2020年6月19日金曜日

ブログ小説 縁切徹 第四話 山道の妖(3)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

山道の妖(3)



――――――――(1)――――――――



辺りの薪を拾い集め、手持無沙汰になった行商人は、何か話題は無いかと考えた。
静かな夜も良いが、図らずも折角の美人と御同伴の旅。
ふ、ふふ触れるのではない、話すだけ、ただ話すだけならば(想像の中の)妻も怒りはしないだろう。
夜も更ける中、行商人は、焚火の明かりに照らされる、美しいエルヴンの娘をじっと見詰める。
彼女は視線に敏感な様で、こちらが視線を投げかけると、すぐに顔を向けて来るのだ。
しかも、驚く程速くに。
この機敏さは、どこから来るのだろう、彼は何か勘所に引っかかるものを感じた――それはカヤの優れた身のこなしを、感じ取ったのだろうか。
向き合えば愛らしい微笑みに押され、見つめ合う事に気恥ずかしくなって、顔を背けてしまうまで、何度も繰り返し続いてゆく。
それが終わると、また再び斜面の上の方だろうか、彼女はその一点を見てじっとしていた。

銀の髪の娘を観察しつつも、商人の男は考える。
私の家と店がある、山を下りた近く街に、遅くとも明日後日には帰り着くだろう。
近くを通り掛かったついでに、私の店で買い物でも、と誘えば……。
商人の男は、ふと思いついた事柄に、何気なく舞う火の粉を眺めるふりをして、空を見上げながら、独りほくそ笑む。
何かあったかな……エルヴン式の剣の手入れ道具は、確か幾つかあった筈だ。
他にも、糧秣は必要な筈だ、これも売れる。
容姿が自慢のエルヴン達の事だ、男女問わず肌の手入れを欠かさないのは、商売柄知っている――ようし、それなら化粧水も……。
予め好みを見聞きして知っておけば、商品の準備も円滑に進む。
只者で無さそうな、独り旅のエルヴンと言えども、所詮は若い娘。
場を盛り上げた所で、改めて商品を勧めれば、財布の紐もきっと緩くなって――。
彼の中で、作戦を立てるかの如く、対話予想が組み上げられ、着々と完璧な儲け話の計画が練り上がってゆく。

さて、どうやって話を持って行くか。
そうだ、見れば彼女は、エルヴン式の剣を持ち歩いている。
これを商売道具と言っていた、その腕前はどうなのだ。
先ずはそこから話を振って、会話を盛り上げていくのはどうだろう。
そうそう、エルヴン達に伝わる、刀剣を使った曲芸というのは、私自身はまだ見た事が無い。
しかしもしも、カヤさんが剣士だとしたら、剣で芸をする話題は失礼か?
腕に自信のある剣士ならば、そんな話は出すだけで、侮辱と受け取られる事だってある……、もし機嫌を損ねたら、私の店には寄ってくれなくなるかもしれない、話す事柄は慎重に決めねば。
だったら、エルヴンの剣士なのか、旅芸人なのか、それを先に確かめれば!
よし、これで話をすれば……きっと上手く行く。
「あのぅ……」
勝算が立ったのだろう、意を決して、行商人が声を掛けようとすると、突然彼女は虚空を見上げ、言った。
話の腰を折られ、声を上げる切欠を失った彼は、思わず黙り込む。

―――――――ありゃあ一体 何でございやしょうか

遠く、木々の間に、妙なうねりが見えるらしい。
始めは霧か霞か、と見過ごしていたのだが、どうやらそうではない、と。
声を上げる彼女の瞳は、宙をさ迷うモノの存在を捕えていた。
行商人が話を聞くと、この山の上の方に、何やら怪しいものが見えるとの事。
だが今はあまりにも遠すぎて、それが何なのかはまだ分からない、と云う。
様子を見に行こうか、と問われたので――こんな山に独り残されるなど真っ平だ――それは丁重に断る。
「わ、私には何があるのやら……。
夜ですし、こう暗くては、何も見えません。
もっと明るい方が良いでしょうか?」
正直な所、焚火が照らし出す範囲から外は、真っ暗で何も見えないのだ。
そう答えるのが精々で、薪を火にくべてみるが、それ位で視野が広がる筈もなく。
銀の髪の娘が、何を見ているのやらさっぱり判らず、情けない声を上げる商人の男。

