2020年1月14日火曜日

ブログ小説 縁切徹 第一話 揉め事探し(3)

【ブログ小説】

R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

揉め事探し(3)



――――――――(1)――――――――



傾いた陽差しが地平線を白く染め上げる頃、先程までいた集落はもう米粒の様に小さく見え、視野の中から遠く消え去ろうとしている。
もう暫くもすれば完全に見えなくなるだろう。
エルヴン族の娘を載せた、粗末な木枠の箱で造られた荷車は、ゆったりと街道を進む。
一行の隊は、走るのよりは遅く、歩くよりは早かった。
しかし、想像していたより速い速度で景色が流れてゆく。
本気で走れば楽に追い越せるだろうが、一昼夜この速さで走り続ける事は適わないだろう。
干し草の上で座る彼女はと言えば、陽差しが暑いのか脱いだ笠を再度被り、荷車の上で大人しく揺られていた。
出発前、水筒に淹れた茶は既に尽きている。



陽が暮れる前に、一行は街道を外れ、草の無い痩せて開けた土地へと辿り着く。
荷車を集めた石巌の兎の団員達は、そこで野営の準備を始める。
一応雇われてはいるが、旅芸人と思われているカヤは、支度を手伝うようには言われなかった。
もっとも少人数なら、手伝わざるを得なかったかもしれないが。
親切にしてくれた荷車の主達は、荷車を降り火を起こし、大きめの釜で湯を沸かしている。
手が空いている幾人かが縁に腰かけ、話に興じてもいた。
歩き回って盗人と思われては敵わない。
繋がれた粗末な木枠の箱の中に座り、じっとその様子を眺めていると、主達の目の届く範囲なら好きにしても良い、と誰かが伝え、暇を持て余していた娘は荷車を降り、辺りをうろつく事にしたようだ。

乗った時と同じように手を掛け飛び降りると、ぐるりと主達の荷車の前に回る。
何かしらの生き物に引かせているのかと思えば、大きな壺の様な物が繋がれていた。
暫く大きな壺をじろじろと眺め、軽く撫でたりしてみたが、不思議とその様子を見て咎める者は誰も居ない。
触る位は問題無い物なのだろうか。
小突くと鉄の様な音が鳴るが、肌触りは岩肌のような感触。
その壺は曲がった二本の脚が伸び、倒れないのが不思議になる程、危うい立ち方で地に足を付け立っており、地肌には大きな模様にも見え、印の様にも見える者が幾つかの場所に浮き出ている。
魔法にしろ絡繰にしろ、知識を持ち合わせていない彼女は、気の済むまでぺたぺたと触り調べようと試みたが、結局これは何なのかはまるで分からず、判別には至らない。
カヤが立ち去ると、壺らしき物の下部には、彼女の手の跡が沢山残っていた。

さして時間も経ずに周辺の見物はすぐ終わってしまう。
興味を引く珍しいものは、大きな壺しかなく、それも触り飽きたので元々、する事があまり無いカヤは結局、直ぐに粗末な荷車に戻り、飛び乗って煮炊きする釜を眺め、時間を潰すことにする。
昼と夜が入れ替わる時刻、薄闇の中で話し声とは別の、様々な音が賑やかに振舞う。
赤々と燃える木の爆ぜる音、釜の湯が煮える音、材料を放り込む音。
暫くすると、肉と菜の煮える香りが漂い始める。
火の周りを囲むように幾人も集まり、朗らかな笑い声で釜から煮た物を器に盛りつけ、座って食べ始めた。
食事を持って来て貰えるという話だったので、粗末な木枠の箱に入り待ったが、そのような気配は微塵も感じられない。
こういう所で御厄介になっているとよくある話だ。
居候は後回し、という事だろう。
笠を外した娘は眺めるのを止め、木箱の中の干し草に横になった。



