2020年1月6日月曜日

ブログ小説 縁切徹 第一話 揉め事探し(2)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

揉め事探し(2)



――――――――(1)――――――――



ぽかぽかと陽気な陽差しが、街道を照らす。
草木の香る風。
雨上がりの道にはまだ泥濘があったが、直後と比べ大分歩きやすくはなっていた。
地が剥き出しの整備されていない街道は、多くの通行により踏み分けられ、歪な道筋が遥か彼方まで延びてゆく。
遠く、白く、薄く霞む山々へ、草木の合間を縫うように続く道。
その生乾きの緩んだ通りを、一人の娘が歩いている。

山々は遠い。
カヤの瞳に微かに映り、木々が草々のように小さく見える、遥か遠く向こうの山を目指して歩く。
その手前には、平坦な景色の草原が広がり、背の低い草が生い茂る中に、一本だけ高く伸びた木が生えていた。
続く道を見ると、平らな石が多く顔を出し割れており、足元も硬い。
泥濘になり難い所を、選んで通行を続けていたのだろうか。
その所為か、街道は時に多く、時に少く、曲がりくねっているようにも見えた。
すぐ横の道脇に目をやると、綺麗だと思うが名前も良く知らない花が咲き、その辺り一面にはあまり伸びていない草が広がる。
続いて、天を仰ぐ。
青く輝く陽差しが陽気な気温と、好調な視野を保ちつつさんさんと降り注ぎ、景色を照らす。
時折頬を撫でてゆく風の音色、どこか遠くから聴こえる生き物の鳴声、そしてひたひたと進む自身の足音。
少々歩いた位では全く代わり映えの無い、平坦な景色が続く。
どちらを先に出したのか覚えてない位には、右と左の脚を交互に進ませ、左手側に見えていた陽差しが頭上を過ぎるまで歩き詰め、しっとりと汗を感じる頃、道端の一本木の近くへと進んでいた。
通る道すがら近くへ寄って見ると、ここからでは目指す遠くの山よりも大きく映る。
遠くからでは分からなかったが、青い果実が鈴生りに実り、まるで揃って熟す時期を待っているかの様だ。

木陰に入り、風呂敷包みを開く。
手早く取り出した、寝転べるような大きさの折り畳んだ布を敷ぎ、草鞋と足袋を脱ぎ上がり込んだ。
誰も通りかからぬ街道を眺めながら、水筒から水を飲む。
顎紐を外すと笠を脇に置くと、少し遅い時間になる昼食を済ませた。
その後、着崩れた着流しをそのままに、少々だらしがない格好で暫し横になる。
陽除けのつもりか、笠を顔の上に乗せて。
穏やかな風にそよがれ、暫くうとうとしていたが、十分に休息を取ると起き上がり身支度を整え、彼女はまた平坦な景色の中を歩き始めた。

陽差しが右手側に傾いた頃、振り返ると一本木が今は遠く、ぽつんと目立つ小さな草木程に感じられる。
随分と歩いた気がしたが、未だ遠く霞む小高い山は、此処より見える高さを全く変える気配は無い。
辿り着く為には、黙々と脚を動かす他に方法は無さそうだ。
乾いた土を踏み締めて、ひたむきに歩を進め。
やがて、徐々に傾いた陽差しが地に沈み、それに呼応するかのように、零れた染みの如く広がる闇が空を覆う。
ざわざわと草を揺らす湿った風の中、明かりも灯さず、ひたひたと娘は歩く。
まるで見えているのか、眼下まで満ち溢れた暗闇の中でも、道を違える様子はない。

暗い道筋を、どの位歩いたのだろうか。
足を止め、何かを探すかのように、辺りをきょろきょろと見渡す。
ある方向を見定め、再び街道を逸れる。
草を踏む感触を頼りに、少しゆっくりと。
程なくして、目的のものが見つかったのだろうか、手を伸ばすと、ごつごつした硬い手触り。
女は岩肌がそこにある事を確認すると、ぐるりと岩の後ろに回り込み、荷を解いた。
取り出した敷物を広げ、風で飛ばぬよう荷で抑え、次に腰に差した朱塗り鞘の長脇差を、帯からするすると引き抜くように外し。
これも敷物の上にぽんと置き、風呂敷包みに手を伸ばした。
暗がりでも手慣れた動作で、火口箱から石と鉄を取り出し、打ち付けて火種を作ると、風で消えないよう、慎重に蝋燭を手で覆いつつ、火種を移す。
ふわり、と柔らかい光が灯る。