―――――――お前様 あっしは エルヴン族ですぜ
―――――そりゃあ無ぇよりはあった方が 遥かに良うございやすが
―――明かりなんざぁ無くっても 此処ら辺りは視えておりやす へい

思わず同じ方向へと目を凝らして、何度も見直してはみたものの、男の眼に怪しいものは、ちっとも見えないのだが。
エルヴンという種の身体能力は、噂話程度には聞いていたが、本当に夜目が効くようだ。
そして娘の方へと視線を向けたが、彼女は座って一点をじっと見詰めたままである。
どうやら、見張ってくれているらしい。
「わ、私が見たアレでしょうか?
それは、どの辺りに居るんでしょう。
こっちに来そうなんですか」
だが、急激に沸き起こる不安に、押し流され慌てて問う行商人。
しかし娘が云うには、気のせいでは無いが、かなり遠いので、今心配しなければならない、という程の事でも無さそうだ。

―――――――のんびりすりゃあ 良いんじゃねえですかい
―――――こっちにゃあ 来ねえかも知れねぇんですし

心配した行商人の問いに、ふわあぁ、と欠伸交じりに彼女は言う。
全く心配なさそうな様子を見せるエルヴンの娘に、彼は何事も無ければ良いのだが、と強く念じる。
彼は今、明かりが無ければ移動もままならない、無力な存在でしかない。
本当に今夜だけでも、もう何事も起きませんように、と。



暫くして、一点に視線を投げかけていたカヤが、再び口を開いた。
しかし、その声に緊迫した感情は、一切込められていない。

―――――――お前様 奴さんはどうやら こっちに来るみてぇですぜ
―――――どうなるか分からねぇんで 支度を済ませておいておくんなせえ
―――まあったく 雇われたその日にもう御勤めたぁ あっしも熟 運のねぇ女でさ

「えっ?」
悪い予感が現実になってしまったのか、その様な言で軽く笑う娘の言葉に、行商人は驚く。
願い空しく、怪しい何かが、こちらに近づいて来ている。
先程言っていた、靄の様な何かの事だろうか。
慌てて同じ方を見るが、人である彼に夜闇を見通す力は無く、困惑するばかりだ。
しかし、この娘が嘘を言っているようには思えず、現に陽の高い時に、化け物が現れるのを目の当たりにしている。
用心は幾らしてもし足りる事は、まず無い。
そう考えた商人の男は、食器や鍋を片付け、食料を背負い鞄に仕舞う。
荷物を纏めると、そそくさと身に付け、何時でも逃げ遂せる準備を済ませる。
エルヴンの女が言うにはまだ遠くで、ここまで来るにはもう少しかかりそうだ、と云う。
一戦交える気に満ちたエルヴンの娘に、今の内に遠くへ移動するなり何なりして、逃げられないか聞いたが、返答は彼女一人ならともかく、彼では移動が困難を伴うだろう、と。
確かにそうだ――しかもここは夜の山の中。
明かりも無くさ迷った所で、化け物から逃げられるとは、到底思えない。
だから、彼女がここで迎え撃ち、隙を作ってその間に、彼には少しでも遠く行ってへ貰うのだそうだ。

自分より若そうな娘を置いて、独り逃げ去る事に、若干抵抗感を覚える彼。
このままで良いのだろうか。
しかし、そう思いはしたものの、商人の男には化け物と戦う武器も能も無ければ、そのような気概も持ち合わせてなどいない。
結局、彼女の言う通りにするしか、方法は無いのだろう。
支度を済ませた後も、薪を火にくべて、常に明るさを保とうとする。
化け物など、見えない方が良いのかもしれないが、何も見えないままと言うのも、何だか嫌だ。
そして、彼女も言っていた――明かりが無いよりは、あった方が良い、と。
薪から起こせる火程度では、影響はあまり無いかもしれないが。
今、彼の出来得る働きで、彼女の助けになりそうな事と言えば、この位しかない。
商人の男は何もしない、という事が出来ずに、緊張した面持ちで、せっせと薪を火にくべつつ、エルヴンの女の合図を待つ。
対話は無く、しじまに満ちた夜の刻が、穏やかに流れ過ぎ去ってゆく。
二人共黙ったまま、さらさらと風にざわつく木々の枝音、ぱちり、ぱちぱちと、薪が燃え盛る音を、長い間聴いていた。