横になりうとうとしていると、食事の時間が過ぎたのか、朗らかに聞こえていた話声が控え目になる。
周囲では遠くの木々の枝をを揺らす風、荒れ地の周りの草のざわめき、釜の下でくすぶる薪の音が、娘には良く聞こえていた。
もう暫く夜の音に聴き入っていると、話し声も疎らになり、皆食事を終えたようだ。
足音が近づいてくるのが感じ、目を覚ます。
気配を隠すような歩き方ではない。
恐らく、石巌の兎の団員だろう。
笠を顔の上に載せたまま、干し草の上に寝転がり、カヤは気配が近づくのを待つ。
隠す気が無さそうな二人分の足音が止まると、その直後に木枠を叩く音がした。
「起きてるか?
遅くなってすまん」
男の声と、約束の食事が漸く到着した様子を感じ、返事代わりに彼女は起き上がる。
すると一緒に居た女が、こっちの汁はあたし達風の味付けで申し訳ないのだけど、と言いながら手にした物を差し出す。
小さな釜、その上に掌に乗る程の小さな皿、そしてなみなみと汁が満たされた深皿。
驚く事に、石巌の兎の団員達は、炊いた米を用意してくれていた。

―――――――いやあ こいつぁ ありがてえ

皿を取つつ小さな釜の蓋を開けると、中にはぎっしりと炊きたての米が敷き詰められており、ほかほかと湯気を立てる淡褐色の粒を見て、カヤの表情は明るくなる。
小皿の上には味噌に漬けた菜が、深皿には香りの強い汁が入っていた。
思わず転び出た言葉と、綻んだ娘の顔を見て、食事を運んできた女は楽しそうに言う。
「どう?驚いた?
今、あたし達の隊の中にエルヴンはいないけど。
石巌の兎に所属している団員は種族も様々だけど、エルヴンも多いのよ。
実はあたし達の団、あなたと同じエルヴンが創始者で、団長なの。
だから団員は皆、米の炊き方を教えられているわ」
そして女はあなたのお口に合えば良いけど、と付け加え、にっこりと笑った。
自身と同じエルヴン族が創始者の集団、と聞き及んだカヤは、自らの風習の幾つかを思い出す。

特異な風習を数多く持つ事で知られるエルヴン族。
大多数が最終的には、故郷に錦を飾る事を目的とするエルヴン族の渡世人達は、何時の日か一党一家の大親分に、という夢を持ち、収益の少ない団体や、稼ぎが割に合わぬ一団等には長く居られず、自身で組織を作り、そこの長として振舞い増収を図るか、資金効率の為たった独りで、俗世の荒波を渡っていく事を選ぶ者が後を絶たない。
何よりもその目立つ独特な風習が他と決定的に違うのは、エルヴン族は己の傘下に入った者の面倒を、ほぼ全て自身の収入で賄うという点にあった。
傘下の者は稼ぎを上に収め、働きに応じて目上の者が分配し、それを収入としてゆくのが主な方針であり、それが界隈で特に有名なエルヴン族の風習かもしれない。
大親分を目指して名声を高めてゆく内に、慕う者が増えれば増える程費用が嵩み、並の付き合いでは他種族の一団と、関係がうまく行かなくなってしまうのだ。
その所為か、他の冒険者同士での折り合いが非常に悪く、エルヴン族は同じ種で集まりやすくなり、風習や目的が違う、他種族と同じ組織に居る事は非常に稀、という話が通説となっている。

世間話がてらに話を聞けば、団長は性格的に非常に身持ちが固いが、大変に面倒見が良く、多くの団員に慕われ、団員達の実入りも良いと言う。
この数の人間を集めて金で雇うなり、また志を共にした仲間になったと云うのであらば、石巌の兎の団長はエルヴン族としてはかなりの異色であろう事が伺えた。
更に先程の言葉を借りるなら、他にも多くの他種族が居ると云うではないか。
同じエルヴン族の渡世人であるカヤの目から見ても、話を聞く限りではとても良い親分であるように思える。
その団長が大親分として名を馳せるのも、そう遠い日でないのかもしれない。

