2020年6月26日金曜日

ブログ小説 縁切徹 第四話 山道の妖(4)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

山道の妖(4)



――――――――(1)――――――――



迫り来る多数の化け物に、身構えるエルヴンの女。
甲高い、劈く様な男の金切り声。
同時にぷっつりと、刃が肉のようなものを断つ音。
その次に、しゅるしゅるしゅる、と何かが裂ける音が続いた。
直後、ぼたり、ぼたり、ぼたぼたと、辺りを囲んでいた細長い生き物が、真っ二つに裂け、そこいらに倒れ伏す。

……そして、音がしなくなった。

金切り声が止むと、山間は深夜に相応しい静けさを取り戻し、風と、燃ゆる枯れ木の爆ぜる音が響く。
商人の男が恐る恐る目を開けた。
すると、焚火より少し離れた所へ、銀の髪の娘が立っているのが見える。
ほんの少しの間、頭を伏せている間に、一体何があったのだろうか。
その周囲で屍の如くその身を晒す、奇妙な色をした沢山の細長い生き物達。
何処から来たのか、昼間見た時よりもかなり多い数が、周囲に散らばっていた――それも、二人を取り囲む様に。
化け物は全て死に絶えたのか、それらが薄らと炎に煌々と照らされ、不気味なその身を映し出す。
あまりに異様なその姿に、彼は言葉を失う。

―――――――ひょろ長げぇものは 皆斃れっちまいやした様で へい
―――――こんな獣は初めて拝見致しやしたが 意外といけるもんでございやすねえ

暫く唖然としていると、暢気な女の声が、暗闇の中で飛んだ。
行商人は、夢を見ているかのような気分に陥った――意外といける、とはどういう意味なのだろう。
初めて遭遇した化け物と対峙する事に、この娘は臆す事がまるで無かった様に思うが、恐ろしくは無かったのだろうか?
未だに震えが止まらぬ体。
もしこの場に誰も居なければ、大声を上げて泣き出してしまっていたに違いない。
内心に満ちた恐れの感情が収まるのは、まだまだ刻が掛かりそうである。
強張ったままの面差しで、エルヴンの女の方をじっと見ていると。

―――――――お前様 お前様 こいつでお顔を 拭いてくだせえまし

何かに気付き、近づいてきたカヤは、懐から手拭いを出すと、行商人へと差し出してきた。
「ひぐっ!?
え、ええ、あ、か、顔?」
慌てて顔に手をやると、べったりと汁気が手に貼り付き、糸を引く。
行商人の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「すすす、すみません」
有難く手拭いを拝借し、ごしごしと顔を拭き――。
顔を拭き、一息ついた後に気付けば、何だか股の方もほかほかと暖かい。
言うまでも無く、やらかしてしまったのだろう――山賊に襲われた時だって、こうはならなかったと云うのに。
果たして子供の頃から数えて、一体何周期ぶりとなるのか。
エルヴンの娘は、恥ずかし気に俯く男の手から、手拭いを受け取ると丁寧に折り畳み、再び懐に仕舞う。
有難みと申し訳の無さから、洗って返すとは言ったのだが、どういう理由なのか彼女はただ、口元に柔らかい笑みを浮かべて、頭を振り気にしなくて良い、という仕草を行うだけであった。

落ち着いた彼は、自らの粗相の後始末を済ませた後、改めて辺りを見渡す。
地に撒かれ、滝の様にしな垂れる、見た事も聞いた事も無い、得体の知れぬ色。
今はこれらが動いていたという事が、全く信じられない程静かに、ただ静かに横たわる。
それは、まるで夢でも見ていたのではないかと見紛う程に。
一見多すぎるように見えたそれは、全て裂かれていた為、多く見えていた事が分かった。
だが例え半分の量だとしても、護身にすら心得の無い、行商人の彼が対処するには、無理な数に違いない。
彼は、たった一つからでも逃げるのが精一杯、流石にこの量が一斉に向かって来たのでは、果たして無事に逃げ切れたかどうか。
この数を相手取って、美しい銀の髪を持つエルヴンの女――カヤは立ち向かったのだ。
身のこなしから只者では無い、と感じてはいたが、正にその通り。
彼女が居なければ、恐らくはきっと……。
その場合の結末を想像し、男は大きくその身を震わせる。
どのようにしてこの化け物を退けたのかは、今まで聞いた事の無い、他人の声の様な叫びを上げて、そこに伏せていただけの彼は、全く見ておらず、想像するだに難しい。
何があったのかは分からないが、現に、全ての化け物達は、そこかしこに斃れ伏している。
ひとまずは、安心しても良い状況なのだろう。

