2020年6月12日金曜日

ブログ小説 縁切徹 第四話 山道の妖(2)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

山道の妖(2)



――――――――(1)――――――――



現状に気が付いた行商人は、女の腰を掴んでいた手を、素早く手放す。
えも言われぬ肌触りと手に吸い付くような柔らかさ、そして安らぎを覚える様な温もりが離れてゆく。
後ろ髪引かれるような心残りが、掌に残った。

振り返ると、緩やかな斜面が目に映る。
ここを転げ落ちて来たのか。
その先を見ると、平地から続いて窪みの様な段差があり、そこを踏み外したのだろう。
大怪我をするような高さで無くて良かった、と胸を撫で下ろす。
そして、あそこから、そのまま滑り落ちて、そのまま――?
先程、女の尻に頬を当てていた行商人は、そこではたと我に返った。

「す、すすすみません。
ててて、て、てて手をッ。
その、な、なななんとお詫び申し上げたら……ッ」
とは言うものの、手に残った極上というに値する滑らかな 手触りは、そう簡単に忘れられそうに無い。
布地の上からであの感触とは。
もし、直に触れたのであったならば、どのような心地の肌触りを味わえるのだろうか。
思わずそう考えた彼は、ゴクリと何度も喉を鳴らす。
そしてぼんやりと自身の手を眺めていたが、やがて銀の髪の娘の視線に気が付き、慌てて姿勢を取り繕う。
「しっ、し失礼。
その、急いでいたものでして」
行商人は立ち上がって非礼を詫びる。
身が軽い――、恐らく背負っていた荷を、何処かに落としたのだろう。
それも、後で探しに行かねば。
行商人が立ち上がると同時に、くすりと笑った女は立ち上がり、彼の方を見た。
彼がどうやって詫びようか考えてあぐねていると、先に銀の髪の娘の方から声が上がる。

―――――――そんなに慌てて 何処へ御行きなさるのやら
―――――何を一体ぇ どうなさったんで ございやすかい?

そう言った彼女は、片手で菅笠を軽く摘まむ。
そしてつい、と笠が押し上げられ、彼女の顔が見えた。
紅い瞳に、銀の髪。
並の人とは絶対的に違うと感じる、整った容姿が目立つ顔立ち。
育ちの良さそうな、愛らしい微笑みの横に、人のものではない、長い耳が付いていた。
その娘はゆったりした衣服に、青地に白い縦線が並ぶ外套を纏う。
森のエルヴンは、客としての付き合いが多少あるから、何とか分からなくもないのだが。
だが、山側のエルヴンは、時折珍しい衣装で通りがかるのを見た事があるだけで、付き合いと言える程のものは持っていない。
森側に住むエルヴンは、比較的人に近い格好をしているが、山側はまた違う独特な意匠の衣を着、独自の形状の家屋を立てて住むと聞く。
風習はほぼ変わらないのだが、何故そんな違いが出るようになったのかは、行商人の持ち得る知識では分からなかった。
森と山、その山側に住むという、エルヴンの旅衣装――ええと、確か何と言ったか。
「え、エルヴン?
格好からすると、山側の方ですか」
漸く彼が声を絞り出すと、朗らかに娘が答える。

―――――――見てくれは 山部の出立ですがね 森部の出ですぜ 
―――――あっしは山部の暮らしが まあ 長かったもんでございやすから
―――紛らわしくて 申し訳無ぅございやす へい

どうやらそう言う事、であるらしい。
話を聞く限りでは、彼女はどちら側である、という事もない様だ。
まあ人の領に、エルヴンが住んでいる事もあるし、当然ながらその逆もある。
エルヴンの領の中でも、同種氏族間での移動等が、行われていても何の不思議もない。

―――――――それでお前様は 何を慌てていなすったんですかい?