どの位刻が過ぎたのだろう。
気が付くとそこに見えたのは、竹筒からひと口、こくりと水を飲むカヤの姿。
口を離すと、岩の上にこつんと置く。
そして、座っていた岩から、徐に立ち上がった彼女は、腰に差す紅い鞘にそっと、左手を添え宙を見据える。
数舜遅れて行商人がその方向を見上げると、焚火に照らされ、数多くの細長い影が、ちろちろと映り込んでいた。



――――――――(2)――――――――



宙に、幾多の影が浮く光景が広がり、行商人は唖然とし、信じられないとばかりに、ぽかんと口を開く。
一匹だけだと、思っていたあの化け物が、群れを成し、焚火の周囲を取り囲む。
あの時も確かそうだった。
怪物が現れた時の事を思い出す、彼の背筋を冷たいものが走り抜ける。
長年苦楽を共にした、連れ合いの叫びを背に、目を瞑って山肌を駆け降りた事は、記憶に新しい。
何時の間にか、音もなく忍び寄られていた――それは、運よく気付けたから良かったようなものの。
今回も気付けば宙に浮くそれが、不気味な色合いのその身を、幾つも視野に映し出す。
それはさながら、世に籠った悪意が、この世にひっそりと現しているかのように。
幾つかの影が、木々の間を抜けて、ひょろりとした姿の先端を現し、二人の方へと向ける。
その様子はまるで、世に出てはいけないものが、薄気味悪い色となり滲み出て、こちらを窺っている様でもあった。

「ひっ?
あっああああああ!
あっ、あれです、あれですよ私が見たのは!
あれが、私と連れを追ってきて!」
陽が高い頃、様子を見てきてくれた、カヤが発見したものとは、明らかに違う姿。
唯一つ違うのは、数がとても多いという事。
彼はあれが元凶であると、興奮のあまり裏声と化した甲高い声で、エルヴンの娘へと懸命に伝えようとした。
「わ、私、見たの――いっぴき、一匹。
あああああ、あんな。
あんなに、居るなんて、し、しししし知らない。
きき、聞いてない、聞いてないです、はい」
言いつつも商人の男は、逃げ切れたと思っていた事が、誤りであった事を悟る。
が、喉から絞り出される様に、込み上げる呻きが邪魔をし、呂律が巧く回らない。
アレは眼も、耳も無い様に見えるのだが、どうやってかアレは正確に、執拗に追ってくるのだ。
あの時を思い出せば思い出す程、急激に表情が固く強張ってゆく。

―――――――へえ こいつぁまた 面妖な

しかし返って来たのは、緩やかな口調で、たった一言。
その雰囲気からは、それを始めて見る様子ではあったが、それならば、もっと驚いても良いだろうに。
だが娘は口元に手を当てて、二人を囲んでいるものを、じっと観察している様であった。
山に入る前、茶屋で伺った噂話。
かなりの話し好きである女店主から、少々呆れながらも聴き得た、近頃現れた山の怪とは、恐らくこの獣の事であろう。
有用な話と言えばそれだけだが、同じ顔の何者かが沢山居た事もあり、この山には矢張り何かが棲んでいるように感じられた。
あの恐ろし気な顔付きで眠るだけの物の怪と、この山の怪は何らかの関連があるのだろうか。
生い茂る木々の間を巧みにすり抜け、細長いものがつるりと伸びてきており、先端をこちらに向けている。
しかしその奥は、夜気故か朧げに映り、その先は杳として知る事が出来ず、それらは、更に斜面を登った奥から、伸びてきている様だ。
何やら奇妙な色がうねうねと漂う、木々に囲まれた山肌の宙を窺うが、あまりの長さにその全容は、まるで想像が出来ぬ程である。
こうなれば、全て斬り伏せ退治た後に、その躯を検めねば、何も判りはしまい。
刃が通ずる相手であれば良いが――果たして。

続けて、商人の男の声が飛ぶ。
「あっ、あそこにも!
あっちにも、こっちにもいますよ。
どうしましょう――、アレは、あの怪物は群れだったんです!
あんなに、あんなに沢山……。
カカカ、カヤさん。
だ、だだ大丈夫なんですか?」
情けない事に二人の中で、武器と呼べるものを持つ者は、彼女しか居ない。
押し寄せる不安から、必死の形相で問う商人の彼。
緊迫した状況に、到底似合わぬのんびりとした面持ちで、軽く流す様に受け答えるエルヴンの女。