途端に、右側から足のようなものが見えた。
光源に気が付いた何かが、こちらを向く。
ぼろを纏う、ずんぐりした一つ目の奇妙な生き物が、ギャッと叫び、のたのたと走り去った。
左側は背の低い草が生い茂る草原。
一つ目の生き物が居なくなった後は、右側も同じような景色が広がり、さわさわと、草々に照らし出される風の足跡だけが揺れている。
見上げれば、虚空。
今にも消えてしまいそうな程に乏しく、とても小さな光を延々と吸い込み栄える、膨大な闇が辺りを包み込んでいた。
背後には、長い間風雨に曝され、苔生した古い岩が、崖と見紛うばかりに映し出される。
さほど大きくはない岩のようだが、夜闇にぽつんと灯るちっぽけな光源では、その全容を窺い知る事は出来ない。

草鞋と足袋を脱ぎ、得体の知れない生き物に全く動じなかった女は、敷物に上に座る。
足を投げ出した姿勢で、脚絆を脱ぐ。
そして、綺麗に折り畳まれた手拭いを袂から取り出すと、風呂敷包みの中に仕舞い込んである水筒を手にすると。
傾けた水筒から水を零し、湿らせた手拭いを絞り、躰を拭く。
髪、顔、襟元、脇、太腿、脛、それから、足先。
暫しの間足を延ばし、摩ったり揉んだりした後、彼女はかなり遅くなった夕食の支度を始めた。
先ず、手頃な石を拾い、上に蝋を垂らす。
溶けた蝋の上に蝋燭を立て、頼りない灯火を手掛かりに、近くの剥き出しの岩場に火種を置く。
その上に薪を積むと、石で取り囲み、懐から扇子を取り出し、ぱたぱたと仰いだ。
じわりじわりと煙る香りが、やがてぱちぱちと木の爆ぜる音に変わり、薪の隙間から焔が巻き上がる。
火を取り囲む石の上に、水筒から水を移した小ぶりな鍋を置き、じっくりと待つ。
待つ傍らに、小さな箱一杯に詰められた米の飯と、少量の菜を、欠けた茶碗に盛った。
手持無沙汰となり膝を抱えて焚火を眺め、暖を取っていると、鍋がぷつぷつ音を立て始める。
湯が沸くと早速にも夜闇の中で、凍えるように冷え切った飯に小さな柄杓で湯をかけ、細長い箱から取り出した箸で、温まった飯をほぐす。
ざくざくと粗方ほぐし終え、軽く混ぜると茶碗に色付きも良く、柔らかそうな唇をゆっくりと近づけ、ふうふうと吐息で立ち昇る湯気を払う。
そっと確かめるように香りを嗅ぎ、音を立てずに啜り、菜を齧る。
湯戻ししただけの米はやや硬く、浮き混じる干しただけの、安物の菜の苦味は、然程美味とは言えず。
漸く一息つける食事に、彼女の表情はあまり変わらない。

体が温まり、薪もその役目を終え、うっすらと燃え尽きようとしていた頃。
食事を終え茶碗と箸を片付けたカヤは、小柄で白木を削っている。
それは、掌に乗る程の、小形の独楽を模っていた。
風に押される、弱々しい薄明かりの中で、薄暗い手元をじっと見つめ、擦り下ろす様に削り出してゆく。
丹念に削り上げると、積んである白木の中からもう一つを手に取り、小柄を当て。
華奢な指が白木と重なる刃を押す度、微かに軋む音と共に、薄く滑った木屑がはらりと宙に舞う。
ふうわりと浮いたそれは、風に靡きゆらゆらと翻る影を映しながら、一つ、また一つと折り合わさるように虚空を降りてくる。
徐々に積もるそれらはまるで、大空を行く翼から舞い落ちた羽のようにも見えた。
過ぎ行く時間と共に、幾重にも重なり合い、軽く密かに積もりゆく。
そして時折走り抜ける、一陣の風に攫われた翼の欠片は、一瞬で草原の向こうまで吹き荒び、闇夜の中で共に踊り狂うのだった。

