2020年6月5日金曜日

ブログ小説 縁切徹 第四話 山道の妖(1)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

山道の妖(1)



――――――――(1)――――――――



晴れた空の下、庭に置かれた机と椅子。
差し出された茶菓子に口を付け、茶を一口飲む。
味の感想を聞かれ、愛想笑いを浮かべつつ、当たり障りのない、無難な回答を口にする。
出された茶と菓子は、決して不味いものでは無かったが、それだけで無理に褒める必要も無いだろう。
おどけて余計な事を口走り、隣街や遠くの村での宣伝を頼まれる――そんな事になれば、それこそ大変だ。
椅子に座り長話に相槌を打つ、菅笠を目深に被った銀の髪の娘は、何とかして話を切り上げ、茶のお代わりを頼みたがったが、店主の一方的な会話はまだまだ止まりそうにない。

緩やかな陽差しの昼下がり。
エルヴンの女は、集落外れの一軒家が営む茶屋にて、休憩を取っていた。
恰幅の良い、親切だが話し好きな女店主が、旅人をもてなしている。
この日の客は、旅人のカヤだけしか見当たらない。
よって、善いか悪いか、暇を持て余している女店主の接客術は、全て彼女独りに差し向けられていた。

最初の挨拶で、これから向かう山の話を訊くと、行方が分からなくなる者が増えているそうで、行く事を止められる。
聞けばどうやら山中には、怪しい者が出没するという噂で、もちきりの様子。
山を越えようとして、何者かに追われるよう逃げて来た者も、幾人かいるようだ。
襲撃者の姿を見た者は誰もおらず、村の住人達の間では、正体の推測や憶測が飛び交っている。
だが、その話にも黙って頷いている銀の髪の娘――彼女の方を伺う限りでは、山を迂回するなり、ほとぼりが冷めるまで村に逗留するなり、旅程を変更する心積り等は見られない。
多少噂になっている程度では、引く構えを全く見せる気がないのか。
もしそれらが賊の類なら、斬って捨てれば商売道具の砥ぎ料位にはなる筈だ。
彼女としては、それで良いのだろう、山さえ越えられるのならば。
遭遇しても良し、しなくても良し。
恐ろし気に声色を変えて話す女店主に、雑な相槌を打ちつつも、カヤはひっそりと微笑む。

しかし、有用な情報を得たのは、その事だけで、後の話は銀の髪の娘が退屈凌ぎに利用されているか如き勢い、である。
ころころと良く変わる話題に、黙って相槌を打っている内に刻が経ち、もう陽が頭上を回ってしまっていた。
特に急ぎの旅という訳ではない。
だからずっと、このまま聞いていても、良いと言えば良いのだが――話し好きそうな女店主は、恐らく、陽が暮れても話し続けているだろう。
とんとんと指先で机を叩いたり、かちんと茶碗を鳴らしたり等、してみたりもしたのだが、一瞥もくれずさっぱり効果が現れなかった。
いい加減、への字口に気付いて欲しそうな面持ちで、更にへの字口を深めるエルヴンの娘。
それを素知らぬ顔で、そよ風が煌めく銀の髪を、そっと撫でてゆく。
「そうなんですよ。
あたしはね、旅人さんにはそう何度も、言ったんですけどね。
でも、隣村に行くと何時の間にか、そういう噂になっているんです。
だからすごく、変なのよお」
話題は明後日の方向へと進み、既に関係の無いものとなっている。
終わらない長い話に、飽きでもしたのか、それとも、待つのに痺れを切らしたのか。
重苦しい溜息を吐いたカヤが、意を決した様に席を立つ。

―――――――馳走になりやした あっしはそろそろお暇を致しやす
―――――へい それじゃあ御免なすって 御代はこちらに

渋い顔つきを崩さぬ挨拶。
茶のお替りを頼み損ねた事が、そんなにも残念であったのだろうか。
挨拶を終えるや否や、彼女は音を立てぬように一歩、二歩と後退り、店の敷地の外に出ようとする。
その時、かさり、と足元の草が音を立て、エルヴンの女はぴたりと足を止めた。
女店主の方をそっと伺ったが、話に夢中のようで、客が立てた音には気が付いていない。
思わず漏れる、安堵の吐息。
再度、慎重にある程度の距離を取ると、手向けのつもりかカヤは、話し続ける女店主の方へ向けて、ぺこりと軽く頭を下げ――。
そして顔を上げると、振り返った彼女は、街道を山へと向けて、まるで逃げ出すかの様に、一目散に駆け去ってゆく。
集落の外れを一息に走り抜け、村を出て街道の先へと、その姿が見えなくなっても、銀の髪の娘が振り返る事は無かった。
後はうららかな陽差しの下、ふうわりとした風が店の敷地の中を、緩やかに舞うのみ――。