―――――――へい まあ 試しにやってみやしょう
―――――あっしの長脇差で斬れりゃあ 良うございやすがね

まさか、透けて通るって事たぁ無えでしょう、幽霊じゃあんめえし、と焚火の明かりに銀の髪を輝かせる娘が、冗談めかして続けるが、商人の男は笑う事が出来なかった。
彼には、あれが剣一本でどうにかなる様には到底思えない。
見れば焚火の周りを、かなりの数の細長い影が囲み、逃げ場など何処にもないように思える。
あの時はたったの一匹であったが、これらが一斉に襲い掛かってきたら、我々はどうなってしまうのか。
行商人は頭を振って、恐ろしい事を考えぬよう懸命に努力するが、あまり上手くいかなかった。
様々な事柄が、彼の脳裏に浮かんでは消えてゆく――街に残してきた妻や、子の事も。
その想像の中では、何故か妻子は喪服に身を包み、泣き腫らしている。
い、生きて帰りたい、そんな事になるなんて、真っ平御免だ、冗談じゃないぞ。
行商人は強く、強く念じたが、震える体は上手く動かない。

風の音だけが響く沈黙の中、ぱち、と燃ゆる木の爆ぜる微かな音。
まるでその音に、ぴたりと合わせるかの如く鯉口が切られ、彼女が臨戦態勢へと入り――。
焚火にゆらゆらと照らされる、幾つもの細長い影を、じっと見ていた娘が、するりと鞘走りの音を響かせ、刃を鞘から抜く。
右足を踏み出し、左足を一歩引かせる。
鍔のすぐ下を右手で握り前に出すと、左手を柄の下側へと添わせ、長脇差を握った両手を腹の前に備え、切先を額よりやや低く掲げ、膝を軽く曲げ腰を落とす。
それは凡そ戦い等他人に任せきりだった、行商人の目から見ても、手慣れている事が分かる動作であり。
見事に堂に入った姿勢のまま、彼女――カヤは彫像の様にぴたりと制止した。

慎重に様子を窺うかの如く、宙に浮きゆるりと伸びる、細長い何か。
じっと見ていれば、顔の横まで伸びて来た、それに対しエルヴンの女は軽く刃を振るう。
宙をくねる様に進んできたモノは、避ける間も無く切り離された。
ぷっつりと絶えた、それらの幾つかが、剥き出しの土の上にぽとりと落ちる。
そして、――音。
鋼が空を駆ける音が、刃を振り抜いたその後から響く。
切り落とされたモノが、新たに伸びて来たモノに絡め取られ、何処かへと運び去るのが、目端に映った。
しかし切られた方は、まるで痛みを感じないのか、さして気にした風もなく、再び伸びて来る。
さて――、彼女はどうする心積りであるのか。

―――――――どうやら こいつで斬れるみてぇでございやす
―――――お前様 邪魔にならねえ様に そこで伏せっておくんなせえまし
―――ささ 此処はあっしに任せて お急ぎなせぇ

にこやかな語気で語ってはいるが、エルヴンの女は再び腰を落とし構えた姿勢を、微動だにさせてはいない。
何時でも、この化け物に対応する心積りを整えているのだろう。
群れて現れた怪物を刺激しない様、腰を落としてそろり、そろり、とカヤの方へと近づく行商人。
武器を持つ、彼女の所まで行かなければ。
もう少し、もう少し進めば、あそこまで行けば、多少は安全の筈。
それまでどうか、どうか。
どうか襲って来ませんように――。
祈るような気持ちで、化け物を刺激しない様、音を立てない様、彼はそっと足を伸ばす。
しかし、あと一息という所で、無情にも彼女が鋭く言った。

―――――――そうら おいでなすった

「ひっ、ひぃぎぃいい!
わわわぁ、わぁああああ!」
カヤの声が耳朶を討つとほぼ同時に、ひっくり返る様に行商人が地べたに尻餅をつく。
沢山の怪物が、銀の髪の娘の方へと一斉に、鎌首をもたげるのが視野に映り込む。
あの時の恐怖が蘇り、四つん這いで慌ててエルヴンの女の足元へと擦り寄ると、頭を抱えて伏せた商人の男は、対峙する娘の邪魔にならぬよう、恐れのあまりに誰かに縋り付きたい、という気持ちを抑え――その足を掴んでしまわぬよう、必死に堪えるのが精一杯であった。
大きな悲鳴の発生源が己であった事を、彼は気付く事が出来ない。
一体誰の声だろう、聞き慣れぬ誰かの大きな悲鳴が、響き渡ったように感じる。