か細い光源の中、時間を掛けて独楽を削り出す。
幾つかの白木から独楽を模ると、カヤは手を止め、微かに吐息を吐く。
疲れたのかうんと伸びをし、袋に独楽を無造作に放り込むと、小柄を仕舞い込み、忙しくはためく蝋燭の方へと顔を向けた。
手元に引き寄せた朱塗り鞘の長脇差をしっかりと懐に抱き、娘は形の良い唇を尖らせ、ふう、と蝋燭の火に吐息を吹きかける。
たった一息で、弱々しい光が辛うじて守っていた視界に、闇がその領域を拡大させた。
しかし、同時に静寂が訪れた、とは言い難い。
そこかしこに鳴り響く、ひゅうひゅう、ざざざと風が、草原を忙しなく駆け回る音。
夜が更けても目に見えぬ踊り手達が、舞台から降りる様子は伺えず、周囲の暗さがより一層、その足捌きによるさざめきを引き立てている。
だが、彼女は大して気にした様子もなく。
被りっぱなしだった笠を、今思い出したかの様に脱ぐと、散らかる木屑と、やや乱れた着衣をそのままに、瞼を閉じて横になった。



――――――――(2)――――――――



夜が明ける。
終わる事の無い昼夜の逆転劇が、音もなく静かに繰り返されていた。
徐々に空に広がる陽差しが居座る夜闇を駆逐し、その勢力は視野に色と光を取り戻す。
草原の中で煩く駆けていた風は、不思議と鳴りを潜め、驚く程しとやかで貞淑な足音へと変わり。
朝を告げる鳥の声は遥か遠く。
今日という日もまた、大いなる自然は何周期と変わり映えのしない営みを見せるのだろう。

昨夜の小さな灯火の中、切り立った崖の様に見えた岩肌は、背よりも少し高い程度であった。
登る気になったならばよじ登る事も出来たに違いない。
その岩の隣。
敷物の上に無造作に転がっていた娘、カヤは唐突にむくり、と起き上がる。
顔の上に載せていた笠がぽろりと落ちた。
髪を乱雑に手櫛で梳き、手探りで水筒を探し出し、ひと口水を飲み、手拭いを湿らせて顔を拭く。
袋から取り出した干した果物を少し齧り、朝食とする。
その後、敷物を畳み、解いた荷を風呂敷包みに仕舞い、背負い込んだ。
再び手櫛で髪を梳くと笠を被り、昨夜歩いた道へと歩む。

暫く道なりに歩くと小高い丘に差し掛かり、彼女ははたと足を止めた。
緩やかな道を登り終えた直後、景色の良い下り道、足元の切り立った崖下に、もう一つ道が見える。
道は先が見えぬ程曲がりくねっており、どこまで続くかの見通しが立たない。
すぐそこに見える崖下の道を見、娘は思案した。
飛び降りるには少し高いが、上手く伝えばすぐにでも降りられそうな高さ。
崖下を覗き見、下の道とその高さを確認し、道の先に何度も視線を送る。

やがて、道に後ろを向いて屈むと、崖の縁に生い茂る草を掴み、足から崖に下り始めた。
両手で草を掴み、右側の足を何とか取っ掛かりの上に乗せる。
踏み場を確保しようと、何度も蹴る様に左足を伸ばす。
ふと、顔の左横の掴めそうな位置に出っ張りがある事に気が付く。
左手を放し、その出っ張りを掴もうとしたその時。
草を掴んでいる筈の、右手の上の方からぷちり、と音がした。
そしてすぐにやって来る、ゆっくりと体が後ろへ傾いてゆく感触。
慌てて腕を伸ばすと崖を掴み、両足の裏を崖に着け、踏ん張るよう構えたが、既に崩れた姿勢で勢いは止まらない。
そのままの姿勢でずるずると滑り――。