何か聞こえたようだが、女店主は自分が話す事に夢中で、娘が居なくなった事に全く気が付かず、話を続けている。
「そうそう。
この間、この村の長がお亡くなりになってねえ。
あたし達夫婦は、散々お世話になっていたんですよ。
そりゃあもう何から何まで。
あたし達はもう何度お世話になった事やら、数えたら両手の指の数じゃ絶対足りませんよ。
村の皆も惜しい方を亡くしたって、悲しんでる位です。

それなのに、あの人ったら、葬儀にはあたし一人が出れば良い、なんて言うんですよお。
あんなにお世話になっていて、そりゃあ無いでしょうよ。
思い返すとウチのあの人が、一番お世話になったんじゃないかしら?
おほほ♪

決して、言い過ぎじゃあないんですよ。
若い頃はね、あたしの亭主があたしに告白する御膳立てまで、してくれたんです。
式を挙げる時なんて、村中を駆けずり回ってくれて。
一番恩を感じるべきあの人が、昔からお世話になって来た事が、全然分かって無いとか、もうどうしましょうね。
ねえ、お客さん、お客さんはこの話をどう思います?

それでねえ。
あたしはね、お世話になった方に最後くらい、きちんとしたお別れの挨拶をしたらどうなの!
どうせ、並ぶのが面倒なだけなんでしょう!
ええ、ええ、そりゃあもう長年の付き合いですから、アナタが何を考えてるか、位はお見通しですからね!
――って言ってやったんですよ。
そしたら、あの人ったら、何だか急にしょんぼりしちゃって。
ねえ、可笑しいでしょ?
おほほほほ♪♪♪」
一頻り笑うと、返事が無く、不思議に思った店主は、しんと静まり返っている座席の方を見る。
椅子には誰も座っていない。
先程まで座っていた銀の髪の娘は、何処に消えてしまったというのだろう。
どうやら誰も居ない中、独りで笑っていたようだ。

だが、客が居たのは夢ではない。
茶菓子を入れていた皿と、まだ温もりのある茶碗が、空になっている事。
その事が、つい先程までそこに客が居たことを示している。
「急ぎの旅だったのかしらねえ?
声くらい掛けてくれても――。
……あっ!?」
食器を片付けようとしていると、きらり――と陽に反する物が有る事に気が付く。
銀の髪の娘、彼女が去った後を調べると、茶碗と皿の間に、鈍く輝く塊が置かれていた。
恰幅の良い女店主は、思わず手に取って確かめる。

手にはずしりと重い感触の、黄金色の塊。
長方形の円、そして植物の葉を遇う紋様に、薄緑に輝く大きな宝石が埋め込まれており、その下にエルヴン文字で、何かが彫り込まれていた。
反対側を見ると、何やら大きく育ったような、樹木を模した紋様が施されている。
何度も見返した彼女は息を飲むと、大きく目を見開く。
正当な持ち主が語り掛ければ、精霊が現れるか、宝石や金貨が輝く等、普通には起こり得ない奇跡が起こり、これが本物である事を証明するだろう。
「うーん、コレ本物かしら……。
あらっ?」
気が付くと、表裏に彫り込まれた紋様が白く柔らかな光を発し、輝いている。
まるで心が洗われる様な、清廉で美しい輝きを、うっとりと眺めていると、徐々に白い輝きは失せ、元の色合いに戻った。