情報交換という暗黙の了解の元に行われる、和気あいあいとしたお喋りが一段落すると、頃合いを見ていたかのように男が口を開く。
「夜間は残念ながら警戒もあるから曲芸は無しだそうだ。
俺とコイツははまだ見てないから、楽しみだったんだがな。
飯は冷めないうちに食ってくれ。
それと……、だ。
今後はここで寝てもらって良いか?
すまんが、俺達も隙間に余裕がある訳んじゃないんだ。
流石に雨が降ってきたら、入れてやらん訳にはいかんから、その時は遠慮なくこっちに乗ってくれ」

―――――――へい 承知いたしやした

仮に降ってきても、彼女はここに居るつもりではあったのだが。
想像よりも手厚く遇して貰っている上に、食事は特筆すべき破格の待遇である。
反対する理由もない彼女は、快く返事を返す。
返事を聞くと、食べ易い様にと明かりを吊るす台を、木枠に取り付け、カヤに向かって手を振りながら、一組の男女は幌の付いた荷車へと乗り込んだ。
それらを見送った後、娘は小さな釜の方へ向き直ると、風呂敷から取り出した杓文字で、手持ちの器――持参の欠けた茶碗に暖かい米の飯を盛る。
手に取った茶碗から漂う米飯の香りを嗅ぐと、一旦干し草の上に置き、そして手を合わせてから、上機嫌で頬張り始めるのだった。



――――――――(2)――――――――



石巌の兎の団員達の朝は早い。
陽も出ぬ内から何らかの活動を開始する音を、耳聡く音を聞き分け、カヤは眠りから覚醒した。
身を起こすと、顔の上に乗せていた笠が干し草の上に落ち、ばさりと音を出す。
「ああ、すまん、起しちまったか?
飯が出来たら持って来るから、それまで寝ててくれて構わんぜ」
娘が身を起こした事に気が付いた団員の一人が、声をかける。
様子を察したカヤは、頷くと再び横になった。

空が白む頃、菜の煮える香りがふわりと鼻腔を擽る。
食事が出来たようだ。
にわかに騒がしくなった周囲を眺め、食事が運ばれるのを待つ。
恐らく、皆の食事が終えたら持って来てくれるのだろう。
昨夜の夕餉の時よりは静かな食事の時間が過ぎ去る。
予想の通り、片付けが始まる前に、彼女向けの食事が運ばれてきた。
「今日は朝と昼が一緒だ。
何時食べても良いが、失くすなよ」
忙しいのか、後ろに下がりつつ、娘を指差し指示を伝える。

どうやら夕飯まではこれだけだから、好きな時に好きなだけ食べろ、と云う事らしい。
受け取った小さな釜の中には、昨夜の夕飯より多い、淡褐色の米が湯気を上げている。
小さな壺は塩漬けの菜がこんもりと入っており、大きめの壺には、何と味噌汁が満たされていた。
……まだ温かい。
欠けた茶碗と、小さな柄杓で暖かい味噌汁を飲む。
思わずとろり下がる眉、うっとりと熱く潤む瞳、ほんのりと上気する頬。
こくこくと何度も喉を鳴らし、満足そうに開く濡れた唇から、ほう、とあどけない溜息が漏れる。
茶碗が空になると、物足りない、とばかりに小さな柄杓で再度器を満たす。
美味しそうに食事を進めるカヤを見ながら、通りがかる男達が遠目に話をしていた。
「エルヴンは本当にあれだけで良いのか?
俺からしたら、かなりの粗食に見えるんだが」
「全くだ。
失礼に当たらないか、もう一度よく確認しよう」



