2020年4月24日金曜日

ブログ小説 縁切徹 第三話 刺客(4)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

刺客(4)



――――――――(1)――――――――



少しぬかるみがあるが、歩き難い訳では無い。
夜に入り小雨となった天候であったが、今はもう降ってはおらず、菅笠を叩く音は耳朶を打つ事も無く。
人気の無い納屋の前の道を少し進み、奥まった所。
すぐ先は道が細り、森に埋まってゆく細い道が続いている。
今、そこには湿った風以外訪れるものが居らず、揺れる小枝はその葉に蓄えた雫を、しとやかに落とす。
地に溜まる水の群れにひとすじの珠が落ち、混ざり合って見えなくなり、波紋を広げた。
そしてまた、閑静な森にまた一滴の、溶け落ちる音が冴えるように響き渡る。
行く末はただ静かに消え往く宿命を想わせる、寂しげな小道の途中、はたと足を止めたエルヴンの女は、脇の方を向く。
暗い中に、ざざ、と揺れる木々の音。
そして軽い、風が吹き抜けるような娘の声が、木陰に届いた。

―――――――申し 其処の御方様 ちょっくら御邪魔いたしやすぜ

「ほう。
よく分かったのう」
誰も居ない所に声を掛けた様に見えたが、返事が聞こえて来る――年寄りでは無いが、若くも無い男の声。
皺枯れ声でこそないが、口調は全く同じだ。
がさりと音がすると、木々の間から男が現れる。
彼は頭巾を被り、ゆったりとした袖の長い、薄暗い色味の衣服をその身に纏う。
それは夕刻辺りに斬った筈の、かつての年老いた者と同じ色形をしていた。
見た目の歳や容姿は、先刻より現れ続けた怪しげな者共と全く違うが、その意志、そして思考や目的が同じ存在、と見做しても良いのかもしれない。
「痺れを切らして出てきおったか、小娘。
儂としては何時でも構わぬぞ。
怖気付いたのなら、儂への非礼を詫びれば……。
そうさのう、今夜一晩位なら、見逃してやっても良いのじゃが」
例え今、すぐにでも地に頭を擦り付け詫びようが、見逃す気など毛頭無さそうな声色で、呪術師の男は言う。
脅しのつもりであったのだろうが、対する銀の髪の娘は全く動じていない。
暗闇の中、これまた愉しそうな、からかうような声色の風が戦ぐ。

―――――――そろそろ 見世物の御品を切らしたんじゃあねえかと 思いやしてね

口端を嫌らしく釣り上げた、カヤの言葉。
暗がりにあってもその憎々しい表情が、今にも伝わって来るかのようだ。
……直後、一瞬の間が空く。
良く見れば、暗がりにも呪術師の笑みが凍り付いている様を感じる。
そして、男から余裕を持った笑みが消え、荒々しい怒気が声色に乗って溢れ出す。
「わ、儂の秘術を見世物じゃとォ?
――抜かせッ!
儂の秘術はまだまだ尽きてはおらん!」
男が手早く印を切ると、その指先に光の珠が出来上がる。
当の彼女は、その術に何をする気も無いのだろうか、その様子を面白そうに眺めているだけだ。
見事な手捌きは、見慣れぬ者が見たならば、素早く手を振ったようにしか見えないだろう。
瞬く間に光の珠は数を増やし、呪術師の周囲を明るく照らす。
やがて、彼の秘術が現世に姿を顕わせ始めたのか、同時にざわざわと、草木が小枝や葉を揺らし始める。
その様子を見ても尚、ふふ、とエルヴンの女は軽く笑った。

―――――――明るい方が 見易くて 良うございやす

……鼻先でせせら笑う、銀の髪の娘の態度を見、再び間が空く。
かと思われたが、呪術師は間髪入れずに捲し立てる。
「かあああぁぁーーーーーッ!!
口の減らん小娘めえぇェッ!
魔の力と相性の良いエルヴンの癖に、印も意味をなさぬ程魔を大して扱えぬ、うぬに言われる所以など無いわ!
儂がただ明るくする為だけに、このような事をすると思うたかッ!?
戯け、うぬなぞ指の一指しで滅ぼせる、泡の様なものと知れィ!
この儂をあまり怒らせるでないぞ、愚弄しおってからに、度の過ぎた痴れ者めがァあ!