……これは魔法が掛けられた、本物のエルヴン金貨だ、間違いない。
奪われたり、盗まれたりしたものでは、正当な持ち主となり得ず、魔法の力は具現化しないとも聞く。
それが自分の声で、魔法の奇跡が垣間見えた、という事は、これはどうやら自身に所有権を贈られたものであり、あの銀の髪の娘が単に忘れた物、という訳では無さそうだ。
こんな高価な貨幣を、平然と置いていくとは。
エルヴンの旅衣装を身に纏う彼女は、一体何者であったのか、世間話にでも聞かなかった事が悔やまれる。
「あの娘さん、旅人みたいな恰好だったわねえ。
実は、良い所のお嬢さんだったのかしら。
山の方に行ってなけりゃ良いけど」
大した価値の無い茶と茶菓子、それに対して彼女は、代金のつもりで置いて行ったのだろうか。
謎は解けぬまま、店主は銀の髪の娘が置いて行った小判を手に取ると、夢でも見ているのかと頬をつねり、しげしげと眺め首を傾げた。



――――――――(2)――――――――



何もない空間。
時折、何かが揺らいでいる。
ただそれだけだった。
何が揺らいでいたのだろう。
ここからでは、近くて、遠くて、よく見えない。

何もない空間。
そこには、沢山の何かが、犇めいていた。
ただそれだけだった。
何かが居る、それも、沢山。
それは近過ぎて、遠過ぎて、見渡す事が出来ない。

何もない空間。
ここは、何処なのだろう。
私はお前は僕は貴方は俺は君は――誰なんだ?
ただそこには、不規則な揺らぎだけが存在する。
気が付けば己はそこに居た。
幾多も存在する、沢山の、己が。

気が付けば隣に。
気が付けば上に。
気が付けば下に。
気が付けば同じ場所に。

最初の内は広い場所を確保しようと、邪魔になった己を叩き、割り、潰し、裂いていた気がしたが、何時の頃からか、全ての己が己を打たなくなった。
押し退けようとも、押されて引こうとも。
叩き潰した己は、すぐに己となって増える――増え続ける。
幾ら己で己を引き裂こうが、気が付くとまたそこに居て、行為の無意味さに気が付いたのだ。
押し潰されれば、新しい己が、元の場所に現れる。
何をしていても、どうせ、同じ。
全ての己は、己という一つの意思で、纏まっているのだから。
新しい己も、最初は訳も分からず暴れるのだが、理解が進めば、その内己と同じように、動かなくなるに違いない。
そこでは、戦う事も、争う事も、奪う事も、競じる事も、求める事も、話し合う必要も無かった。
昔は、こんな場所に居たのでは無かったのに。
あの場所はもっと、明るくて、楽しい――。

いつもそこで、思考が止まる。
思い出す意味も、意義も、全てを、すぐに失くしてしまうから。
何処からだったのだろうか、近くに現れた己が動き、自らが叩き潰され、引き裂かれ、それまでの事が、何事もなかったかの様に、己の残骸が漂う。
やがて、全ての境目が曖昧になり、何もかもが混ざりゆく。
――そして、すぐに新たな己が現れた。

狭い場所を避けて動けば、また己が。
押されて動けば、元の場所には己が。
押し退ければ、押し退けた所に己が。
また動かずとも、その場所には己が。
幾重にも幾重にも重ねられ、そこに己が存在していた。
ただそれだけを繰り返され、ただひたすら増えてゆく。
その為に、ここに居るのでは無い、と思う。
でも、どうしようもなかったんだ。
――ごめんね。
力が、無かったよ。
だから、こうするしかなかったんだ。

何の為に増え続けているのか。
何故重ね合せられているのか。
此処は一体何をする所なのか。
考えても答えの無いまま、幾重にも幾重にも重なった己は、何処とも知れぬ場所の中に、ただただ居続けていた。



その場所にも終焉らしきものが訪れる。
何もないと感じていた、その場所にも唯一つ、変わってゆく事があった。
時折、その場所に皹が入り、そこに幾つかの己が入ってしまう。
其処に入った己は、己というものでは無くなった。
向こうに行く己は、己であると感じられなくなる。
あの皹は何なのか、己は何時までここに居なければならないのか。