朝食が済んですぐ、最後尾の更に後ろ、車輪の付いた粗末な木枠の箱に乗せられ、カヤは街道を進んでゆく。
先日と違い、隊の進む速度は小走りより少し早い。
進む方とは反対を向いて座すと、遠くへ挟まれるかの様に移り行く景色。
後ろを向いた車上から見るその風景が珍しいのか、敷かれた干し草の上で、彼女は飽きる事無く眺めていた。
陽が頭上に差し掛かり、石巌の兎の隊は小休止を取る。
飯時の余興にと、隊に雇われた娘は、出番とばかりにあちこちに用意され火にくべた大釜の前で独楽を回す。
蓋を開け、ぐつぐつと大釜が煮られている最中、その縁に切先から移した独楽を乗せ、一周させて見せた。
そしてぐるりと縁を旅して帰ってきた独楽を、迎えに出した長脇差の切先の上へ再び乗せる。
乗せた独楽を、えいやっと裂帛の気合と共にすとんと落とし、その場で斬り開かれた華を咲かせた。
初めて見る者も、また二度目にその可憐な華を見た者も、その奇妙な技の前に声を上げられない。
が、食事の間はその技の華麗さについて何度も皆が口にし、彼女の技に感銘を受けたのか、翌日より石巌の兎の団員達の中で、腕に自信のある幾人かが、我こそは、と真似をし独楽を作り、紐にかけて回すのが流行した。
皆、平坦な場所でただ回すだけならば、器用な者ならすぐに、不器用な者でも少し練習すれば、一応の体裁を保てる程度には回す事が出来るのだが、しかし、剣や釜の縁となると、途端に落とす者が続出し、火にかけた鍋に幾つもの独楽が落ち、食材と一緒に煮られる事となる。
この騒ぎは、後日エルヴンの娘が隊を離れても、暫く続く事となった。

それから後、順調に旅は距離を稼ぎ、何事も無く街に着く。
歩かずに景色を楽しむ旅もこれで終わりだ。
カヤは車輪の付いた木箱から飛び降り、出迎えに来た者と挨拶を交わす。
生憎と降りそうな曇り空が天を覆ってはいたが、代表として見送りに来た男は、これは皆からの選別だと言い、報酬とは別に、銭の入った小袋を手渡し、それから興奮気味に彼女の技を褒め称え、手を握りながら別れを惜しんだ。

―――――――これはまた 随分と 世話になっちまいやして へい

荷車を降り立った娘は、軽く頭を下げた後、笠を右手で少し掲げ、目を合わせた。
親し気な、紅い瞳が見送りの男をじっと見つめている。
「また何処かで会ったら石巌の兎をよろしく頼むぜ、旅芸人。
俺達は、立ち上げて間もない、まだ小さな団だが、これから大きくなる組織さ、必ずな。
石巌の兎だ、忘れないでくれよ!」
別れを済ませ、歩み去る娘。
見送りの姿が見えなくなるまで、幾度も振り返りつつ会釈を行い、カヤの姿が街の本通り、まばらに道行く大勢の中に溶け込むまで、男は手を振っていた。



怪しい雲行きの上から一つ、二つ、と水滴が落ち、すぐに数を増すとより大きな音で、石壁と笠を叩く。
荷車を降り、目抜き通りを歩きながら街並みを物色していると、雨が降り出した。
腰に差す朱塗りの鞘を、我が子を庇うような姿勢で覆い、カヤは走り出す。
少し前までは賑わっていた大通りも、降り出してからというもの、先程まで大勢が行き交っていたのか疑わしくなる程、周囲の音は雨音が大きく響き渡る。

雨の中、炊事の香りに気が付く。
脇手に目を向けると、飯屋の印を掲げた建物が建っている。
隅とは言え目立つ大通りに面しながら、あまり客の入りが良くない店の様だった。
彼女の素早く交互に差し出す足が徐々に落ち込む。
風を切るような速足から駆け足、小走りから早歩きへと足を遅め、やがて立ち止まり、雨に打たれつつも得心する様に頷くと、その店の入り口へ向かう。
何時もの様にぽつぽつと戸を叩き、声を掛けつつ体ごと押し付けるような姿勢で、隙間を空ける。
空いた隙間に素早くその身を滑り込ませ、店内の様子を眺めた。
左手には調理場が見える細長い台に、六つの丸い腰掛けが手前から奥に並び、右手に目を向けると、八つ程四つ足の木の机が置かれ、二列に規則正しく並ぶ机の更に奥側、右に折れ曲がった壁の向こうにもう一つ机と腰掛が、この位置からは隠れるかのようにして様に置かれている。
もう夕刻、食事時になろうかという時刻だというのに、客は誰もいない。
気付かれぬよう小さく鼻を鳴らすと、ぽたぽたと雫を垂らしたまま、奥の席へと向かう。
元より長居するつもりは無いのだろうか、笠は外さなかった。

