【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹
刺客(3)
――――――――(1)――――――――
かつり、かつり、かつり――。
人気の失せた集落の道筋に、小雨が降り続く。
音が互いに聞こえぬ程の離れた場所で、男が一心に木を削る。
その容姿は、青年よりは歳経てはいるが、初老と言うにはまだ早すぎる年代であろう。
かつり、かつり、かつり。
雨音に交じり、刃が木肌にめり込み、薄い木屑となった破片を跳ね飛ばす音が響く。
それらはぱらぱらと落ち、雨粒に打たれ、ぴちゃぴちゃと小さな音をそっと立てていた。
跳ねた水飛沫が、受け皿の様な葉の上にその身を移す。
それもまた、ぴちょん、と控え目な音色を鳴らし、不規則な合奏へと懸命に関わろうとしている。
降り続く雨の中、男が丹念に木肌に振るうそれは、木製の柄、それに埋め込まれる細い鉄棒の先に、薄く平たい刃が設えてあった。
恐らく、木を削る為に誂えた工具であろう。
その柄を握り締め、突く様にして木を削ってゆく。
時として逆手に持ち、振り下ろす。
時には叩き付けるように、時には優しく撫でるように。
かつり、かつり、かつり。
かつり、かつり、かつり。
背を雨足が何度も踏み付け、ばらばらと音がする。
しかしそんな事を気にした風もなく、森に木を削る音が響いてゆく。
その音は、住む者の居なくなった廃集落までは、やや遠く届く事は無い。
彼は大きな木片を削り、何を拵えているのだろう。
それは、片手で抱える程の大きさの、荒々しく削り出された木像であった。
だが、そのような物を拵えて、一体何をしようと言うのだろうか。
かつり、かつり、かつり――。
降り続ける雨の中、その手を休める事無く、木を穿つ音は続く。
ただただ無我に、ただただ夢中に。
雨天に幾ら濡れようとも、木像を模る男は他を顧みる事も無い。
ひたすら一心に、ひたすら不乱に。
それは世に何かを伝えるべく無心に打ち込む、求道者だろうか。
在るが儘無私に、在るが儘無欲に。
かつり、かつり、かつり。
かつり、かつり、かつり。
かつり、かつり、かつり。
一意専心に工具を振るうその男は、かつてエルヴンの女に討たれた、呪術師その人であった。
失われる筈だった魂を、別の体に移し替えつつ、未だ生き永らえる彼。
違う体となっても例えるならば、その腐った卵のような臭気を放つ悪意は健在である。
怒り心頭、いかにも不愉快極まりない、といった風体の表情で、男は工具を力任せに振るう。
まるでささくれ立つ様に、荒々しく削られた木肌が、その感情を如実に表しているかのようであった。
荒れた木肌は、その上から手にした工具で突き、振り下ろし、叩き落とすかの如く削られてゆく。
かつり、かつり、かつり。
木像を削り出しながら男は、忌々しそうに唇を歪める。
腹立たしい、腹立たしい、腹立たしい。
脳裏には、己の業を垣間見たにも拘らず、小娘の余裕を崩さぬ口元が浮かぶ。
実に腹立たしい、あの小娘めが、どうしてくれよう。
収まりがつかぬ憤怒の形相を浮かべ、どうしようも無い程に腹の底から沸き起こる、激しくもどす黒い怒りに身を染めながら、呪術師は思った。
だが……彼奴めは思ったより手強い。
儂が扱うに相応しい貴重な体が、また一つやられてしまった。
しかし魔法を知らぬ事、儂の業を侮った事、必ずや報いてくれようぞ。
生まれつき、魔法の扱いに長けるエルヴンの分際で、魔の力の扱いすら知らんとは、恐れ入ったわい。
魔除けの印すらも知らぬとは、なんと愚かな。
全く、全く全く愚か、愚か愚か、愚かな彼奴めよ。
愚かな、愚かな、実に愚かしい。
かつり、かつり、かつり。
かつり、かつり、かつり。
あの様子では精々が、身を隠す程度の目眩まししか扱えぬ筈じゃ。
それも、注意して探せばすぐに分かる程度の。
子供騙しの業しか扱えぬようでは、長い刻を経て研鑽に研鑽を積んだ、儂の魔法の敵ではない、敵ではないぞ。
きっとそこが、彼奴めの急所となるに違いないわい。
あの速さを封じ、小娘が避けられぬ業を、強力な魔法を行使すれば、必ずや仕留められる筈じゃ。
次こそ、次こそは、完全に息の根を止めてくれる。
待っておれ!