――ぼたり。

柔らかい肉と土とが会合する、やや情けない音が鳴り響く。
想像とは随分と違う形で地に着いた彼女は、尻餅をついた姿勢で固まっていた。
膝を立て、足を開いたまま、腕は肘を曲げて胸の高さで宙をさ迷う。
掴む物が無い手は、所在無さげに開いたままだ。
はらりと散る草が宙を舞い、欠けた小石が一つ、落ちてきて笠を打つ。
こつん、と音がした後、小石はからからと地に転がり、散らばる他の石の中に紛れ込んだ。
カヤは立ち上がると、ばつが悪そうにきょろきょろと辺りを見渡すと、視線を先程まで居た上の道へと這わせる。
下から見ると、頭の少し先に千切れた草が見え、すぐにでも登れそうな事が伺えた。
これなら飛び降りても怪我はしなかったであろう崖。
その口が不満そうなへの字口を形作り、裾に着いた土を払い、気を取り直した、とは言い難い顔つきで彼女は歩き出す。
行く道すがらに何度も振り返り、恨みがましそうな視線を、ちらりちらりと崖の上に向ける。
その後ろ姿は、手で軽く尻を摩すっていた。

丘を越え、緩やかに蛇行する街道を歩く。
背丈より高い草の向こう、さらさらと小川の流れる音がした。
娘は音のする方向を確かめるように、長い耳をぴくりと動かす。
草を掻き分けて進むと、敷き詰められたように小石の並ぶ川原が広がっている。
笠を脱ぎ、水辺に近づくと荷を解く。
懐から手拭いを取り出し、水に浸してから絞り、陽差しにきらきらと輝く銀の髪を、湿った手拭いで何度も磨くよう丹念に拭いた。
先程とは打って変わり、カヤは目を細めて満足そうな笑みを溢す。
道中合羽と羽織を、投げ捨てるように脱ぎ、腰の帯を解いた。
遠慮なく着流しをすとんと落とし、脚絆を脱ぐと、彼女はさらしと下帯だけの姿となる。
先ず顔を拭き、続けて細くしなやかな二の腕、白く繊細な背中、見栄えのするふくよかな胸、艶めかしく括れた腰と、順に濡れた手拭いで、躰を拭いてゆく。
最後に、見惚れるような滑らかな太腿、引き締まったふくらはぎを通りつつ足先を拭くと、川辺に落とした衣服を身に着けた。
身なりを整え、撫でるように髪をかき上げる。

水筒の水を入れ替え、手拭いを水辺で洗い折り畳むと袂に仕舞う。
そして草の前に落ちている笠を拾うと、娘はがさがさと草を掻き分けて街道へと戻った。
陽差しは頭上に差し掛かっていたが、昼食はまだ摂っていない。
この辺りは、道一杯に敷かれた石畳へと変わり、整備されているようだ。
随分と歩きやすくなった道の、向こうから歩いて来た旅人と一人、擦れ違う。
頭巾を目深に被った、顔に傷のある男だった。
互いにさして挨拶も無いまま、二人は通り過ぎ、距離を更に引き離してゆく。
男の歩いてきたその先に、集落のようなものが見える。
彼女は視線を少し上げ、少しだけ歩みを早めた。

集落へと立ち寄る事にしたカヤ。
通りに面した小さな宿場通りにて、休憩がてら広場までぶらぶらと歩く。
広場に辿り着くと、何やら大きな喧噪で湧き上がっていた。
到着するなり、早速近くの木にもたれた娘は、それを面白そうに眺め始める。
旅の冒険者らしき二組の徒が、何やら言い争い、威勢の良い啖呵や怒声が広場の空の奥まで響き渡り。
集落の者達は巻き込まれるのを避けるよう、我関せずの態度を貫いており、喧噪は収まる気配を一向に見せていない。
怒声は更に強くなり、手前に居た、嘴の様な兜を被る男が娘に声を掛ける。
「もう我慢ならねえ!
オイ其処の女、ソレを貸せッ!」
カヤが腰に差した長脇差の事を言っているのだろうか。
激昂した男達は、鎧兜に身を包んではいたがその全て丸腰であり――恐らく帯剣したまま、集落には入れて貰えなかったのだろう――その中で嘴のような前面に迫り出した兜を被った男が、朱塗りの鞘に向けて、早く渡せと言わんばかりに手を差し出す。
それを見て、朝露の隙間をさらりと撫で抜ける、そよ風の様な声で女は答えた。