ここから――。
もう出たい。
もう出たい。
もう出たい。
でも、出たくない。
考えても、考えても、答えは出ないまま。

ある時、己の近くに、その皹が出来た。
罅割れたものが広がり、徐々に境目が近づく。
いや、己が近づいているのだろうか。
己は、確かに、何かに引かれている。

――落ちる――

その時、ソレはそう感じた。
確かに、微かに、何かに引かれている。
伸ばし、掴もうとした己が潰れ、裂け、崩れ去り。
己の欠片を抱いたまま、己は何かに引かれ、昏い皹の向こうへと落ちてゆく。
見上げると、何時の間にか皹は、閉じてゆこうとしている。
皹が閉じると、あの場所は視えなくなった。

無い――。
何も――。

何時の間にか――独りとなっている。
あれ程居た筈の己は、何処へ行ってしまったのか。
もう、あれほど増え続けていた筈の、己の姿、そして数を感じ取る事が出来ない。
あの場所に居た沢山の己達も、落ちてゆく己を、全く感じ取れなくなっている事だろう。
そして、増える事も無くなっているのを感じた。
何かにゆっくりと引かれてゆく。
変わった事と言えば、ただ、それだけである。
あの場所には何もなかったが、今、この場には輪をかけて何も無かった。

何も無い。
何も無い。
何も無い。
何かに引かれている事だけを感じてはいたが、それが何か、という事すら分からない。
――なぜ、自分が?
その想いだけが、強く、強く残り続ける。
なぜ?
どうして?
私が貴方が僕が君が俺がお前が――?
あの頃は、ほんの少しの、興味と好奇心。
そして、多大なる冒険心があった様に思う。
あの頃は、皆、輝いて見えていた。
突然訪れた――混乱、困惑、紛糾、混濁。
やがて、やってくる大きな後悔。
どうして、こんな事に――。
なってしまったのだろう。
何が悪かったのか。
あの頃に、戻る事は叶わないと云うのに。
やっと、離れて独りになれたと云うのに。
もう、他と溶け合う事も無いと云うのに。
私は僕は俺はお前は君は貴方は――その事を思い出す事が出来なかった。



やがて、それも終わりを告げる。



どの位、引かれて続けていたのだろう。
果たして、落ちていたのだろうか。
流されていた気もするし、上っていた気もする。
唐突に、何かにぶつかった気がして――ふと気づくと、明るい場所に居た。

ここは、何処だろうか。
あの時感じた、微かに引かれるもの。
それが、ここにはあった。
上と、下を、感じる。
右と、左が、そこには在り。
触れる事を味わい。
次に、色に触れ、音を嗅ぎ。
最後に、匂いが視え、そして、味が聴こえた。
全て、あの場所には無かったもの。
そして、あの場所の事は朧げに霞んでゆく。
ここに来る前は、己は一体、どこで、何をしていたのだろう?
とても、大切な事。
でも、もう、どうにもならない事。
己の中から何かが消え、そして新たに何かが芽生える。
しかし、幾ら考えても、何一つ思い出す事は出来ない。

食べたい

もうひとつ、あの場所に無かったものとして、ここには暖かい光があった。
だが、それは既に知っていて、懐かしい気もする。
こことは近しい、でも、何かが違う。
しかし、今の己にはそれが何なのか、分らない。
やっと還って来たのか、それとも迷い込んでしまったのか。
それすらも。

食べたい 食べたい 食べたい

やがて唐突に、何かが沸き起こる。
それを満たす為に、己はここへ来たのかもしれなかった。
何をしたいのか、何が出来るのか、何がしたかったのか。
その全てが分からない。
ならば、それに従うべきだ――いや、従おう。

食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい

どうしようもなく強い、渇望とも言うべき、衝動。
その意思が、己を満たし、突き動かす。

ソレは、己を伸ばし、何か食べるものを探し始めた。



――――――――(3)――――――――



朗らかな笑い声が聞こえる。
山道を往く行商人とその連れ合い。
手頃な所で向かい合うように座り、二人の男は山を下る街道の脇で、昼食を取ろうとしていた。
商品と財を持ち帰る為、帰路に就いていた、彼等の足取りは軽い。
峠は既に越えており、後はこの道を下って行けば、故郷の街に帰り着く。
そこで残りの品を捌き、行商を一段落終えたら、次の期が来るまで、家でゆっくり過ごそう。
何度も通り慣れた道を進むだけの、気楽な旅。
その筈、であった。