挨拶は済んだとばかりに、続いての不審そうな声色とそして、訝しむ視線を投げかけられ、彼は思わず震え上がる。
若く美しい娘に、このような視線で見られては堪らない。
「そ、それです。
じじじ、実はですね……」
興奮した面持ちで、身振り手振りを交えながら、身に起きた事を行商人は語った。
先刻、旅をしている連れと休憩中、謎の怪物が現れ、追われた事。
逃げている最中、その連れの行方が分からなくなってしまった事。
夢中で逃げていく内に、そこの窪みから踏み外し、滑り落ちた事。
だからさっきのはあくまで不可抗力、アレは決して、わざとでは無いのだ、と。
必死の形相が通じ、功を奏したのか。
銀の髪の娘の怪訝な顔付きは、元のふんわりとした、面持ちへと変わっていった。
警戒は解けたようだ――、ひとまずは安心しても良いのかもしれない。

―――――――ほう そいつぁ大ぇ変でございやしたね
―――――どうれ あっしがちょっくら 様子を見てきやしょう

話を聞き終えた娘は、にっこりと笑って、こう申し出る。
そして、顔が痣だらけだから、薬でも塗った方が良いと告げた。
有難い話ではあるのだが、恐ろしい化け物が近くにいるかもしれない。
一緒に逃げることを進めるが、彼女は何も言わずに微かに微笑み、黙ったままそっと、腰の朱塗りの鞘を指し示す。
これがあるから大丈夫、と云っているのだろう。
商人の男に、どの辺りから来たのかを窺った銀の髪の娘は、彼が転げ落ちてきた斜面、その緩やかな坂をすたすたと登り、その向こうへと姿を消した。
彼女の背を見送った彼は、衣服に付いた埃を払うと、再び歩き出した――失くした荷を探す為に。



滑り落ちた坂を登る途中、背負っていた鞄が、まるで捨て置かれた様に横になり、ぽつんと置かれている。
恐らく、転げた時に背から外れたのだろう。
山の斜面に、置き去りにされていた荷物を手早く纏め、街道に戻る。
朧げな記憶を頼りに、元来たと思しき道を進み、銀の髪の娘が現れるのを待つ。
彼女が戻るまではもう暫く掛かるだろう、暇にかまけて何もせぬ訳にも行かず、商品の無事を確かめるべく、中の荷物を改めると、粘土を焼き固めた皿や壺などは、全て割れていた。
これでは、もう売り物にはならない、という物が幾つも見つかる。
壊れた物や、使い物にならなくなった売り物も含め、物品と金銭の損失を考えると、頭が痛くなった――が、命と引き換えにしてまで、守らねばならない価値の物でもない。
全ては命あっての物種だ、今は、今は生き残らなければ。
商品はまた買って儲けを出せば良い、死ねば商売すら出来ないのだから。
そう考え、気を取り直し、擦り剥いた所に、薬を塗って手当をする。
見れば何時の間にやら、顔や手足のあちこちに、痣や切り傷が付いていた。
どれも大した事は無いが、傷口はどれも皆、ひりひりと痛む。
腕に付いた赤黒く固まった傷、その上から薬を塗ったのだが、塗り方が悪かったのか、染み入る様に痛い。
痛てて、と声を上げながら、大きな引っ掻き傷を洗い、清潔な布を当てて巻き付ける。
簡易的だが、やらないよりは、遥かにましであろう手当を終えると、行商人は荷造りを始めた。

刻が経ち、比較的ゆっくりと荷を改め終えても、エルヴンの女は姿を現さない。
彼女はまだだろうか。
独りだと孤独感や不安で、押し潰されてしまいそうだ。
しかし、遅い。
これで何度目かとなるのか、手持無沙汰に再度始めた荷造りを、もう一度済ませる。
あの娘は、何処まで行ったのだろう、先へ向かってしまったのだろうか。
もしかすると、さっきの化け物に、もう……。
ふとした一瞬に、嫌な考えが脳裏を過ぎった――しかしすぐに、頭を振って考えを改める。
だが、止そうと思いはしても、嫌な考えが次々に浮かぶ。
自分が話さえしなければ、あんな若い娘が犠牲になるなんて事は……。
恐れからか、肌寒さを感じ、震えが収まらなくなってきた気がする。
兎に角、今は誰かと一緒に居たかった。
それにはこのまま街道を誰かが通りかかるか、銀の髪の、エルヴンの女が戻って来るのを待つしかない。
行商人は青ざめた面持ちで、不安げに辺りを見渡しながら、誰かが通りかかるのを待つ。

そして、どの位の刻が過ぎたのだろうか。
行商人が待っている街道へ、先程の娘がひょっこりと姿を現す。
変わりない様子で歩く、彼女の無事を確認した彼は、悪い想像が現実にならずに済んだ事に、そっと安堵の吐息を漏らした。
暗く押し潰されそうであった表情を明るくし、駆け寄った商人の男。
「ど、どうでしたか?」
彼は、漸く出会えた銀の髪の娘へ問う。
――すると。
エルヴンの女が口を開き、思っていたよりは呆気無さそうな声色が、耳朶へと飛び込む。