席に着くと、来客に気が付いた店番をしていたうら若き乙女がやって来る。
「いらっしゃいませ!
雨ですねぇ。
暖かいお飲み物などは如何でしょうか?」
屈託を感じさせない晴れやかな笑顔で、店番をしていた飯屋の娘は場を和まそうと声を掛け、注文を伺う。
飯屋の娘の他に、視線がもう一つ。

―――――――へい 左様で
―――――じめじめした 嫌な天気でございやす

緩やかな笑みで返し、軽い世間話の後、茶が欲しいと頼む。
小気味良い返事と共に、うら若き娘が厨房へと向かうと、その背後で何があったのか、彼女は再び鼻を鳴らす。
厨房の奥に隠れた若い男が、カヤを、そして腰に差した朱塗りの鞘をじっと見つめていた。
戻った娘に声を掛け何かを話し、その後安堵したのか、青年は他所の方を向く。
今は入り口の方をじっと見ているようだ。
それは、まるで店に来る者を見張るような視線である。

―――――――すいやせんが 飯と汁をお頼み申し上げやす

菅笠を被った女が、厨房に娘が入ったのを見るや否や、唐突に大きな声で注文を伝える。
茶の支度をしていた娘の、明るく心地よい返事が奥から響き、それと同時に、これに驚いたのか、青年が厨房の奥で大きな物音を立て、慌てふためく様が聴き取れた。
気配を探っていたカヤは、厨房に聞こえぬよう、小さくクスリと笑い、食事が届くのをのんびり待つ。
何故そんな事をしているのかは分からないが、青年は故在ってそうしているのだろう。
銀の髪の娘はもう一度、確かめるようにそっと、腰の獲物に手を触れる。
その姿はまるで屋根を踊り狂う雨足の調べを、目を閉じて聴き入っている様にも見えた。
暫く、厨房からの支度の音が響き、店内を満たす。

やがて、様々な香りが入り混じった、ひと皿が机の上に運ばれた。
食事を届けた飯屋の娘は、冷めないうちにどうぞ、と明るい笑顔で伝え、厨房へと戻ってゆく。
心地良さそうに雨垂れを聴き入っていた客は、ゆっくりと目を開き、皿に視線を投げかける。



――――――――(3)――――――――



それは、艶のある妙な色をした米粒に、赤茶けた汁が掛けてある物だった。
米粒は煮るか炊く際に味を付けているのか、柔らかいが若干香りが強く、また味も濃い。
その上にかけてある汁は、出汁が効き過ぎと言わんばかりの濃さで、酸味があり、塩気もまた多い為、そのまま飲むには苦労する様な味付けに感じられる。
しかし、米粒と汁を同時に匙で掬い、口に入れると風味は一変する――汁の塩気と米飯の香り丁度良く混ざり合い、酸味と香りの諧調が揃う、雅趣に富む甘い味となるのだ。
嚥下した後も、爽快な残り香が鼻腔を潜り抜け、次のひと掬いに焦がれ、心待ちにしてしまう。
何より、菜と肉の旨味が十分に汁に出てきており、これが味の付いた米飯と、調和の取れた風味が醸し出され、濃密な後味が舌先で踊る。
また、のっぺりとした汁だけなら、まず食す内に飽きもするだろうが、噛み締める度に味の沁み出る不思議な肉、ころりとした茸の薄切りや、煮えて萎びた柔らかい菜、芯まで火が通りほくほくした芋等、舌触りや歯応えを、十分に楽しませてくれる内容であった。
味も香りも、想像していたよりずっと良い。
成程、全くこいつぁ乙な味で、実に良く出来ておりやすね、と、ひと口食べ、カヤが頷く度に、ぽたりと頭の菅笠からひと滴、雨粒が落ちる。
飯の味を心行くまで堪能し、茶のお代わりを頼もうとしたその時、ふと目端に、新たな客が入って来るのが見えた。