怒りのあまり、力強く突いた部分が大きく削れたが、彼はその形相を変えたりはしていない。
調和を取る為に、別の個所を削ぐ事もしないようだ。
その様子から木像は、安定的な調和や先鋭的な均整が必要な芸術品、という訳では無さそうである。
一体何を題材としたものであるのか。
怒りに任せるが儘に工具を叩き付けるそれは、歪な情熱に支えられた、奇妙な形状の木像と化していた。
かつり、かつり、かつり。
その音は、しとしとと続く雨音が止む気配は未だ無く、刃を木肌に叩き付ける音だけが大きく響く。
散らばってゆく、形の整わぬ不揃いの破片を、気に掛ける様子を微塵も見せず、腹立たし気に眉と目端を、男は先程よりも吊り上げ、雨音の中黙々と刃を奮う。
彼が今、何を思えども、その背姿は頬伝う雨の中、不乱に唇を噛み締め、苦悩に身を焦がしつつも、自らの美をこの世に業として、遺さんとする者の様であった。
体が大きく揺れ動く度に、男の背から雨粒が飛散し、地に染みる。
目的の模りを得る為か、幾度も叩き付けるように手にした工具を奮い、その形を荒々しく整えてゆく。
かつり、かつり、かつり――。
――かつり。
雨が止む気配を見せない森の中に、幾度も響いた音が鳴り止む。
呪術師の男はどうやら、最後の一彫りを終えたようだ。
うむ、渾身の出来栄え――。
これならば、他者の目を欺く事が出来よう。
何者にも、何かしらを崇めていた名残にしか見えぬ筈じゃ。
見る者の居ない木々の中、彼は独り頷く。
呪術師はその出来たばかりの像を廃集落の道端へと運び、建てた。
制作に時間を掛け過ぎたのか、はたまた水を吸ったのか木像は想像したよりもやや重い。
運び終えた男は、削り終えたばかりの、人の形を模ったらしき木像に、魔法の秘術を行使する。
それは小さな小さな、雨音に掻き消される程の囁きから始まった。
徐々に大きくなる呟きはやがて、身振り手振りを交えた何かを祈る様な動作へと変わってゆく。
微かな立ち振舞いであったそれが、踊る様な大仰な挙動となる頃、唸るような祈りの声は、何時の間にか怪しげな律動を持つ呪言の詠唱となり――。
その姿はさながら、何かの儀式を執り行っているようであった。
やがて、雨音に揺れる木々の枝を打ち破る勢いで、何事かを念ずる。
もし見る者が居たのならば、それは儀式の終焉を意識したであろう。
呪術師は身動きを終えると同時に両腕を前に付き出し、あらん限りの力を込めた視線を投げかけた。
すると、像はうっすらと輝く――しかしそれは、薄く輝いた事がまるで嘘であったかの様に、元の色――削られた木肌の色をすぐに取り戻す。
それ以上の事は何も起こらず、静かに雨に打たれる木像には、変わった様子は全く見られない。
しかしそれでも巧く行ったのであろうか、彼は満足そうに頷き、漸く一息ついた様に物思いの表情を浮かべる。
これで彼奴めに敗れても、一安心。
偉大なる秘術が、必ずや儂の助けとなる筈じゃ。
破る術を知らぬ小娘は、再び現れる儂に、迷う事となるじゃろう。
これならば、この業ならば、万が一にも気取られることもあるまい。
そろそろ次の手を打たねばならん。
これから丁度夜だ、儂の呪いの術で目に物見せてやろうぞ!