そして音の無い世界が訪れ、彼は生きた心地がしなくなった。



――――――――(3)――――――――



己を伸ばし、そっと触れた色。
一つは固く、生きている個体。
一つは柔らかく、生きている個体。
ソレには、二つの食べたいもの以外に、変わった香りも漂っているのが見えた。

まだ居る。
こっちに、居る。
もう、二つとも匂いは視て、覚えた。

食べたい。
早く、食べたい。
食べたら、それはどんな音を嗅ぐ事が出来るだろう。
食べたら、それはどんな匂いが見えてくるのだろう。
食べたら、それはどんな味が聴こえて来る事だろう。

食べたら――
食べたら――
あれを――食べたら――
ソレは、期待に心を震わせる。
そして、それらを捕えるべく、更に己を伸ばす。
昏さと明るさに触れていくと、そこに覚えたばかりの二つの個体があった。

見つけた――

食べたい――
食べたい――
食べさせて――

数多く分かれた己を伸ばし、取り囲む。
固いのと、柔らかいのは、明るいものの近くにいる。
あれらはもしかしたら、昏い所が感じられないのかもしれない。
どちらにせよ、逃げて行かないのは好都合――ソレは、ゆっくりと、ゆっくりと、近づいてゆく。
柔らかい方が接近に気が付いたようだ。

逃げないで――
逃げないで――
お願い逃げないで――

柔らかい方が、何か音を発する。
すると、固いのは、更に大きな音を発するのを嗅ぎ取れた。
何か意志を、柔らかい方に伝えたのかもしれない。
明るい時、大きな音を嗅いだ後、固い方はその後、二つとも逃げて行ったのを覚えている。
それじゃあ、柔らかい、の方。
ソレは獲物を定め、ゆるりと己を伸ばす。
柔らかい方はじっと動かない――。

食べさせて――
食べさせて――
お願いお願い食べさせて――

もうすぐ、もうすぐ、届く。
その時に突然、近づいた己がぷっつりと途絶えた。
ソレは邪魔をされたことを理解する。
感じたものは痛みだったのか、それとも――。
煌めく銀閃が触れてきて、己を遮ったのだ。
伸ばした己に、不意に鉄が触れた事を味わう。
少し大きいものを食べようとすると、そのような事で邪魔を感じる事はある。
幾つかの己が、何処かへと千切れ飛び、それは己では無くなった。

痛い――
痛い――
痛い痛い痛い――

でも、痛くない――
痛くない――
痛くない――

あっ、コレも、食べたい、食べたい。
己では無くなったものを、すぐに別の己を伸ばし、掴み上げる。
そう、コレも、食べられそう。
食べたい。
なら、食べてしまえば良い。
食べられる物が手に入ったという満足感と、際限なく沸き起こる食べたいという渇望。
尽きる事の無い衝動に駆られ、ソレは再び己を伸ばす。

食べたい――
食べたい――
早く早く早く――

あっちの、柔らかそうな個体から、どうにかしなくては。
そうでなければ、もう一つの味も聴けそうにない。
柔らかい方が、何か発した音を嗅ぐ。
それを聞いてか、固い方が、ゆっくりと柔らかい方へと近づいている。
また、もう一つが逃げるかと思ったが、そんな事は無かった。
固い方は、その場で何もしない。
でも、そんな事はどっちでも良くなる。
どうせ己は伸ばそうと思えば、何処までもどんどん伸ばせるのだ。
ただ捕える事にだけ、集中すれば良い。

伸ばした己で四肢を絡め捕り、拘束すれば簡単に食べられる筈。
逃げようともがくなら、ほんの少し絞れば、直ぐに大人しくなってくれた。
そうしたらもう一つの方も、食べられる。
今までの経験では、そう。
沢山の己で一斉に掛れば、瞬く間にそうなっていた。
今度も、きっとそうに違いない。
それならばきっと、逃げられる事も無いだろう。
ソレは何もしない固い方をおざなりにし、柔らかい方に全てを集中させる。
何をしているのかまではよくわからないが、固い方が出す大きな音を嗅いだ。
四方八方からほぼ同時に、様々な方面から包み込むかの如く、己を伸ばす。
そしてそれらが、邪魔立てする柔らかい方に、触れる直前。