腰掛けた男達の声色も明るく、食事の支度が進む。
「俺っ家なんかよォ。
折角稼いで来たってェのに、子供にぐうたらが伝染る、家の中でごろごろすんなって、追い出されンだぜ。
普段から寝転がってどんどん太ってるのは、お前ェのほうじゃねえかってな。
全く、仲睦まじいお前ン家が、羨ましいぜェ」
「そりゃあまあ。
土産なんかも買って行ってるからな。
時としてご機嫌取りも、重要なんじゃないか」
道中聞かされ続けた、連れ合いの嫁の話題。
だが、彼等の間柄では、飽きもせず延々と繰り返される、定番の話題である。
決して、結婚する事は終着点では無い。
それからも、共に生きて行かなければならないのだ。
何もしなければ、関係は後退するかもしれないし、日々過ごす内に何の変化も無い訳が無く、時として息が詰まってしまう。
打開策として、行商のついでに好みに合いそうな物を買い、妻に渡す事を習慣としている、己が持論と共にその旨を行商人が告げると、連れ合いは何故か肩を落とす。
「土産かァ。
俺ッ家の嫁なんかに、着飾れそうな土産なんてもん持って行ったら、食えねえもン持って来るなって、捨てられちまうよ。
可愛げの無え話だぜ!
女ってのは皆、ああなっちまうのかね。
昔はあんなにも、可愛かったってェのによゥ。
お前ン所も、気を付けた方が良いぜェ」
何時もの如く、連れ合いの愚痴が始まった。
一度こうなると彼はとても長い。
気付かれない様苦笑を交えつつ、商人の男は荷から昼食となる麦餅を取り出した。
そしてやっと昼飯だ、と笑顔で好物の麦餅に齧り付く。

愚痴を聞くのは相槌を打ちながらで良いだろう。
と思っていると、何時の間にか彼の話し声が止まっていた。
連れ合いの男を見ると、妙な顔付きで、自身の方を見ている。
何だろう――、何をしているのか、と思い視線を投げかけ、問う商人の男。
反応は無く、やがて彼はあんぐりと口を開け、そしてぽとり、と手にした麦餅を取り落とす。
「お、おい。
アレ……」
恐ろし気な連れ合いの声。
血相を変えて指差す方、自身の背後へと振り向くと、そこには奇妙なモノがひょろりと宙に浮き、まるで様子を窺う様に、その先端をこちらへと向けている。
これは獣なのか、はたまた違う何かか。
どの景色とも決して重なり合う事のない、異様な色彩がひとつ、商人の男のすぐ近くまで伸びてきていた。
見た事の無い、どの生き物にも当てはまらないであろう、奇怪な色。
ソレをじっと見ていると――立ち所に気分が悪くなってくる。
まるで、この世のものでは無い、吐き気を催す無機質な模様が、ずるりと宙に染み出しているかのようだ。
それを目の当たりにした行商人は、言葉を失う。

一体どこから伸びてきているのか、細長いものが宙を泳ぐ様にして、男達の方へとゆっくりとその身を近づけて来る。
そこはかとなく危機感を感じ、昼食をその場に投げ捨て、手早く荷を纏めると、その場を後にする二人。
音を立てぬようそっと、後退りしていると、宙を往くソレは、静かに二人の後を追ってきていた。
まるで、彼等の後を辿るかの様に。
「おい!
は、……、は――、走れ!」
叫ぶ様な連れ合いの声が響き、弾かれた様に行商人は走り出す。
そして山道を、夢中で駆け下りる。
空でも飛べれば良かったのだが、曲がりくねった道沿いに走る事しか出来ぬ、我が身が恨めしい。
「うわぁーーーーッ!
は、放せェ」
どの位駆けたのか、息も絶え絶えとなる頃に、背後から何かが聞こえた。
だが、構っている余裕など無い。
目を閉じ、恐ろしいものから、一歩でも遠くへ離れようと必死に走る。
「い……ギィッ!
ぐ、苦じ……」
何かを絞る様な音が、段々と遠ざかってゆく。