恐怖に凍り付く小娘の顔が、目に浮かぶようじゃわい。
物思いを終えた呪術師は鼻息荒く、廃集落の奥へと立ち去る。
未だ怒りが冷めぬのであろうか。
眉間に刻まれた皺の目立つ険しい表情、ばちゃりばちゃりと、地を踏み抜かんとする勢いのその足元を、何度も泥臭い飛沫が飛び散っていった。
誰も居なくなった廃集落の道端。
水の匂いを多分に含むゆるやかな風が、魔法を掛けられた木像の傍らを、ひっそりと通り抜けてゆく。
小雨に打たれ、道端に置き去りにされた木像は、しとどに濡れるばかりであった。
――――――――(2)――――――――
夕刻より降り出した雨はまだ、しとしとと降り続けている。
陽が暮れた後、誰も居ない廃集落、その納屋の中。
大きな風窓の隣に隠れるように陣取り、敷物の上に寝転がったエルヴンの女が独り。
闇の中、小さくとうとうと灯る蝋燭の明かりだけが、彼女の寝姿を辛うじて映し出していた。
ふと、何かが動く気配。
怪しげな術を遣う老人を斬り捨て、一休みとばかりに、寝転んでから暫くしての事。
カヤがその日の塒とした納屋の外を、何者かが呻きつつ、ぐるぐると回っている。
びしゃり、びしゃりと澱んだ水溜へと、よろけるように足を着け、飛沫を挙げながら歩いている様が音となり、辺りに響く。
それは、うう、ああ、と何事かを呻く様に呟き、ゆっくりと納屋の周囲を徘徊しているようだ。
菅笠を顔の上に乗せ、寝転がっていたカヤは、片手でほんの少し笠を上げ、うっすらと細く目を開ける。
暫く様子を伺ったのだが、周囲を彷徨う気配はすれども、歩く者の姿は見えない。
入り口はおろか、風窓にも目を見張ったが、音や声は確かに聞こえて来るのだ。
だが、向こう側が見える筈の場所に音が辿り着き、その方へと目を追わせても、まるで突然そこを過ぎ去ってしまったかの様に。
そちらへ視線を向けるものを謀ったかの様に、娘が見ている方の入り口や窓の部分を避け、通り過ぎたであろう辺りから濡れた地を踏む水音が響き渡る。
目を向けていない時は、開きっぱなしの入り口や窓の方から、びしゃりと水を滴らせ歩く大きな音が聴こえるというのに、目を向けるとその姿は全く見えず、何者が納屋の周囲を目視する事は出来なかった。
これは一体どういう事なのであろうか。
―――――――まあた おいでなすった 雨の中ご苦労なこって
―――――性懲りも無く 飽きねぇ御方様でございやす事
非常に不気味な現象を前に、彼女はくすりと笑い身を起こすと、怪しげな人影の出方を見る。
顔の上に乗せていた菅笠がぱさりと落ち、ひっくり返って敷物の上に転がった。
エルヴンの女が寝ている間にも、健気に灯っていた蝋燭の明かりが、ゆらりとはためく。
……すると唐突に一人の男が、何の前触れもなく納屋の入り口へと姿を現す。
血相を変えて、男は納屋の奥に駆け込んで来る。
「大変だ!
う、うちの子達が!
誰か、誰か助けてくれッ!」
それを聞くや否や、娘の口は固く結ばれ、への字口を形作ってしまう。
しかし、すぐ近くに置いてある朱塗りの鞘には、一瞥もくれず手を伸ばさない。
今は必要ないのだろうか、それとも彼を斬る気が無いのか。
座ったままの姿勢を変えず、腰を落とし話を続ける男の方へも視線を向けず、エルヴンの女はその目を細める。
「ああ良かった、旅の人。
うちの子達が大変なんです。
助けて下さい!
早くこっちに来て、早く、早く!」
彼女を丁度良い時期に見つけられた、という安堵の吐息を織り交ぜ、早口で捲し立てる男。
その面持ちから察するに、返事をすれば有無を言わさず、何処かへと連れ出す気だろう。
しかし相手にする気がまるで無いのか、カヤは言葉を発せず、身動ぎ一つしないままであった。
彼も近くで話をするが、彼女を掴み、強引に連れ出す様な事はせず――ただ、早口で大きくがなり、威勢良く言い放ちはするが、不思議とまるで手を伸ばしては来ない。
力添えを求める彼が立つ場所は目と鼻の先、近くはあるがそこから何故か一定の距離を保ち、それ以上近づく事は無いのである。
それは、寸前で手の届かない距離。
何の為に近づいて来ないのかは分からないが、お互い手の届かない距離を堅持している様に感じられた。
果たしてこの男は本当に、助けを欲しているのだろうか?
思惑を察しているのか、そうでないのか、どれ程強く助けが欲しい旨を訴えても、聞いていないかの様に黙っている娘。
それに対し、彼は訝しみつつ再度助力を請うた。
焦りと、恐れが綯交ぜになった声色、そして危うさと、極度の怯えに青ざめ震える顔色が、これから向かう先が何らかの瀬戸際である事を暗に臭わせる。
「は、早くしないと!