――――――――(2)――――――――



街道を逸れ、草木を掻き分けて進み、また戻って道を挟んだその先。
右に左にと忙しく歩き回るカヤは、鬱蒼と茂る木々の、その奥に、黒い何かが落ちているのを見つけた。
彼女は、そちらにも足を向けてみる事にする。

藪を潜り抜け木々の間、少し開けたゆるやかな斜面。
そこには、何かが倒れていた。
黒髪の頭。
生まれる前の赤子ような体躯の先に、恐怖に目を見開いたままの、青年の顔が付いている。
吐息に合わせて、異様な色の小さな体が僅かに膨らみ、縮む。
これは、生きているのか。
その証拠に、青年の顔は眼を見開いたまま、静かな寝息を立てていた。
どう考えても、草木の一種では無いだろう。
そうとは思えない異様さが、その者からは感じ取る事が出来る。

離れた奥を見ると、同じ顔がそこにはあった。
少し離れて、またそこにも。
同じ顔。
同じ顔。
同じ顔。

異様な光景が眼下に広がっている。
同じく恐怖に目を見開いたままの青年の顔。
手足は細く糸の様になり、一つに束ねられ、地や木の上に伸びている様だ。
幾つもの同じ顔、異様な体色、生まれる前の赤子の体躯を持つ者が、その辺り一面に散らばるように寝転び。
元は落ちて来たものであるのか、木枝にに引っかかり、ぶら下がるものも居る。
どれも、最初に見かけた者と同じく、微かに寝息を立てていた。

これは噂に聞く、魔獣というものだろうか。
考えた末、思い当たる事柄は、この一つしか思い浮かばなかったので、そう考える事にする。
これまでにカヤはそういったものを、まるで見た事が無く、以前身を寄せていた所で僅かに学んだ事柄や、旅の途中で見聞きした内容と照らし合わせても、このような獣と遭遇した事は無い。
彼女は懐から小筆を取り出し、提げ物から小さな帳面を引き出す。
そしてぺろぺろと筆の先を舐め、先端を柔らかくすると、帳面に何事かを書き付けた。

一説で、魔獣は偏った欲しか無いと言われる。
もし本当にそうであったなら、この面妖な獣は、恐らく眠る事しかしないのだろう。
さっきの男は、これを見たのだろうか?
確かに不気味ではあるが、見る限りでは大して危険そうには見えないし、これに襲われた様にも思えず、エルヴンの娘は首を傾げた。
拾った枝で突いたり叩いたりしてみたが、起きて襲ってくるという事も無い。
確かに、同じ顔の生き物が沢山居るという、異様な光景ではある。
だが、眠っているだけなら、何も恐れる事も無さそうだが。
眠っていると思しき魔獣を突き飽きたのか、枝を投げ捨てると彼女は踵を返し、帰路に就く。
途中何度か振り返ったが、やはりその面妖な生き物が、起きてくる気配は無かった。

単なる取り越し苦労、だったのかもしれない。
見間違いである事も考えられる。
少なくとも、先程彼女が見た異様な者達、では無い筈だ。
騙されているのなら、賊共がさぞかし楽しい宴の支度を、整えてくれていた事だろう。
それならば、今頃はもう既に幾人かに囲まれ、ご期待通りに斬った張ったの大立ち回りを、演じている筈である。
もしそうでないのなら――現にそうでは無かった為、また違う何かが、この山に潜んで、通り掛かる者達を襲っている、という事なのだろうか。
しかし、先程の行商人が言う、連れ――同道者が連れ去られたとは。
飯時には一緒に居た筈の、誰かが居なくなった事は確かであるらしい。
それは一体何に、何処へ?

不審な点を幾つも抱えながら、銀の髪の娘は山越えの街道の方へと急いだ。



「ど、どうでしたか?」
街道に出るともう居ないと思っていた、先程の行商人が待っており、目敏くカヤの姿を見つけると駆けて来て声を掛ける。
恐ろしいものを見たというなら、先に逃げ帰っても良かったのに、わざわざ待っていたらしい。
彼女は密かに周囲を探ったが、他に待ち構える者等は居ないようだ。
どうやら本当に、只の商人なのだろう。
賊ではないかという疑いは晴れたが、エルヴンの女は皮算用がご破算となった事に、やや詰まらなそうに口を尖らせている。
その為か、やけにあっさりした回答が、彼の耳朶に飛び込む。

―――――――お前様の仰る 物の怪ってやつぁ 影も形も 見当たりやせんぜ
―――――大方 木ッ葉か何かと 見間違えたんじゃぁ ねぇんですかい?