どれ程の刻を永らえ、魔を扱う技法を練磨して来たかなぞ、うぬは知るまいが、魂を集めるというかの魔女とて、未だ儂を滅ぼすには至っておらぬのだぞ!
噂に名高い彼奴めも、儂の業に恐れを成したか、幾ら理を破ろうとも一向に姿を見せぬ!
こ、こここ、この事が、この事こそ儂が、真に儂の偉大さを顕しておると、気付けぬかァッ!

儂は幾多もの死を乗り越え、遥か彼方から過ぎ去りし刻を追い、魔の力とそれを扱う術のォーッ!
常人には到底至れぬ、その神髄を極めた者にじゃ!
そのような者に不遜不埒な言動を行う、いや繰り返すとは、何たる不心得者かあァ!?
うぬこそ――うぬの方こそが、魔の導きを指し示すものの偉大さが分からぬ、戯者ではないか!
愚かしいにも程があろう!

い、いずれこの儂めが魔女に代わり、魔の導きを世に知らしめる存在なのじゃ!
それなのに、それなのに、ぐググぅぅーッ!
ッッ――ッ――ッ!」
激昂し過ぎたのか、一瞬、吐き散らかされるが如く、廃集落に騒々しく響き渡っていた言葉が止まった。
言葉に詰まった、と言った方が正しいかもしれない。
ぎりぎりと歯を食いしばり、エルヴンの女へと立てた人差し指を腕ごと、幾度も上下に振り指す。
「うぬの様な、どうしようもない愚物にも、どうにか判る様に言い聞かせてくれようぞ!
そ、そもそも、そもそもの魔の法とは、魔の力とは――ッ」
そして男の声が魔の導きとは等、まだまだ続こうかという時に、遮る様な女の声が吹き抜ける。
既に始まろうとしていた彼の言葉は、話の腰を折られ、たちまちの内に勢いを失う。

―――――――誠に申し訳ねえ 折角の有難てぇ 御高説なんでございやすがね
―――――あっしはそろそろ寝てぇんで 此処いらでお開きにしとうございやす へい

お前の話が長いだけで詰まらん講釈など、まるで聞く気が無いと言わんばかりに、口の前でぱたぱたと手を振り、大きな欠伸を交じえて、銀の髪の娘はそう言い放つ。
そしてふわあぁ、と大きく開けた口を閉じ、むにゃむにゃと唇を歪ませながら、鞘から刃を抜きゆったりと構えた。
目深に被った笠で、その寝ぼけ眼の表情を解せぬのが実に憎らしい。
自らの生が自慢処の様な彼にとっては、挑発に等しい行いを繰り返す娘に、興奮のあまり泡と化した唾を飛ばしながら、呪術師の男は叫ぶ。
「ぐぬうっ!
くぐうぅ、ぐうううっ、ほざきおってからに!
そんなに寝たいなら、今すぐ二度と目覚めぬよう寝かしつけてくれる!
うぬぬッ、う、うぬ如きに儂の業、見破られるものでは無いわ!
今度こそ目に物見せてくれん!」
間抜けにも小娘が話を長引かせてくれたお陰で、魔法を行使する時間は十分に取れた。
先ほど言った通り、ただ明るくする為だけに、光らせていた訳では無い。
予め仕込んでおいた魔法の秘術に、新たに組んだ秘術を掛け合わせる。
そして両腕を前に構えつつ、印を組んだ手を広げ、片方の手指でカヤを指し示す。
すると、周囲に浮かび上がらせた光が物凄い速さで、銀の髪の娘の方へと収束を始めた。