お願いです、旅の人、助けるのを手伝ってくれませんか。
急がないと、間に合わなくなってしまう」
……しかし、エルヴンの女は何も答えない。
何が気に入らないのか、彼の頼みに答える素振りを全く見せず、への字口としかめっ面を、入り口の方へとじっと向けたままだ。
彼女は一体何処を見ているというのだろう。
「あ、あの、お礼はします。
お願いします、一緒に来てくれませんか?」
彼は、黙っているカヤに向かい、平身低頭、哀訴するのではあるが……。
……それでもまだ、銀の髪の娘は何も言わない。
我関せず、男の話す事などどこ吹く風、といった風体を見せ、必死の形相で懇願する彼を尻目に、への字口で小指を立て、片方の耳穴に差し込むと、こりこりとほぐす。
何度か細かく、微妙に動かした指を引き抜くと、先にはころりと固まった耳垢が、張り付く様に乗っていた。
細目でそれを確かめた彼女は、ふう、と艶のある唇を尖らせ、そっと息を吹きかける。
ふわりと、指先から浮いたそれは、何処かへと飛び去り、それを見届けたエルヴンの女は、不逞にも反対側の手の小指を立て――。
彼女のその動静を察し、黙り込んでしまう男。
それを全く意に介した様子も無く、しかめっ面のまま、カヤは耳へと躊躇なく小指を差し込む。
耳穴に指を差し込んだ方へと顔を少し傾け、むにむにと細かに動かし、引き抜く。
引き抜いた指先には、先程と同じ様に耳垢がしとやかに張り付き、鎮座していた。
彼女は再び、艶めかしく唇を尖らせると、こびり付いた耳垢へと息を吹きかける。
ふうう、と柔らかい吐息が風となり、浮いた垢の塊が運ばれ、男の顔へと当たり――。
――何故か、不逞の塊は肌に当たっても跳ね返る事無く、そのまま突き抜けていった。
先程の子供達と同じく、夢か幻か、それとも――この世のものでは無いのだろうか。
鼻を鳴らし、凍えるような冷え切った笑みを、その顔に張り付けたカヤの視線が、その時初めて怪しげな男を貫く。
疑惑の眼差しを受け、普通であれば気まずい佇まいが広がる、と思われる中――、突然何かを思い出したかのように、男が話し始める。
わざとらしい――あたかもそう考えてもおかしくはない折に。
「早くしないとうちの子達がッ。
こんなに頼んでるのに、あんたはなにも思わないのか!
……くそっ!
この――外道め、呪われてしまえッ」
全く穏やかでない厳しい非難を、慌てて吐き捨てるように言うと、くるりと踵を返した男。
そのまま小走りで出入口へと向かったが、何も無い所を、階段を駆け上がる様に昇り、消えてしまう。
そして、立てたままの小指の先に着いた耳垢の残りを、先程よりも大きな吐息で、ふうう、と吹き付けて飛ばす娘。
張り付いた垢は、まるで古い漆喰が剥がれ落ちるように、めくれ上がったものが小さな欠片を引き摺るようにして、どこかへと飛び失せ見えなくなった。
静寂を取り戻した納屋の中、再びカヤが軽く鼻を鳴らす。
まだ、気に入らない何かがあったのだろうか?
しかし、何をするでもなく、彼女は降り続ける雨音を、静かに聞き入っている様でもあった。
微妙に揺らぐ光源の薄明かりの中、じっと座り物音一つ立てない。
雨音以外の音が伝わらない静寂に飲み込まれ、何も起こらない静かな刻が過ぎてゆく。
その頭上では、先程の子供達が鈴なりに天井に立つように並び、その顔に二つ空いた黒い穴を、座り込んだエルヴンの女の方へとじっと向けていたが、彼女は気付いているのか、それともそうではないのか――カヤがそれらを全く相手にせず、視線を向ける事無く静かにしている内に、それもやがて薄くなり、見えなくなった。
果たしてそれは気のせいだったのか、端でぴとぴたと雨漏りの続く天井にはもう既に、不思議と何者も居た痕跡を見取る事は出来ない。
しかし、ずるずると何かが、納屋の周囲を這いずり廻る音は続いている。
娘は静かに座ったまま、静かに相手の出方を待つ。
――――――――(3)――――――――
怪しげな男が昇る様に薄れ消えてから程なくして。
呪術師の出方を、窺い待つエルヴンの女の周囲に、再び異変が訪れる。
突然、ぼぼ、と風も無いのに蝋燭の炎が激しくはためく。
まるで病に臥せた者が、ばたばたともがき苦しむ様に、その身を捩らせていた灯火。
それは、荒れ狂う何かに耐えている有様を見せ付けていたが、力尽きふらりと倒れるようにして、唐突に消えてしまう。
刹那、夜闇が猛烈な勢いで、納屋の中へと侵入を果たし、埋め尽くした。
油が芯に焦げ付いたような臭いが、つんと銀の髪の娘の鼻の奥を擽る。