影も形も見当たらないとは、どういう事だろうか。
男は驚いて、銀の髪の娘へと問いを投げかけた。
「えっ?
……そんな筈は。
確かに見たんですけど……。
連れも見ましたし、必死に逃げて来たんですよ、私共は。
おかしいなあ、気のせいでは無いと思うんですが。
その所為か現に、連れが居なくなってしまいましたし。
それでは、私が見た化け物は、居なかったんですか」

―――――――へい 左様で
―――――あっしが見たのは こおんな奴で ございやしたねぇ

娘は云う。
眠ったまま、ぶら下がったり、落ちていたりする者は確かに居たが、宙に浮くものでは無かった、と。
先程彼女が見たという、奇怪な生き物の話を伺った行商人は、再び仰天した。
この山は矢張り何か居たんじゃあないか、と喉から出かかった大声を飲み込み、必死で堪える。
ならば先にそれを云って欲しかった、とも思う。
私からすれば、それも十分に化け物の範疇だと思うのだが。
そのような気味の悪いものを見て、驚きはしなかったのだろうか、この娘は。
しかも、拾った枝で突いたり叩いたりしたと聞き、よくそんな恐ろしい事が出来るものだ、と行商人は呆れ、また深く感心した――私なら、例え枝であっても、そんな事は出来はしない。
先刻と同じ様に、情けない悲鳴を上げつつ、忽ちの内に逃げ出していただろう。
もしその怪物が目を覚まし、襲い掛かってきたら、果たしてどうするつもりだったのか。

そんな事を考えている内に、彼女の話が終わった。
普段ならば、到底信じられない内容の話ではあったが、休憩中に怪物が現れ、連れの行方が分からなくなってしまった後の事、彼はすんなりと話を信じる。
この山には、気味の悪い何かが居るのは、間違いない。
化け物に気が付かなければ明日には、わが身がどうなっていた事やら。
急げば後一夜を過ごすだけで、平地の街道へと辿り着ける筈。
一刻も早く――急いで山を下りねば。
話を聞いている内に、落ち着きを取り戻した行商人は、エルヴンの女に礼を言う。
「――そうですか、私の為にわざわざ様子を調べて下さって、有難う御座います。
お手数をかけさせてしまいました。
それで、これからどちらへ向かうのですか?」

―――――――あすこの麓へ 向かってる途中でさ
―――――それじゃあ あっしはこの辺で 御免なすって

商人の男の問いに銀の髪の娘は軽く頭を下げ、街道を下る方へ向けて歩き始める。
彼にとっては幸いながら、彼女と進むべく方向は、等しいものだった。
離れていくカヤに、そそくさと荷物を纏めた商人の男が後を追う。
「あっ。
向こうに行くんですか?
そ、そこまでご一緒しますよ。
実は私も、そちらの方の街へ、帰る予定でして……」



二人が立ち去った後、それは現れた。
どこか遠くから、木々や藪を擦り抜けるように、ひょろりとした細長い姿を現す。
それは、何かの生き物としては、獣にしては、異様な体色をしていた。
細長い体は、何処に繋がっているというのだろう。
藪の向こうから出てきている為、その根本までは、窺い知る事は出来ない。
が、話に聞いたのとは違い、一つではなかった。
木々の葉や茂みをがさがさと掻き分け、幾つもの同じ様なものが宙を伝う様に現れる。
幾本もの気味の悪い色が、探る様に伸び、辺りを埋め尽くす。
それは、何かを探している様であった。
とても長い体を宙に浮かせ、暫く辺りをうろつくかの様にして。
やがて、目的のものが無い事を確かめたのか、何処かへと戻ろうとしたのか、それらはするすると宙を滑る様に、その身を引っ込めてゆく。
そして今度こそ、何者も居なくなったのか、辺りは漸く静寂を取り戻した――。