―――――――あっしの商売は 貸し物屋じゃあねえんです 腕の方でして へい
―――――こんな物でも 大事な 商売道具でしてね
―――折角ご所望の所 大変申し訳ねえんですが 他所をお頼りくだせえ

「ふざけるな!
腕が売り物だとぉ!?
どんな腕前だか知らんが、やれるもんならやってみろ!」
男の怒りの対象が、見物していただけの筈、のカヤへと移る。
激しい怒気に曝されながらも、怯えた素振りすら見せない彼女は、おもむろに袂から小さな白木の独楽を取り出し、掌の上で転がす。

―――――――へい そういう事でございやしたら お前様方
―――――こいつで あっしの腕前を とくと御覧くだせえまし

興味と好奇心、そして当惑の視軸を思うさま集め、懐から細い紐を出し中央の芯の根元から、紐を回すように掛けてゆく。
手早く紐を巻き終え、無造作に真上へと独楽を投げる。
その拍子にばさり、と袂が羽ばたくような音を立ててはためいた。
追うように、皆の視線が上へと上がり、独楽を追う。
ふと目を下に戻すと、いつの間にか、娘は朱塗りの鞘から刀身を抜き、構えていたのだ。
――いつ抜刀し、構えたのだろうか?
知らぬ間に眼前に突き付けられた、陽差しに鈍く光る艶やかな鋼の色に、男達はどよめき、慌てふためくように一歩下がる。
それを見て娘は、笠の向こうで独りほくそ笑むと、くるりと刀身を回す。
空に放たれた独楽は、そのまま回りながら勢い良く、刃の上へすとんと乗り着けた。
見せ付ける様に左右にゆっくりと振り、女が軽く腕を動かしゆっくりと刀身を傾ける。
すると独楽は刃から物打ち、ふくらへと滑る様に進んでゆく。
独楽の位置に合わせながら刀身を傾け、ふくらから切先へと進めると、そこでぴたりと止まった。
その後長脇差を再び回し、皆の目線の高さへと切先を下げたが、独楽は揺れも傾きもせずに、くるくると回り続ける。
全く動じず、手慣れた様子は見事だが、一同はまだ娘が何をしたいのか掴みかねていた。
切先で直立する独楽に皆からの視軸が集まり、カヤは唇の端を笑みの形に吊り上げ、声を立てず密かに笑う。
伸ばした腕を軽くしならせると、唐突にひょい、と宙に浮く独楽。
それは勢い良く飛び、嘴の様に迫り出した兜の先に乗り上げてしまった。
直後、悪びれもしない、晴天の夜にそよぐ爽やかな風の様な声が男の耳朶に届く。

―――――――おっとと 失敬失敬 こいつぁいけねえや
―――――卒爾乍ら お前様 どうかそいつを 捕まえておくんなせえ

まるで失敗したと言わんばかりの口調だが、その声色に詫びや謝罪の意志など一遍も含まれていない。
笠で隠された目元より、読み取れる感情こそ不明だが、その目元が想像出来よう程には、彼女の口元は悪戯心に満ちた微笑みで満たされ、その意図は誰の目にも明らかであるように思われた。

「何だッ!
こんな物!」

一度だけ大きくどよめいた後、沈黙を守る観客の前。
頭に血が上っている男は、被っている兜の先にちょこんと乗せられた、しゅるしゅると小さな音を立て、回り続ける独楽を掴もうと手を伸ばす。
すると、勢い余った独楽は、まるで迫り来る手から逃れるように、宙に舞う。
掴み損ね空を切った手が、何くそこの野郎、ともう一度追い、惜しくも指先が触れようとした瞬間、嘲笑うかのようにぽとりと落ち。
地に立った独楽は、回りながら幾つかに寸断され、男の足元で散り広がった。
一つが二つに、二つが四つに、四つが八つに。
風に揺られたかのように、はらりと分かれ全てが地に伏せ、花弁の様な様相となる。
ほお、と誰かが感心したかのように唸り、幾人かが感嘆の吐息を漏らす。
先程まで独楽であった木片。
それがまるで、最初から花開く蕾であった様な感覚を、一同は感じていた。