そして、体中が瘤で腫れ、怪物の様な容姿の女が納屋の入り口に立つ。
頭髪の間、額、瞼の上、鼻の頭、頬、顎、喉――。
様々な場所に大なり小なり、瘤が隆起し、その顔を覆う。
その為か、女の顔は酷く醜く腫れている様にも見えた。
更に、瘤で腫れているのは顔だけでは無い。
体中で膨れる数多くの瘤を、少しでも隠さんとするかのように、足まで引き摺られる、薄汚れたぼろを身に纏っているが、隠し切れない血色悪く、醜く腫れた部分がぼろの隙間から、その顔を覗かせている。
女はカヤの居る納屋の中へと向かい、ギヒヒと奇声を発するかのように、にたにたと笑う。
その容姿は、まるで何かの物語の中に描かれる、恐ろしい怪物の様な有様であった。
火が消えるや否や、そうれ、おいでなすった、とばかりに朱塗り鞘を手元に引き寄せるカヤ。
今度は本命であると相手の動きを読んでいたのか、雰囲気でそう悟ったのであるのか、果たしてその動きは迅速であった。
が――しかし。
何があったのだろうか――、エルヴンの女は新たな敵に対し、立ち上がろうとして、へたり込む。
全く力が入らない訳では無い。
何か重苦しいものが纏わり付き、まるで地面に縫いつけるかの様な勢いで、下へ下へと引かれるのだ。
右膝を地に着け、左脚の膝を立てた姿勢で何度も立ち上がろうとするのだが――。
しかし、その度に浮かせた腰が、何故か地に張り付く様に引き戻されてしまい、崩れた姿勢を正す事が出来ない。
やがてその内、足が動かなくなったのだろうか、左膝を立てたまま立ち上がろうとする様子を見せなくなる。
そのような様を見せた娘は、転がしていた朱塗り鞘を、左手で掴むのが精々であるように感じられた。
右手は足腰の何かを摘まんだり、外す様な仕草をするが、快方に向かう事は無く、何かに抑え付けられ、立てない状態が続く。
ぼろを身に纏う、醜悪な容姿の女がにたにたと不気味な笑みを浮かべ、ずるりと這いずるような音を立てて、納屋の中をカヤの元へと歩む。
ゆっくりと進む怪物の様な女の気配を感じても、エルヴンの女の脚は動く様子を見せない。
開けっ広げにしている裾から、すらりと転び出た滑らかな肌の、見目良い脚。
もしこの納屋の中が明るければ、その脚に、夥しい数の小さな手の形が、影の様に張り付いている事が分かる事だろう。
そして捕まれ、抑え込まれた感覚は右脚だけではなかった。
他の部分にも薄らと手形を残し、重苦しい感覚が伝わってくる――それは立てた膝や、腰の周りからも。
両足と腰にびっしりと、張り付いている事を感じられるそれらは、まるで影のように薄く、そして霧や霞の様に掴み処が無く、すり抜けてしまう。
脚腰に映る手形を退けようとしても、銀の髪の娘の手では、不気味な戒めを何一つ外す事が出来ない。
今、彼女の半身は、見えない何らかの手、しかも数多くの手によって、動く事を封じられてしまっていた。
観念したかのように、両の目をそっと閉じるカヤ。
ずるり、ずるり、ずるうりと、足元まで伸びた衣服を地に引き摺る音が、大きく響く。
企みが巧く行った事を悟った呪術師は、にんまりとほくそ笑み、思う。
クッククク、立てまい。
儂が喚び出した死霊の手共が、彼奴めの脚を掴みしっかりと抑えつけておる。
どうじゃ、この術とて儂の業からすれば、ほんの序の口よ。
この様子ではまるで動けまい、クク、動けまい。
後はこの手斧を、身動きの取れぬ、小生意気な小娘の頭へと振り下ろせば、それで終いじゃなあ。
動けぬ理由も分からず殺されるうぬも、大変不憫じゃがなあ、これも仕事なんじゃよ。
大変、至極残念な事なんじゃがのう……、儂はこのような蛮族が扱う獲物は不得手なのじゃ。
一回で楽にしてはやれんからな、そのあたりはどうにか我慢して貰わんとのう。
老体が斃され、今度は女の体に乗り移ったらしい呪術師は、その醜い表情を嬉々一色に歪ませ、エルヴンの女へとにじり寄る。
「ヒヒ、キヒヒ、ギィヒヒ」
思わず、軋む様な笑みが零れてゆく。
そして何かを引き摺る様な音が、止まった。
動けぬ銀の髪の娘――カヤの元へと、女が辿り着いたのだろう。
やがて今にも、見えない手に引き下ろされ、へたり込み動けぬ彼女へと、手にした獲物を振り下ろすに違いない。
キヒ、グェヒヒヒ、と嫌らしい笑みが響き渡り、続いて何かが動く気配。
辛うじて見える、とすら言えない程の、視野が閉ざされた暗がりの中、ぱちりと聞き覚えのある様な、微かな音が聴こえた。
これは、何の音か?