当の彼女と言えば、落ち着き払った様子で筒から水を飲むと、焚火の周囲をうろうろと歩き始めた。
闇の中ぷちり、きゅ、ぐにゅう等と、何とも言えない奇妙な音が響く。
この残滓は弾力があるようで、踏んだ位では潰れたり拉げたりはしていない。
怒って怪物の屍を踏みに行っているのかと思えば、どうやら辺りを窺っているだけの様だ。
だがしかし、刺激を受けたこの怪物がまた、動き出したりはしないのだろうか?
突然動き出したら、流石に彼女だって――。
そうしたら次は自分が等と、恐れと不安な気持ちから、良くない想像がぐるぐると、幾度も頭の中を駆け巡ってゆく。
助かった、という実感を感じ取る迄に、彼はまだまだ時間が掛かりそうである。
やがて焚火の周りを、警戒するようにぐるりと見て回った銀の髪の娘が、呆けた表情のまま震えている商人に声を掛けた。

―――――――ふうむ この長っちょろいのは どうやら辿れそうでございやすねえ
―――――どうれ ちょいとあっしが 様子を見てきやしょう

「ま、まま待ってください!
わわわ、私は夜目が効きませんので。
明るくなるのを待ちませんか?
悪い事は言いませんから、朝まで待ちましょうよお~」
銀の髪の娘が踵を返し、背を向けた頃に、漸く何を言っているのかを理解した彼。
焚火の傍ら、尻餅をついたままの姿勢で商人の男が、情けない悲鳴を返事の代わりに返す。
こんな暗い中で、歩き回る等真っ平だと、その声色が物語っている。
あんな化け物に襲われたばかりで、独りになるのも御免だ。
しかしそれ以前に、こんな恐ろしい闇の中を歩きでもしたならば、また粗相をしてしまうに違いない。
恐れをなした男の様子を見透かしたのか、はぁ、とエルヴンの女が嘆息を漏らす。

―――――――ついさっきもお伝えしやしたが あっしは エルヴン族ですぜ

夜間も視野には関係無いと言いたいのだろうが、行商人の彼は、夜間に歩き回る等、御免被りたい気持ちで一杯である。
彼女には、この夜闇がどう見えているのかなど、知る由もないが、一匹しかいないと思っていた、あれ程の化け物が群れて、うようよと出て来た後だ。
今は、その暗闇が、何よりも恐ろしい。
その向こうには、何かが居たのか分かる筈なのに、全く見えないのがこれほど恐ろしいとは。
別の何かが出てきたらと思うと、己の中で何かがきゅぅぅ、と縮こまっていくような気分に陥ってしまう。
行商人の彼は探しに行こうとする彼女を諦めさせようと、何かしら手を考えていたが、やがてそれを諦め、正直な気持ちを伝える事にした。
考えあぐねている間に、彼女が独りでここを去ってしまっては堪らない。
「か、カヤさん!
ひっひ、ひひ独りにしないで下さいよお。
お願いします、朝まで待ってくれませんか」
彼の顔は恐れのあまり、今にも泣きだしそうな表情で満たされている。
思わず気の抜けるような、怯えの含まれた声を聞くと、再度深く溜息を吐くカヤ。

―――――――へえぃ 全くしょうがねえ 御方様で
―――――今宵は此の儘あっしが 火番と御守をしときやすから
―――お前様は もうお休みにおなりなせぇ

全く情けないと、言わんばかりの声色ではあったものの、その言葉を聞いた商人の男は、安堵したした様子で何度も頷いた。
そして手頃な岩に腰かける、エルヴンの女の足元に駆け寄り、地に丸くなるとじりじりと背中を寄せ、娘の足へと添えるようにして、ぴたりと張り付く。
先程現れた魔獣か妖かに襲われた事を、余程恐ろしいと感じていたのか、その背は小刻みに震えている。
話を聞く限りでは確か、エルヴンの娘より先に、この怪物に遭遇していた筈。
同道者一人が、あっという間に犠牲になったのを、目の当たりにしたのだとすると、この怯えようも理解できない事も無い。
カヤは商人の様子を見ると、やれやれ仕方ないといった風体で、聞こえない様に小さく溜息を吐き、竹筒からひと口水を飲む。
だが、男の背の震えが止まり、やがて寝息を立て始めるまで、彼女はそこを動こうとはしなかった。