ゆらり。
――と、何かが揺らめいた。

ソレが、知らぬ何かを感じた直後。
銀閃に触れ、伸ばした己に、再び鉄が触れた事を味あわされ。
囲む様に向かっていた、全ての己が弾かれた事を知った。

それは、とても冷たく、鋭い物。
その色、そしてその艶。
それは、何処かで見聞きしていた様な気がしたが、果たして何であったのか。
その時、ちくりとした痛みが、己に伝わった気がした。
それは、とても誇らしく、とても懐かしく、とても恐ろしいものの、ような気がして。
その後、伸ばした己が、裂けてゆく。

なぜ――
なぜ――
どうして――

ソレは、己を激しく揺すり、振ったが、伸ばした己を追従するかのように、裂けてゆく感触は止まる事が無い。
裂けた箇所から先の己は、ぐだりと垂れて、もう動く事が無かった。
そして、それらは伸ばした己達を更に追う。
襲い来る、今までに無い感覚。
一体何であるのか、ソレは、理解が出来ていない。

知らない――
知らない――
こんなの知らない――

なぜ裂けるのか。
訳も分からず、己を振り続ける。
しかし、感触は速度を上げ近づきこそすれども、遠ざかる事は無く。
このままではまずい、という意志が、うっすらと沸き起こり、怯える気持ちが芽生えたのか、ソレは更に己を強く、速く振り回した。

裂ける――
裂ける――
裂ける――

どうして――
どうして――
どうして――
どうしてどうして――

嫌だ――
嫌だ嫌だ――
嫌だ嫌だ嫌だ――

一度始まったその感触からは、何故か離れる事が出来ない。
そして、何かが近づいてくる。
何時か感じた境界線、あの皹の様な、しかし全く違う異質な境目が、近づいて来る事だけは理解できた。
ソレは、大きく震えた――とても恐ろしいものを見てしまったかの様に。

恐ろしい――
恐ろしい――
恐ろしい恐ろしい恐ろしい――

何故恐ろしいのか、それは全く理解が出来ていない様子だったが。
徐々に、何が、恐ろしく感じるのか、理解し始める。
それは、来てはならないもの。
それは、来て欲しくないもの。

どうして――
それだけは――
来ないで――
嫌だ――
恐ろしい――

来ないで――
来ないで――
お願い来ないで――

嫌だそれだけは食べられない――

近づいてくるもの、己の理解出来ぬ境目から逃れようと、更に激しく己を振る。
幾つかの立っているものに、己を巻き付けたが、近づいてくる恐ろしいものは、正確に己の跡を伝うようにやって来た。
立っているものが壊れ、何事も無かったかの様に己が裂け続け、止まる事が無い。
追い詰められ、無力さに打ちのめされた、あの時の感覚が、自身の中に蘇る。
境界線。
あれは境目だ、越えてはならない。
嫌なものが、来る。
避けようの無い嫌なものが。
来ないで!
こっちに来ちゃだめだ!
でも――行かなきゃ。
あれは、一体何だったのだろう?
天を突く様に高い建物が立ち並ぶ、明るい空間。
光る板。
そして、何の気なしに潜った門。
潜らねばならなかった、歪んだ門。
あれは、何。
私は貴方は俺はお前は僕は君は――誰?
全ての境目が曖昧になり、何もかもが混ざりゆく。
嫌だよ、やめて、とまって、来ないで。

しかし必死の願い空しく、裂けてゆく感触が、全ての方向から、ソレの根元に到達した時。
他の生き物を押し込んできた、一つぽっかりと空いた穴から、びちゃりと汚穢な汁を吹き出し。
――ああ、そうだ。
でももう、意味が無い。
すぐに、全てを、失くすから――。
無力な自身を呪い、長い間何かを、必死で探してきた大切な何かを、漸く思い出せた気がしたが、やがてそれも薄れ見えなくなる。

そして、死を感じる前に、ソレは死を迎え、二度と動かなくなった。