――果たして本当に客であったのか。
三人程集まった男達のその見てくれは、どう解釈しても荒くれ者のそれであり、その者達が客で無い事を示すかのように、飯屋の娘の表情が一瞬で凍り付く。
男の一人が、何かを語りかけながら、うら若き乙女の腕を掴む。
耳を劈く様な悲鳴が店内に響き渡った。
一瞬遅れ、若い男が店の奥から飛び出してくると、招かれざるらしい客に掴み掛かつ。
「彼女に触れるな、放せ、やめろ!」
「何時もながら小五月蠅えガキだな、すっこんでろ!」

ほうら、始まった、と言わんばかりに、赤い瞳が愉しそうに揺れ。
喧噪をカヤは傍から眺めつつ、やおら食事を続け、残りの飯を丁寧に匙で掬い、口へと運び続ける。
平時ならもう少し、のんびりして居たかったのだが、どうやら茶まで楽しむ時間は無さそうだ。
その様子を伺いながら、ぼんやりと、最後のひと口を匙ごと唇で挟み、じゅるり、と吸い上げ、長い間ゆっくりと咀嚼し、最後の味を舌の上で楽しみながら、少しづつ嚥下してゆく。
最後にもう一度、すん、と鼻を鳴らすと、菅笠に隠れた向こうで瞳を細め、茶の飲むふりをして口元を隠しつつ、得意げに笑った。

密かに様子を伺っていると、狼藉を働き出した三人のうち一人が、目聡くカヤに気付く。
女と見て、たちまち風貌を弱者を嘲る様な目付きへと変貌させ、のっしのっしと肩を怒らせながら近づいてくる。
手元で隠した笑みの彫りが、ますます深くなろうとは、この場に居る誰も思ってはいない。
「嬢ちゃん悪りぃな、今日はもう閉店だよッ!」
案内された座席に辿り着くや否や、人相の悪い男はそう怒鳴りつつ、彼女の食事を終えたばかりの机を、ガツンと蹴り上げた。
衝撃が伝わり、勢い余った空の食器達が、音程の釣り合わぬ調べを奏で、派手だが出鱈目な舞踏を披露する。
倒れた水呑みの杯から、洪水の様に勢い良く水が流れ、机の上に染みを作った。
傍若無人な男の言葉からすると、もう出て行けという事らしい。
飯屋の娘の方に目をやると、怯えた形相で、何度も頷く。
それを見て、銀の髪の娘は素直に席を立つ。

立ち上がり出入口に向かおうとした途端、にやにやといやらしい笑みを溢し、反応を待ち伏せていた男が、突然カヤが被っている笠を掴み、捩じ切らんばかりの勢いで己の方へと向ける。
「――ッ!?」
しかし、女の顔を見た男は、驚いてすぐに笠を放してしまう。
か弱い女の怯えた様相を、更に脅して楽しみ、あわよくば――と思っていた男は、その表情から予想と宛てが、完全に外れていた事を知った。
「お……っ。
お前、何笑ってやがるんだ」
完全に気押されているのを感じてはいたが、それなりの見栄を守りたい、という自尊心が働き、大きな図体と凶悪な人相に似合わぬ、か細く鳴くような小声を何とか絞り出す。

―――――――へえ? お前様には そうお見えになるんで?