―――――――ふふ お粗末様でございやした

女は目深に被った笠の下から、僅かに揶揄うような笑みを溢しながら言う。
握っている長脇差をひらりと翻すと、一瞬、きらり、と陽差しを反し、刀身は目立つ朱塗りの鞘に収まった。
目の当たりにした事を、夢でも見ているのかと、未だにきょとんとしている一同。
兜を被った男は、手が空を切った姿勢のまま、美しく開いた独楽の残骸を、じっと見つめている。
呆気に取られている男達に、カヤは再度声を掛けた。
着流しの袖に包まれた細腕を、ぽんぽんと軽く叩きながら。

―――――――それでお前様方 あっしのこの腕前 御幾らの値を付けて下さるんで?

暫くの沈黙の後、兜の男が屈み込み、娘が足元に咲かせた花弁に手を伸ばした。
一つ木片を摘み上げ、何度か手の上で転がし、穴が開く様に見つめ。
幾許かの時間、思案と逡巡を巡らせた後、にこやかに話し始める。
その声には、先程までの怒気は含まれていない。
「……そうか、――そうか、そうか。
何だ。
成程な、女、お前旅芸人かよ。
良い腕してるじゃねえか」

―――――――へい 恐れ入りやす

旅芸人。
その一言に、反射的に返事はしたものの――娘は浮かべていた愛想笑いを少しだけ硬くする。
彼女流の挑発は失敗に終わり、旅芸人の芸の披露という認識をされてしまう。
上手く意図を汲んで貰えなかった事に、人知れずカヤは落胆した様子であった。
剣呑な空気に包まれていた先程とは打って変わって、一気に和やかな場となる集落の広場。
あっという間に花弁の周りに人だかりが出来、皆木片を拾ってはしげしげと眺め、口々に元の形を隣の者と話し合う。
売りたいのは芸では無かった筈だが、どこで何を間違えたのか。
技の腕前を見せて喧嘩に加担し金を貰い、明日の昼飯代、巧く行けば長脇差の砥ぎ料を稼ぐ目論見は、ここで御破算になってしまったようだ。
どうにも金をせびれる様な雰囲気ではない。
色々と失敗を感じたらしい彼女は、独楽の残骸に人だかりだ出来ている内に立ち去ろうとする。
一歩、二歩、三歩と、忍ぶような足運びでしめやかに下がり、人波から外れた娘は髪をかき上げ、用の無くなった広場に背を向けたその時。

「おい。
ちょっと待ってくれ」
広場から立ち去ろうとしたカヤの背に、別の男の声が届く。
それが聞こえたのか、ぴたり、と足を止めた女は、ゆっくりと振り返る。



――――――――(3)――――――――



「さっきはすまない事をしたな、うちの者が迷惑を掛けた。
最近は同業者が増えたもんだから、縄張り争いがキツくてな。
さっきの奴等とは、お前のお陰で穏便に話が付けられたよ、ありがとう。
ところで、お前、旅してるのか。
どこに行くんだ?」
振り返ると、先程とは違うの一人が男が、兜の面頬を上げ、話しかけてきた。
後ろには幾人か、似たような格好の男達が立っている。

―――――――あすこに見える山の向こうへ ちょっくら野暮用なんでさ へい

返事を聞くと、男は少し待てと身振りで伝え、背後に控える男達と話を始めた。
ぼそぼそと時折聴こえてくる話を聞く限りでは、敵対する意志や騙すような意図は感じられない――どうやら、彼女が望んでいる揉め事の類ではなさそうだ。