例え今から反撃を試みようとも、もう、遅い。
「小娘えええエエエエェッ!
儂の業を侮った事、後悔する間も無く滅ぼしてくれる!」
叫びと同時に、輝く魔の力の奔流が、エルヴンの女へと向かう。
先程予告した通り、この指の一指しで跡形も無く、世からかき消してやるつもりだ。
刹那の後、この輝きが消える頃、娘は何が起きたかも分からずに、斃れ伏しているに違いない。
娘を中心として収束してゆく光に、己が知り操り得る業の中で、最大の秘術が見事に炸裂、思わず酔いしれる程に、完全なる勝利を確信した呪術師は、頭巾の向こうでにんまりとほくそ笑む。
そして、収束した光が大きく膨らみ、立ち尽くすカヤの姿を包み込んだかと思うと、消えた。
呪術師の声が止むと、すぐに草木のざわめきが収まり、あっという間に静けさを取り戻す。

微かに木々が揺れ、葉をこすり合わせる音そして、男の息の緒が、還ってきたばかりの夜の静寂を破る。
それ以外、物音のしなくなった暗がりに、彼は鼻を鳴らすとエルヴンの女の屍を確認する為、懐から取り出した火口箱を使って蝋燭に火を灯す。
息の根が止まった、忌々しい小娘は一体どんな表情か、楽しみになった男はひっそりとほくそ笑む。
夜闇の薄明かりを払う様に、うっすらと写し出された影。
そこに、彼女は立っていた。
揺らめく蝋燭の炎に照らし出された口元に、にんまりとした笑みを返され、彼はたじろぎ絶句する。



――――――――(2)――――――――



幾多も死を乗り越え、体を乗り換えて長年の研鑽の末編み出し、渾身の力を振り絞った秘術。
その業の前に、果たして娘は、滅ぼされてなどいなかった。
茫然と立ち尽くし、物言わぬ――いや、言えぬ男へ向かい、たった一言、カヤの言葉がゆるやかに吹く。

―――――――御自慢の大魔法とやらも タネが割れてりゃァ 虚仮威しにしかなりやせんぜ

収束した光が膨らんだ一瞬、その姿が揺らめいた事に、男は気付かなかった。
直後の鋼の煌めき、そして空を切る音も。
辛うじて呪術師の男が判る事は、エルヴンの女を仕留めそこなったという、事実。
じゅっと音を立てて炎が消え失せる。
あまりの出来事に、思わず手にした蝋燭を取り落とし、濡れた地に芯が触れたのだ。
何故であろうか、何も、何も起きてなどいない。
その術は、夜の帳を歪める事すら叶わなかったのであろうか。
確かに、魔の力は奔流となって、銀の髪の娘へと襲い掛かっていた筈。

――その筈、である。

しかし、それは忽然と消え失せていた。
それはさながら、最初から幻を相手取っていたかのように。



彼は確かに強大な魔の力を呼び寄せ、魔法を行使した筈なのだが。
そしてそれは、寝ぼけ眼で憎らしい態度を崩さぬ小娘へ、目に物見せてくれる筈であった。
しかし、世の理を歪め、在り得ぬ事柄を現世に呼び、映し出す秘術は不発。
いや、これは失敗したのではない。
秘術そのものが失敗と言えるのは、唯一、印の組み方や儀式の執り行う方法を違えてしまった時だけである。
長年修練を積んだ己が、今更その失敗は無いだろう。
試しに組んだのなら在り得なくは無いが、扱いが解明された秘術には、ほぼ失敗など無い。
行使の為の魔の力が、足りなかったのであるならば、何かを魔に奪われ、失ってしまう筈だ。
例えば、手足であったり、眼や骨や肌であるならまだ良い、悪ければ頭そして心臓等がその場で欠け、選ばれたそれらは、永遠に失われる事だろう。
魔法の行使に伴って集めた魔の力、そして消耗した体、それらの代償は支払っている。
じっとりと重い汗と疲労が、体の奥からどろりと湧き出す感覚。
集めた魔の力、それ等は全て己の中に流れる血潮から失せ、今にもへたり込みそうな程の疲労感が全身を襲う。
魔法を行使した後、事の大小はあれど必ず訪れる、魔法の行使出来ない期間、だ。
大きな秘術を行えば、比例してそれだけその期間が長くなり、疲労はより大きくなる。
その期間が訪れたと言う事は、確かに、確かに秘術は、魔法は誤り無く行使され、魔の力のうねりが小娘へと向かったという証。
……それは間違いない、それだけは。
しかしまるで何事も無かったかの様に、立っているエルヴンの女。
それは一体何故――。