慄いてぎくり、と魂消る女の顔が強張り。
続いてびゅん、と速く軽く裂く音が続き。
そしてどどう、と刃が肉を断ち体が斃れ。
やがてざざざ、と小枝が風に戦ぎ揺れる。
……それは、瞬きする程の間の出来事。
振り抜かれた刃の軌跡が、昏い闇夜に紛れ煌めいた気がした。
が、今感じ取れる静寂からは、何が起きたのかを窺い知る事は、全く出来そうにない。
座ったままの姿勢で、既にエルヴンの女は手にした朱塗り鞘へと、抜かれた刃を収めている。
その命を奪わんと下から斬り上げた刃。
互いの気配しか感じられぬ程の、視野の通らぬ暗闇にも拘らず、その冷たい鋼は右腰から左肩口まで、一息に走り終えると、体中が瘤で腫れ、まるで怪物の様に醜い容姿の女は、声も無く地に倒れ伏し、物言わぬ屍と化す。
最後にからり、からからと、女が手にしていたであろう手斧が、乾いた音を立てて転がった。
奇妙な事だが――その傷痕からは、一滴たりとも血が噴き出したりはしていない。
先程の老体を斬った時と、全く同じ様に、どろどろと切り口から煙を吐き出す。
気付くとそこには、何処にでも居る町娘の風貌が横たわっている。
これもまた奇妙な事に、先程までの恐るべき醜さはどこへやら、若い女の姿と化していた。
納屋に斃れた女に掛かっていた、魔法が解けたのであろうか。
しかしそれが見て取れたのも一瞬の事で、町娘の体はやがて、もくもくと薄い煙を噴き出し始め――傷口より噴き出したその煙も、すぐに緩やかな風に流され、霧散してしまうと、横たわる女の体は、何周期も陽に干されていたかの如く干乾び、骨と皮しかないと見誤る程にまで、その容姿を変貌させてしまう。
そしてその遺された体も、見る見る内に灰の様にぼろぼろと崩れ落ち、跡形も無くなってしまった。
さあっ、と、風が吹き、それは塵となって舞い上がり、やがて見えなくなる。
途端に、枷が外れた様にころりと転がる娘。
――すぐに身を起し、辺りを見渡す。
怪しげな女を斬ると同時に、妙な気配も消え、体が軽くなった気がした。
足腰に捕まれたような、うっすらと小さな手形が若干残っているようだが、一瞥し少し撫でた程度で、大して気に止めても居ない。
片膝を立てて座った姿勢を崩し、カヤは胡坐をかく。
何時の間にか、耳に聴こえる雨足は、控え目となっていた。
ずっと続いていたぽとぽと、ぴちゃぴちゃ、と落ちゆく雨漏りの音が、今は極僅かに滴る音が聴こえるのみ。
ほんの少しの間かもしれないが、止んでいるのだろうか。
だが、まだ妙な事は続いている。
彼女の耳は僅かに聞こえる、立ち去ろうとする足音を捉えていた。
すぐ近くに、納屋の外に何者かが居たに違いない。
居たと言っても、恐らくは想像に難くない相手が、様子でも伺っていたのであろう。
……未だ、終わってなどいなかったのだ、何も。
それを感じ取ったカヤは、敷物の上に転がっていた菅笠を、ひったくる様に取り上げ、被る。
顎紐を素早く絞め、再び朱塗りの鞘を腰に差し戻すと、置かれた荷をそのままに、納屋の外へと向かい、何時もと変わらぬ足取りで、納屋の出入り口を後にした。
今度は、追う側となる為に。