退屈そうに木の幹にもたれ、話を終えるのを待つ。
この集落に昼飯に食えそうなものがあるか考えていると、男は再度振り返り、娘に語り掛けた。
「さっきの芸の代金、まだ払ってねえだろ。
礼代わりに、という訳でもねえが、俺達の移動と方向が同じみたいだし、この先の町まで送ってやるよ。
ああ、心配はいらねえ。
団長がお堅い性質からかもしれんが、俺達はこの辺りじゃ、比較的お上品な方でな」
お上品、というのは寝込みを襲ったり、送り狼のような真似はしない、という事だろうか。
物々しい様相からして、人畜無害では無いが、また悪党でも無いようだった。
手慣れている様なら懸賞金も掛かっているだろうし、娘の商売柄そちらの方が、斬り倒せば金も貰える上に手っ取り早く、気張らずに済む分楽で有難い話なのだが。
目深に被った笠の向こうで、口を少し尖らせていたカヤは、再び愛想笑いを浮かべ、答えた。

―――――――これは申し訳ねえ そういう事でしたら 遠慮なくご厄介になりやしょう

返答を聞き、男は朗らかに笑う。
「そうか、すまないな。
……ああ、さっきの芸、頼めばまたやってくれるのか?」
少々遠慮気味の問い。
後ろに立つ男達の気配に、ぐっと力が入るのを感じた。
もしかしたら、そっちの話が本命だったのかもしれない。
彼女は愛想笑いを崩さず、暫し黙って思案しているかのように見えた。

―――――――へい 相応の銭さえ御用意頂けりゃあ お見せいたしやすぜ

料金もある程度確保してくれているのだろうか。
断る理由も無いが、技を披露するからには、金は貰いたい。
暫し逡巡の後、そのような意図を込めて、カヤは返事を聞かせると、おお、と男の背後から喜びの声が上がった。
安堵の吐息を吐くと、話しかけてきた男は心情を吐露する。
「ふう、助かったぜ。
丘も海も、道中の退屈さは如何ともし難いからな。
話はまとまったし、次の町まで俺達の組織と行動を共にしてもらう。
賃金は――そうだな、三食の飯と旅芸に使用した道具の代金でどうだ。
後は、乗り物で運ぶから、それもか」
運んでくれる上に、食事と多少の金が出るらしい。
正確な条件を掲示され、懸念と反対する理由の無くなったカヤは、素直に頷いた。
「これで契約成立か?
短い間だが、しっかり頼むぜ。
ああ、俺達の組織は石巌の兎って言うんだ。
……よろしくな」

―――――――こいつぁどうもご丁寧に へい あっしはカヤと申しやす

軽く名乗り、挨拶を交わした後。
食事を済ませる事を伝え、広場を離れる。
親切にも男達は食事が出来る場所を教えてくれた。
また、先程も聞いた石巌の兎という組織の支度が出来れば、呼びに来てくれる旨を伝えられる。
広場より少し離れ、集落の住人が集まる際に使うらしい、広々とした建物の中へと向かう。
そこでは、大人数で訪れた来客の為、住人総出で貸し切りになっている様子であった。
単独で訪れた者にも食事を提供してはいたが――普段より組織や組合に参加していない、単なる旅人である彼女は、貸し切りの料金に含まれておらず、有料だと言う。

品はその時その時で集落にある物を使ったものしかなく、粉を水でこね、膨らませて焼いた物、そして味の濃い汁が今日の昼食となった。
尋ねると、焼き物に汁をかけて手で食べる物であるらしい事が分かる。
彼女の両手で掴むには余る、やや分厚い大きさの焼き物。
摘まんで引けばぴりぴりと裂ける生地の塊は味が薄く、上からかけるたれの味がとても濃い。
娘にはどうにも不揃いの味を、無理に合わせている様に感じられた。
口の中で、別々の物を噛み締め食べているような。
およそ好みに合うものでは無かったが、しかし全く食べれない味、という訳でもなく。
それよりも、食後の茶が思いの外美味で、何度も尋ねられた主食であろう焼き物とかけ汁の追加よりも、そちらの方で腹を膨らませる事となった。
すっかり遅くなった昼食の後、ゆっくりと茶を愉しんでいると、先程とは違う鎧の男が呼びに来る。
移動の支度が出来たらしい。
カヤは茶を気に入ったのか、おもむろに荷の水筒から、水と茶を入れ替え、その後手慣れた様子で旅支度を整えると、案内の男の後を付いていく。
帰る間際に置いた貨幣に集落の住人が気付き、店の中が一時騒然となったが、原因となった娘は素知らぬ顔で出てゆくのであった。