何にせよ、取って置きの秘術で男の目論んだ結果を得る事は、失敗に終わっていた。
期待した変化が何も起きず、静かな夜空の下、腕を振り翳した姿勢のまま、茫然と固まる呪術師。
ぽかんと口を開け、何事かと眼を見開き虚空を眺めるその顔色は、どのような事象が発生したのか、理解しているような様子はまるで伺えない。
本来ならば、この小娘はもう既にこの世のものでは無い何かに、連れ去られたか身を引き裂かれたかで、跡形も無い筈なのだ。
「こ、これは何とした事……」
信じられない出来事を目の当たりにし、狼狽した呪術師の彼は、血色を失い茫然と眼を見開き、呟く。
だが、術が消え失せるように何も起きなかった理由、それをじっくりと調べている暇は無い。
必殺の一撃の下、討たねばならなかった、敵であるエルヴンの女が目前に迫っていたのだ。

己目掛けて振り抜かれる白刃が、ゆったりとした刻の中を流れているかのように、じっくりと見てとれる。
このまま放って置くならば、冷たく鈍く煌めく刃が、やがてこの身を断ち切ってしまうだろう。
眼だけが、視野だけが、まるで止まった様に感じる世界で、何事も無いように動かせた。
おのれ。
どうする。
待てよ、先程小娘は何と言っておった?
また儂を愚弄しおって!
避けなければ。
タネが割れる?
許さぬ、許さぬ、許さぬ。
いや、もう一度、術を――。
信じられん、まさか見破られたのか?
次こそはこの儂の怒りを知らしめてくれよう!
――しかし、血潮にまだ魔の力が戻って来てはおらん。
儂の業は、その術を見破ったとて、たかが剣術如きではどうにもならぬ――筈。
兎に角――何か、何か手立てを。
とりとめもないばらばらの思考が脳裏を駆け巡るが、刻を永らえた彼とて前例の無い、異様な出来事を前にして、全く体が動く様子を見せない。
仮に再度魔法を行使出来たとしても、この状況からではどの秘術にするかすら考え、選ぶ暇が無いだろう。
今、彼に出来る事は、成り行きを不本意ながら見守り、挑んだ戦いの結末をその身で感ずる事だけであった。

やがてゆっくりと動いてきた冷たい鋼の刃が、その身に触れる――。
次の瞬間、枷から解き放たれた様に、全てが動き出す。
そして、強烈な痛打の苦痛が背中を一文字に駆け抜け、肉を引き裂く。
正面から斬られた筈であるのに、不思議とその痛みは感じられるのは背の方からである。
頭巾の付いたゆったりとした衣服の背が、真っ二つに裂け、びしゃりと溢れ出す血汐。
続いてひゅん、と耳元を走り抜ける、まるで固いものが空を切るかの如き軽い音が続く。
大きく開いた切り傷から吹き出し、暗がりの草木にねっとりと撒き散らされた生血が、恰も朝露のように滴り落ちる。
しかし彼は昏い夜闇の上に、血を失い薄暗くなってゆく視野では、その様を感じ取る事は出来ない。