――――――――(3)――――――――



街道を娘と男の二人が、並んで歩く。
強引に付いて行ったものの、エルヴンの女はその事を特に気にしてはいない。
話をすれば返事をし、彼女からもまた対話を返す。
むしろ、こちらに合わせてくれている、そのような感じを受ける程、その姿勢は大らかである。
揃って麓の近くまで歩きつつ、陽が沈む頃合いを見て休めそうな場所を探し、そこで夜を迎える事となった。
このまま何事も無ければ、明日には山を下りられるだろう。

火を起こしつつ商人の男は、何とかして安全に山を下りる手立てはないか、と考える。
思案に暮れていると、エルヴンの女の腰に収まった、朱塗りの鞘に目が留まる彼。
そうだ、彼女は帯剣しているのだ。
護身用かもしれないが、無いよりはあった方が心強い。
陽が高い頃に見たような、怪物が現れた時などは、特に。
エルヴンで独り旅という事は、もしかすると、相応に強かったりするのだろうか?
行商の合間合間に聞いた噂では、たった独りで旅をするエルヴンは、かなり腕が立つとも聞く。
「あのぉ、ご立派な剣をお持ちですが……。
エルヴンの剣士は確か……、二つと――。
もしかしてこれは、護身用でしょうか」
恐る恐る、彼は訪ねてみた。
彼等彼女等の習慣では、そう、二振り持っていると聞いているのだ。
それも何故か、と言う事も、合わせて訪ねてみる。

―――――――こいつですかい?
―――――こいつぁあっしの 商売道具でさ へい

すると、短く応える娘。
噂通りの二振りでない理由は定かでは無いが、商売道具、という事は、腕に覚えがある剣士か、または旅で芸を行う者だろう。
仮に旅芸人としても、この物騒なご時世に、護身用に剣一本だけ携えて、独り旅を行っているのだ。
相当な腕前である事は、想像に難くない。
話を聞いて貰う価値位は、あるかも――何かに縋る気持ちで、火を起こし終えた商人の男は、続けてエルヴンの女に、交渉を持ち掛ける。
「あ、あの。
謝礼はお支払いしますので、もし良かったら、山を下りた安全な所まで、ご一緒して下さいませんか?
今、手持ちはあまり無いのですが……。
法外な額で無ければ、店に帰り着きましたら、追加でお支払い出来ますので。
どうか、お願いいたします」
当然ながら、金子を支払うから、この先何かあれば守って欲しい、という意味であろう。
必死の頼みに、少し考える銀の髪の娘。
歩きながら口元に人差し指を当て、小首を傾げつつ彼女は言った。

―――――――へい あっしに ご用命で? 
―――――そうでございやすねえ この山の下まで となりやすと
―――飯と塩を ほんの少し分けてくれりゃあ 仰せの通りに致しやしょう

「あ、あります……けど。
本当にそんなので良いんですか?」
要求された報酬は、今晩と明日の朝昼の食事、それに塩が入った小袋を一つ。
左程間を置かずに返って来た答えは、法外と言えば法外な――少なすぎるという意味では、実に法外な要求である。
再度問う男に、銀の髪の娘はにこりと微笑み、軽く頷く。
驚いた事に、どうやら本当にそれで良い、という事らしい。
少なくとも道中の距離に応じた、金銭を要求されると思ったが、当てが外れたようだ。
助かる、と云えばそんなもので済むのなら、随分と助かるのだが。
「それ位なら、街に帰り着くまで私が、お代を持ちましょう。
食事の一人分位、どうって事ありません。
他にご入用の品があれば、遠慮なくお申し付けください。
あっ、そうだ!
お名前を、まだ伺っておりませんでした。
先程は助かりました、是非お名前をお聞かせ願いたいのですが」
思わず拍子抜けする程、話が上手く纏まったのか、捲し立てる様に話す行商人。
ついでに、エルヴンの女の名も聴く。