食事を済ませた建物を出て、道なりに進むと、鎧兜に身を包んだ集団と出会う。
集落の出口近くに、道を塞ぐかの如く、幾つもの荷駄を運ぶ車が停めてあった。
大きな声で指示を出す者、積み荷を荷駄に乗せる者、点呼する者など、様々な役割で働き、支度をする者達でごった返している。
これが石巌の兎と言う組織の者達なのだろうか。
案内する男はその横を通り過ぎると、建物の影へと入った。
そこには、支度が終わって出発を待つばかりの荷車が停めてあり、その大きな幌の付いた車の後ろに、一つの軸の上に二つの車輪が付いた、木枠で組まれた箱が繋がれている。
覗き見れば箱の中には、干した草が敷き詰めてあった。
「丁度空いた所の荷車で悪いが」
それが精一杯の気遣いだ、と言うような態度で案内人の男は言う。
木枠の箱――荷台の中は、彼女が寝転んでも左右に寝返りが出来る程には広さがあり、窮屈な思いはせずに済みそうだ。

―――――――とんでもねえ あっしみてえな流れ者にゃぁ これで十分でさ

言いながら彼女は縁に手を掛け、地を蹴ってひらりと舞い上がる。
脚が天に向かい、雲を突き抜けるかのように伸び、逆さになった笠から零れた銀髪が輝く。
宙に浮き、くるりと体が回った次の瞬間、カヤは干し草の上に立っていた。
大きな軋みを上げ、荷車が揺れる。
「気に入って貰えたなら結構。
……ああ、そうだ。
賊を見かけたら、ちゃんと声を上げて知らせてくれよ。
その程度からも守れませんでした、なんて事になりゃ俺達の沽券に係わる」
彼は背を向けたまま、カヤに向けて片手を上げ、繋がれた幌の付いた荷車に乗り込む。
幌の向こうから、若干の会話が聴こえ、その直後にどっと笑いあう、賑やかな話声がする。
「私達は最後尾の列だから、もう少しだけそこで待っててね。
その内、順番が来ると思うから」
笑い声が止むと、幌の中からまた別の女の声がした。

へい、と短く娘は返し、ずっと立っているのも手持ち無沙汰であったので、干し草の上に座る。
当分する事も無さそうなので、背負っている風呂敷包みを降ろし、それも干し草の上にぽすん、と置く。
暫く両手を腰の後ろに付き、足を投げ出すような姿勢で座っていた彼女だったが、やがて笠の顎紐を外すと、顔の上に載せて横になった。
暫くぼんやりと出発を待っていた娘は、ふと何かを思い出したかのように起き、動き出す前にと白木を取り出し、独楽を削り出す。
荷車に乗ってから後、白木から独楽を二つ三つ個削り出せる程の時間が、たっぷりと過ぎ去る。
カヤが独楽を削るのを見た、手先の器用さに自信のある、荷車の連中の一人が、暇潰しに、と二つ程手伝ってくれた。
重心が少し違うが、これ位なら十分に使える出来映えだろう。
柔らかな笑顔で娘は丁寧に礼を延べ、削った独楽を布で少し磨くと、風呂敷の中の包みに放り込む。

更に少しだけ時間が過ぎ、陽差しがやや傾いてからの時刻。
漸く最後尾の隊が出発出来る様になった、という知らせが入ったようだ。
幌の中から聞こえた声によれば、これはまだ早い方らしいが。
大きな軋みと共に、大地を踏みしめて、ごろごろと車輪が転がっていくのを感じる。
動き始め、揺れに慣れるまで縁に捕まる彼女の乗った荷車は、道の凹凸に従い、時には小さく、時には大きく揺れて集落を離れてゆく。