在る筈の色も、音も感じない、その声は凪を思わせた。
あまりにも無機質な、抑揚の無い返事が耳朶の奥に届くと、己にぶら下がっている自信が、きゅう、と縮こまってゆくのを感じ、恐ろし気に震える。
あの声を聞かなければ、いや、そもそもは、この女に関わろうとさえしなければ、このような思いはせずに済んだんだ。
そうだ、そうに違いない。
自らの意志で動かそうにも、震える手と膝は僅かにも動かず、まるで使い物にならず、何かしら得体の知れない、見てはならぬものを見てしまった、そんな不安と後悔が胸中に渦巻き、じっとりと心が黒く塗り潰されてゆく。
生と死の境界線、その狭間に、愚かにも、愚かにも自ら踏み込んでしまった事を、漸く男は感じ、怯え、身動きが取れなくなった。

死が 死が ああ 手の届きそうな すぐ傍で ゆらゆらと 揺らめいている
怖い 恐ろしい 帰りたい 果たしてどちらに 踏み出せば 助かるのか
あと一歩 誤って 間境を 踏み超えてしまえば 俺は――?

……どの位そうしていたのだろうか。
おい、何やってるんだ、と仲間に叱責され、はたと気が付く。
辺りを見渡すと、何時の間にか、エルヴンの女は何処かへと消えていた。
「何やってんだ。
これだけやりゃあ今日はもう十分だろう。
帰るぞ」
外に出るよう催促され、男は再度辺りを見渡しながら言う。
「なあ、ここに女が居なかったか?」
事情を説明し、客らしき女が何時の間にか居なくなった事を、掻い摘んで話す。
しかし、小馬鹿にするような笑いが仲間の返事であった。
「エルヴンの女ぁ?
おい、そんな奴居たか?」
「さあ、知らんョォ。
俺は見てねえな。
しかも消えたとか、ハハッ。
もしかしてお前、熱でもあるんじゃねえの?」
寝ぼけてねぇで帰るぞ、と足を蹴られ、恥ずかしそうに男はぽりぽりと頭を掻く。
アレは一体何だったのだろうか、そう思った拍子に突如、冷たい風が吹き抜け、身が千切れるような鋭い冷たさを感じる。
――寒い。
風が通り過ぎた後も身震いが止まらず、男は風邪でも引いたかな、と思う事にすると、本降りの中滴る地を蹴り、人差し指で鼻を拭きながら仲間の後を追い帰路に就いた。



密やかに店が荒らされる様子を聴きつつ、男達三人が出て行くまでを、飯屋の客であった娘は物陰から見届ける。
暫くして漸く狼藉者が去り、カヤは建物の間の暗がりから身を表す。
通りに顔を出し、きょろきょろと左右を見渡した後、しめやかな足取りで再び飯屋の入り口へと向かう。
入り口の戸を叩こうとして拳を作り、思い直したように手を緩め、扉を少し押し開くと中の様子を窺った。
ごく僅かな間内部を確認し、朱塗りの鞘と長脇差に触れ、感触を確かめたエルヴンの娘は、咳払いを一つ行い、戸口を押し開ける。
そこかしこに割れた皿が散らばり、ひっくり返された机や折れた椅子が倒れ、所々床板には穴が開き。
店内の様相は、つい先程までと違い、廃屋かと見紛う程に荒らされていた。
無事な所はカヤの居た、奥側位のものだろう。
奥の席の机の上は、暖かかった筈の食器が散らばり、冷たく置き去りにされたままである。
余程打ちひしがれているのか、再び訪れた客に、飯屋を営むうら若き娘も、その娘を守ろうと飛び出した青年も、気付いた様子はない。

所狭しと肩を寄せ合い、さめざめと泣く男女に、カヤはゆっくりと近づくと、屈み込んで声を掛ける。
夕暮れ時をささやかに過ぎ行く、優し気な風のような声が、二人を包んだ。

―――――――ふふ どうやら お困りのようで
―――――これはお可哀想に お前様方に纏わり付く 煩わしいその御縁
―――お望みでしたら あっしが斬って差し上げやしょうかい?