気が付くと、何時の間にか、連れが居なくなっていた。
音がしなくなり、逃げ伸びたのかと安堵した彼は、素早く交互に動かしていた足を、少しづつ緩やかな動作へと変える。
走るのを辞めると、どっと汗が溢れ、額を濡らす。
呼吸を整えた後に振り返ると――宙に浮くそれは、すぐ後ろの、見える所まで追ってきていた。
震え上がった商人の男は、けたたましい悲鳴を発しながら、再び駆ける。
何処でも良い、安全な所を目指して。
通り慣れた街道を逸れ、藪や茂みを掻き分け、鬱蒼と生い茂る木々の間へと。

大きな木にぶつかって転ぶ。
絡まる草に足を取られ転ぶ。
脆い足場や藪に躓いて転ぶ。
駆けては転び、転んでは起き上がり、また駆け――。
恐怖に凍り付いた表情、喉が枯れる程に絞り出される絶叫は、幾ら進んでも止む事は無く。
数え切れぬ程転んだが、その度に起き上がり、彼は駆け続ける。
そしてまた、転んだ。
草木を押し倒し、重圧を受けた木がめきりと折れる音が、辺りに響き渡り、静かになる。
瞬きする間に彼は、起き上がって、再び駆けた。
喉から絞り出される悲鳴が、木々の間を縫う様にして通り抜け。
そしてまた転び、今度は這ったまま手足を動かし、さらに前進しようともがく。
彼は這う這うの体で進んでいたが、その手は突如空を切った。
ふわりと浮遊感を感じた刹那、乗り出した身は、勢いを付けたままずるりと滑り、そして、次の瞬間には先程とは別の、大きな悲鳴が響き渡る。
たちまち目前に迫る、生い茂る草。
どさりと、地が揺れはしたが、その体は止まる事が無く、斜面を転げ落ちてゆく。
何度も天地がひっくり返り、全身をかき混ぜるかの様な衝撃を味わう。
続いて草が千切れ、剥き出しの土の上を、重い何かが滑り落ちる音。
やがて目の前が真っ暗になり、音が止んだ。



程なくして、行商人は気が付く。
だが、視界は暗い。
何だか、柔らかいものが顔に当たっている様だ。
これは何だろう。
彼は手の伸ばし、その感触を確かめる。
それは手で掴むにもやや余るほどの大きさで、触り心地はとても良い。
むにむに、もにゅもにゅとした、この柔らかく滑らかな触り心地は、何だろう――何処かで触れたような、身近な形をしている気がする。
布だろうか、いや、布でこの柔らかさは無い、もっと上質の何かだ。
何か布のようなものに包まれる、しっとりとした手触りの、丸みを帯びた艶やかな代物。
手に吸い付くとは、正にこのことを指すのだろう。
これはきっと、高く売れるに違いない。
手触りが何であるか、彼は確かめたくなり、その身を起そうとした時。

―――――――申し 其処の御方様

ふと、女の声が耳朶に届く。
その声で、我に返った男の目の前には、地に手膝を付け、這うような姿勢の女の腰が写し出されていた。
何時からそこにいたのだろうか、菅笠を目深に被った、銀の髪の――若い女。
その女の腰を掴んだまま、きょとんとした面持ちを崩さぬ行商人。
どうも、この柔らかい物は、この女の肌であるらしかった。
しっとりと滑るような、肌触りを堪能しつつ、彼は何があったのかを思案する。
声の通りにその姿も美しいが、果たして誰なのだろうか。
一瞬、知り合いかとも思ったが、この様な美女の知り合いは、残念ながら一人も居ない。
体中が痛い――捕えられて死んだのではない、まだ私は生きている。
確か何かに、追われていた筈……。
そうだ、連れと、あの怪物はどうなったのだ?
一体何が起きて、どうして私はここに居るのだろう、それよりも何故、若い娘がこんな所に……?
行商人には、この美しい娘が、あの異様な色をした化け物と関係があるとは、到底思えなかった。

じっと見ていると、女がくすりと笑い、彼も釣られて、微かに愛想笑いを浮かべる。
……何故笑ったのだろうか。
くすくすと今も続く女の笑顔と、笑い声の意味を解する事が出来ず、彼は困惑した。
突然の、全く予想できぬ事柄に茫然とする男、そしてその彼にもう一度問う、軽やかにそよぐ風の様な声が聴こえる。
心なしか、からかうような語調を、含んでいるような。
そんな気がする、声であった。

―――――――お前様 あっしの尻に 何か御用でございやすかい?