのか、弾かれた様にどたどたと、体格に相応しい足音で床を鳴らし、厨房の奥へと駆け込んだ。
「あっ!?
お、お客様、お待ちください!」
初めて見るものであった貨幣に、思わせぶりな店主の態度、一度見たら忘れられぬ見事な意匠の飾り彫り、高級感溢るる貴金属の色味と艶。
そして見た目の重厚感から、提供した食事と持て成しに全く釣り合わぬ、高額貨幣である事を悟った店員が、驚きの声を上げ娘を呼び止めた。
背後で緩やかに振り向く気配。

―――――――おっと こいつぁ申し訳ねえ 少々足りやせんでしたかい?

「い、いいえ、とんでもない!」
振り向きつつ即座に店員が否定する。
多すぎます、と続けて言おうとした矢先、口元に満足そうな笑みが浮かべた娘が、即座に口を開き出鼻を挫かれた。

―――――――へい そいつぁ 誠に結構な事でございやした
―――――それじゃぁ 御免なすって

言うが早いか、くるりと踵を返し、取っ手を引く。
何時しか外の雨は止んでいて、雲の隙間から晴れ間が覗いている。
再び鐘が鳴り、彼女は開いた扉の向こうへと身を潜らせ――店主が残りの代金を手に慌てて後を追い、店の外に続き――しかし、まだ姿が見えると思っていた、エルヴン族の娘は何処にも見当たらない。

雨上がりの空、僅かに湿った風、所々濡れて水溜りのある地面。
左右を見渡しても道先に姿は見えず、泥濘に足跡も無く。
先程まで自分の店にいた筈の、物静かな女は僅かな時間に、何処へ行ってしまったのだろうか。
釣り銭と呼ぶには多過ぎる量の金を携えた儘、飯屋の店主は茫然と立ち竦む。
大通りから外れた位置で、客の寄り付きは今一つ、あまり流行しているとは言えない店。
突然の大雨で閑古鳥が鳴き、ご破算になる筈だった今日の日商が、たった一人の来客で賄えてしまった事実。
その事実に、店主は夢を見ているかのような気分に陥ったのだった。