「な、ななな、何故映し出せぬ……ッ!?
ぐっ……、――、最後まで儂を愚弄しおってからに……。
ゆ――、許さぬ、ぞ……ッ。
――、……」

絶対の自信を持って放った、魔の力を具現する秘術が、どういう訳かまるで効果を表さず、敗れ去った事を悟った呪術師の男は、呪詛の言葉と血を吐きながら、エルヴンの女を凝視した。
しかし、その恨みがましい視線も長くは続かない。
まだ何かを言おうとしていたが、その続きを発する事無く、突然にその瞳が力を失い、頽れる。
それはさながら、何かに引かれて辛うじて立っていたものが、ぷっつりと突然切れた様に感じられた。
背丈ほどの木々に肩を押し当て、ぐらりと天を仰ぐ。
気の抜けたような姿勢の、体に寄り掛かられた樹木達が、めきめきと軋む。
勢いに押され、へし折れた木々を撒き散らし、雨でやや湿った地に倒れるのを確かめた頃には、彼は既に絶命していた。

木々をなぎ倒す様にして、仰向けに斃れた体。
風が吹く拍子に、ふと脱げかけていた頭巾がめくれ、その顔が露わになる。
苦しみに喘ぎ、空虚な視線を虚空へと投げかけたままの表情は、まるで無念の塊をその内に宿しているかのようだ。
その男はカヤよりは歳経ているが、まだ若い内に入る方であろう。
煙の様に消えたり、干からびたりはしていない。
先程彼女が言った通り、手の内が品切れであったのだろうか。
ちらりちらりと己が手へと視線を投げかけ、違和感でも感じているかのように何度も握り、そして開く。
何か、腑に落ちない所でもあったのだろう。
斃れ伏した者を見おろし、じっと見つめていたが、やがて眠そうに目をこする。
しかし、考えても仕方ないとばかりに、溜息を一つ漏らし、踵を返す。
彼女は帰る道すがら、怪訝そうに軽く鼻を鳴らした。

その時、ぱたぱたと菅笠が軽い音を鳴らし始め――。
訝しんだカヤは右手をを上に向け、その正体を確かめようとする。
落ちてきた大粒の水滴が、ぴちゃりと掌の上で爆ぜ割れ、更に幾つかの小さな粒となって、零れ落ちた。
更に続く雨が被った笠を叩き、まるで木管の様に、ぽこぽかこつこつと奇妙な音を鳴らす。
と、同時に周囲の草木も、笠の発する音へ、懸命に合わせようとしているかの様に、不規則な調べを奏で始めている。
止んだと思っていた、雨がまた降ってきたようだ。
彼女は、実に詰まらなそうな顔付きでへの字口を作り、濡れぬよう努力する事を諦めたかのような足取りで、とぼとぼと来た道を戻ってゆく。



――――――――(3)――――――――



切り裂かれた背に、痛みが走り、熱く燃え盛っていた。
恐ろしい程の痛みが胸の奥へと集い、未だに心臓が鼓動を速めている感覚が尾を引く。
何も見る事が出来ない。
体も指一つ動かせない。
痛みはまるで消えない。
敗れ去った儂は、死んだのか――?

――いや、そうではない。
白刃が己が身を切り裂き、意志が薄れ目の前が暗くなった、と感じる直前、体が何かに物凄い勢いで引かれ――ふと気が付くと、そこは集落の道端であった。
目前に広がるは、見渡す限りの、暗闇。
昨夜彫った木像の目を通し、辺りを確認すると、夜闇が周囲を依然として、支配したままである。
寂し気な気持ちを思い起こさせる、遠吠えの様な何かの鳴き声が、廃集落の中に届く。
呪術師の男は、まだ斃されてなどいなかった。