―――――――へい あっしはカヤと申しやす

一言、緩やかに答えた銀の髪の娘は、彼の方を向き、微かに微笑む。
それは、これから訪れる夜闇を優しく包む、風の様な声あった。



陽が山間に隠れると共に、日陰の様に伸びて来た夜闇が、あっという間に、辺りを自らの色に染め上げ支配する。
手付として塩の小袋を渡し、商人の男が、用意した食事を振舞ってから、暫くしての事。
焚火近くの手頃な岩に腰掛け、物思いに耽っているように見える娘を、じっと彼は観察していた。
その彼女は今、妙な香りが漂う茸を、木串に刺して焚火で炙り、それを美味そうに齧っている。
客として居なかった訳では無いが、人以外はあまり多く住まぬ土地柄故か、出会った回数は矢張り少ない。
彼等彼女等は、人とは違う風習を持つ為、商売をする上でも扱いが難しいと聞く。
だが、容姿さえけなさなければ、上手く付き合えるはずだ。
男女問わず容姿が自慢のエルヴン達は、その肌の手触りも優れているのだろうか?
あの腰に、脚に、この手が触れていた――と思うと、自然と顔が熱くなってきてしまう。
すらりと伸びた形の良い足腰に、自然と這わせていた視線を、そっと外す。
だが、視線を外した程度では、覚え良く手に残った感触は、消えてくれそうにない。
水でも飲んで、落ち着こうとした矢先、彼女の方から声を掛けてきた。

―――――――申し お前様 御顔が赤うございやすよ

どきり。
何故か一瞬、心の臓が口から飛び出るかと思う程、胸の奥が強く、強く跳ねる。
そして、甘酸っぱい気まずさが、口の中一杯に満たされてゆく。
「す、す、すみません。
あの事は本当に申し訳ない」
娘の声に、盗み見るようにこっそりと伺っていた事が、白日の下に晒されてしまった様な気持ちになり、慌てる行商人。
これでも生真面目かつ、品行方正で通してきた商人の端くれだ、妙な噂が立つ方に気を利かせてしまう。
そして、平身低頭謝りはしたものの、この手からはあの柔らかく、滑らかな肌の感触は、まだまだ消えそうにない。
行商人は、気恥ずかしさに身を縮こまらせ、更に顔を赤く染め上げた。
真っ赤に燃え照らす焚火の明かりで、何とか誤魔化せはしないだろうか。
そう思いはしたのだが、あの事、と聞いた銀の髪の娘は、ほぉん、と何やら得心がいったように口を窄める。
しどろもどろの彼が言う事に、何か思い至った事柄でもあったのか、彼女は楽しそうに口端を吊り上げ、語り掛けた。
さながら、退屈凌ぎに丁度良い、獲物が現れたと言わんばかりに。

―――――――尻に触られて きゃあ と云わなきゃならねえのは あっしの方ですぜ
―――――だのにどうして お前様の方の 顔が赤くなるのか さっぱり解せねぇんでさ

くすくすと笑みを溢しながら、カヤが行商人へと微笑む。
目深に被った菅笠からは、その表情の全貌は伺えなかったが、きっと狩人の様な目付きをしているのだろう。
もしかすると、商人の男が言わなければ、気が付かなかったのかもしれない。
聴こえて来る声色から、伺える様子からすれば、その事でエルヴンの娘は、全く怒っていないように感じられるのだが。
しかし、それでなくても妻子ある身、どうしても妻の怒った顔が、何故か浮かんできてしまうのだ。
胸が締め付けられるような罪悪感が溢れ、どうにも居た堪れなくなった商人の男は、恥ずかしそうに顔を隠したり、娘の様子を窺ったりと、その顔付きは目まぐるしく変化する。
なかなか消えぬ手の感触に、彼は頭を振り、意識の中の妻に対し、ひたすら懺悔を行う。
しかし、幾ら誠心誠意詫びようとも、あの滑らかな肌触りへの未練を、未だ捨てきれぬ彼を見越して、強く責めるかの如く、中々許してはくれない。
行商人が目を白黒させて、その顔を青くしたり赤面させる様を、銀の髪の娘は面白そうに眺めていた。

やがて彼も落ち着きを取り戻し、焚火の火の番に専念する。
商人の男は再び、エルヴンの女の方へと視線を向け、そっと様子を窺う。
すると娘も気付いたのか、視線が交わされ、それもすぐに離れてゆく。
彼女――カヤからは、それ以上の追及は無かった。
……先程の事は、恐らく、心情を悟られ、からかわれたのだろう。
その事に気づいた行商人は、ばつが悪そうにもう一度視線を投げかけたのだが、それも気付いた銀の髪の娘も先程とは違う、やんわりとした微笑みを返してくる。
そのまま二人共、何も言わない刻が過ぎ行くが、不思議と悪い気はしない。

彼女も、妻も、怒ってなどいなかったのだろう――何故かそう思えた彼は、そっと安堵の吐息を下ろす。