長年かけて苦心の末編み出した秘術。
その術を用いて、彼は幾度も訪れようとする死を逃れ、他者の体を奪い意のままに操る。
この度は事前に行使した魔法の秘術で、死の間際依り代とした木像へと魂を引き寄せ、今再び生き永らえたのだ。
しめしめ、術が巧く働いてくれたようじゃの――。
偉大な魔法の術を全く知らぬ、あの小娘は、間抜けにも何度も引っかかりおって。
今頃はまた、儂が死んだと思い、品の無い大きな鼾でもかいて寝ているのであろうな。
小娘め、勝った気になって、ゆっくり休んでおるが良いわ。
しかしもう動かせる体が無い。
暫しの間、これを依り代として永らえる他無さそうじゃの。
死を回避したばかりの、力ない魂では、未だここを離れる程の力は無い筈。
何時しか、見知らぬ誰かが通り掛かる事があれば、その意識と体を奪う事も出来よう。
この像さえ在れば、儂はここで滅びずに済むのじゃ。
憎らしい程に自意識過剰な、あの女の意識を奪う事が出来れば、尚良い。
そうすれば、そうすればまた、儂は自由を得られる。
再び体を得て、彼奴めが忘れた頃に、騙し討つのも良いのお。
ふむ、今度はどのような手で、彼奴めの不意を突いてやろうか……。

どの道暫くは動く事は出来ない。
焦る必要など全く無い、次の依り代を探し像から出られる頃には、幾つかの世代が交代していても、一向に構わないのだ。
それ程の刻が過ぎ去ってしまえば、かの組織と言えども、復活した己が任務に失敗した者と判ろう筈も無く。
何せ、考える時間だけは、これからはたっぷりとある。
未だ見ぬ、次の新たな時代に想いを馳せるのも良いだろう。
男の意識がにんまりとほくそ笑み、魂となった体を封じた像の中で、来たるべきその時を待つ。



夜が明けてから暫く――。
昨夜続いていた雨は止み、晴れ晴れと広がる明るい空の下。
やがて、木像を置いた集落の通りへと、あの女が現れた。
真っ直ぐにこちらへと向かっている様子が伺える。
ククク、そうだ、そのまま通り過ぎてしまえッ!
無論ながら、好機あらば直ちに、彼はエルヴンの女の意識を奪う構えだ。
そういった隙が見当たらなければ、やり過ごす。
何時か打開出来る時が来る、木像の秘密を知らぬ誰かが通りかかれば良い。
今回が駄目でも力を蓄えた後、魂が像を少し離れ、哀れな次の犠牲者を探しても良いだろう。
像に施された魔法は、詳しくなければ、いや詳しくても、相当調べなければ気付けない筈である。
研鑽に研鑽を重ねた儂の技、そう簡単に破られてたまるものかよ。
絶対の自信を持ち、彼は標的が過ぎ去るのを見守った。

エルヴンの女が、欠伸交じりに廃集落の、道端へ設置された像へとゆっくりと近づく。
目元の見えぬ菅笠の下、大きく開こうとしているその口を、噛み締めるように抑え、右手を軽く宛がう。
欠伸を噛み殺すと少し顔を上げ、風貌が露わとなり、訝し気な小娘の紅い瞳が、真っ直ぐに木像の方へと向けられていた。
え――?
昨夜の雨でやや濡れている、乾き切っていない木像に込められた呪術師の男の意志は、大いに揺れる。
体があれば、背筋が凍る思いをした事だろう。
この像の秘密は儂しか知らぬ筈。
そのまま、そのままだ、そのまま通り過ぎる――、通り過ぎてくれ。
い、いやいや、大丈夫、大丈夫だ。
ハハ、驚かすでないぞ。
そうは思うが、娘は像の方角へと、いや、明らかに木像へと視線を向けている。
まさか、とは思うが。
しゅらり、と鞘走りの音が、誰も居ない朝の集落へと響く――昇ったばかりの陽光に、鈍い鋼の煌めきがぎらりと眩しい。

力が足りず、生きる世界に繋ぎ止める力が弱いまま、魂を今外に出せば、一瞬で自我を失い滅んでしまうだろう。
今度こそ、逃げる事も隠れる事も出来ず、術で像の中に魂を封じ、身動きの一切取れない男は焦った。
この娘が術で隠された物や、漂う魔の力や魂、幽体等が目視出来ないのは、昨夜確かめている。
まさか本当は、見付かっているのか?
そんな、そんな筈はない。
魔法なぞ知らぬ小娘に、この像にかけられた魔法の秘術、判ろう筈が――?
ふと気が付けば、風にそよぐ美しく輝く銀髪を朝日に靡かせ、彼女が像の前に立っている。
今は亡き呪術師の心臓が、跳ね上がった気がした。
次の瞬間、像は真っ二つに断たれ、魂を留め置く魔法はその力を失う。
な、なななっ!
何故判ったんだああぁぁぁッ!?
男は思わず念じるが、それは声にならない。

―――――――昨日来た頃ぁ こぉんな真新しい物 在りやしたかねえ?

呪術師の男の念が届いたのか、そうでなかったのか。
実に呆気ない返り言であった。
次に流れたのは、――ごく短い僅かな時間。
人間の様な何かを模った像だった物が、ころりと廃村の地に転げる。
一振りの銀閃に断たれた木像が、ぱったりと地に倒れ伏す頃には、呪術師の意識は霧散していた。
これで如何な魔法を行使しようとも、もう二度と蘇る事は無いだろう。

昨夜男を斬った時、やや手応えが薄く感じた気がした。
微かに、僅かに感じた違和感。
生きている者を断ち斬った時の、断末魔、とでも言おうか。
活動を終える間際、最後の肉の躍動の様なものを、手応えとして感じる筈が、不思議な事に男からは全く感じられなかった。
これまでに三度、その身に刃が届いた時には、もう既に死んでいたかのように、いや――、刃が届いた直後、鋼が男の体を断ち割った際に、まるで何かがふっと抜け落ち――、その後に抜け殻となった、体だけを切り裂いたような。
何時もと全く違う、そんな感触が、手に残る。
その後再び、姿は違えど同じ意志を持つ者が現れ、襲い掛かって来たのだ。
流石に魔法の行使を訝しみ、わざわざ早起きして集落を見て回っていたのだが――。
怪しい物を見かけては叩き斬る心積りだったが、この通り。
どうやら、廃集落に似つかわしくない真新しい木像を遣い、何かしら妙な技か怪しげな術でも仕込んでいた、という読みで正解だったようだ。
カヤは呪術師が昨夜捲し立てていた事を思い出す。
魔女は死者から抜き出し魂を集める――単なる伝承でなく、この話を知っているという事は、死を逃れ刻を永らえたという話、どうやらほらを吹いていた訳ではないらしい。
エルヴン族に古くから伝わるお伽話によれば、彼の魂はもう、魔女の棲み処へと連れ去られた筈だ、この事に気が付いていれば。
この世の全てを見通すと噂が流れる傍ら、案外抜けている魔女が、気付いていない様であれば、旅先で棲み処に立ち寄り、教えてやる事にしよう。
今度訪れる時には、茶の一杯でも出して貰えると良いのだが。

―――――――どうやら これが当たりだった御様子で ございやすねえ
―――――どんな術か存じやせんが あっしの独楽と 大ぇして変わり映えしねえや

……暫く待った後、何の術も飛んで来ない事を確認し。
既に聴こえていないであろう、呪術師に独り言ち、ささやかな微笑を浮かべると、刃を鞘に納める。
その声と似た、清々しい風がそっと頬を撫でてゆく。
これで、邪魔者は消えた――が、かの者達の手先一人を排したに過ぎず、彼等は諦めずに彼女を追ってくるに違いない。
何気なしに髪をかき上げる娘。
眩しそうに細めたその視線の先は、集落から駆け去ってゆく、何者かの背後を捕えていた。
カヤが通ってきた方向の道へ、引き返す様に細い道をひた走る、男らしき姿の背。
追っていた銀の髪の娘が刺客を破った事、仲間に伝えに行くのだろう。
この次は、何時になるのだろうか。
彼等が追い付いてきたという事は、この先道中はきっと、退屈はしないに違いない。
その事がまるで楽しみだ、と言わんばかりにその口元が笑みを模ると――。
ぺたし、ぺたし、と草鞋の音で生乾きの地を踏み鳴らし、エルヴンの女は人気の無くなった集落を後にするのだった。