――――――――(2)――――――――



漂う異様な臭気にて、行商人は目が覚めてしまう。
焚火の中で枝に差した、生臭いものが焼け爛れ、熱のある部分がぶすぶす、ぶつりと水疱を弾けさせている。
腐り果てた物を濁った水で煮、その汁を焼き固めたような、酷い香り。
「うっぷ。
何ですか、この臭いは!?」
鼻が曲がるとは正にこの事を指すのだろう。
慌てて飛び起きつつ、鼻を摘まむ。
この正体は何か、と商人が問うと、彼女は気まずそうに、形の良い目尻と口元を歪めて答えた。

―――――――朝飯代わりにと 昨夜の奴さんを火にくべて 焼いてみたんでさ
―――――そしたら何とまぁこの通り 実に ひでぇ臭いでございやしてね
―――悪い事は言いやせんぜ お前様もこれ食うのは 止しておきなせえ

その返事を聞き、行商人の彼は、何事かと呆れた――昨夜あれ程恐ろしい思いをしたモノ。
こんなモノ、金を積まれて頼まれたって、食べるもんか。
よくこんなモノを、食べようと考えたものだ。
彼女の方は、臭いなど全く気にしていない様に、慣れた手付きで食事を済ませてしまう。
その様を見た行商人は、ただただ目を丸くするだけである。
酷い臭いの腹立たしさもあるにはあったが、それよりも呆れと吐き気の方が多く沸き起こり、怒る気にもなれない。
出会った時より、若いのに不思議な雰囲気を持つ娘だ、とは思ってはいたのだが、商人はこのエルヴンの娘が何を考えているのか、全く分からなくなってしまう。
行商人は、辟易した面持ちで穴を掘り、枝に刺した生焼けの何かを埋めた。
寝起きから漂う、あまりにも酷い臭いで、男は既に食欲が無い。
鼻を摘まんで少し水を飲み、それを朝食とする事にする。
冷たい水が喉を通ると、彼は少し落ち着く。

娘はと言えば、斃れた細長い化け物を辿って行きたいようだ。
行商人が水を飲み、休んでいる間にも陽が昇り、白みがかっている辺りを確かめるように、ぐるぐると廻っている。
彼が水を飲み休んでいる間、痺れを切らしたのか、辿って何があるかを見に行きたい、と云う彼女。
その様子は放っておくならば、独りでも行ってしまいそうな雰囲気を湛えており、独りにされては堪らないとばかりに、商人は重い腰を上げた。
気は進まないが、同行者の行方を捜し、何者が居るのかを確かめねばなるまい。
彼が支度を整え終えるが否や、煌めく髪を翻し、彼女は坂を登り始め、慌てて行商人は彼女の後を追う。

娘が予想した通り、裂けた化け物達は、同じ方向から伸びてきていた。

―――――――こいつあ 皆同じ方角から 伸びておりやすぜ
―――――もしや たあ思いやすがね こいつにゃあ 根っこがあるんじゃあねぇかと

エルヴンの女はそう言いながら、すたすたと登り歩く。
荒れた登り坂でも足を止めず、進行が遅くなる様子は見られない。
その健脚に、商人の男は付いて行くのがやっとであった。
美しい髪を靡かせた後ろ姿が見えなくなる頃――時折足を止め、ゆっくり彼が登って来るのを、彼女が振り返ってじっと見ている。
恐らくは、待ってくれているのだろうが、その間隔は遠く徐々に離れて行く。
道無き坂を登り詰めた先、開けた場所が見える頃、彼女の背はその向こうへと、消えていくのが見えた。



急いで後を辿ると、彼は程なくして、一帯が開けた場所に出る。
平らな土地に、まるでそこだけ嵐でもあったのかの如く、沢山の折れた木が重なり合う。
その向こう、開けた土地に奇妙なモノが転がり、その傍に銀の髪の娘――カヤが立っていた。
緩やかに吹く風に、陽に照らされ輝く美しい髪を踊らせ、じっと一点を見つめている。
気が付けば陽は高く昇っており、日陰の失せた空から陽光が差し込む。
振り返ると、木々が倒れた箇所から、遠くの景色とそして、曇りない空が見えた。

開けた場所の中心辺りに、窪んだ穴、そしてその中に転がっている奇妙なモノ。
立っている人の肩辺り程の高さがあり、その周囲は手を回しても向こうには届きそうにない。
その大きく重そうな図体は、大人がもう三人ないし四人は居なければ、抱える事すら叶わないだろう。
一つ大きく空いた穴から、汚怪な汁が地に撒き散らされ、干乾びている様である。
穴だらけの岩の様なものから、昨夜襲い掛かって来た沢山のそれが、生えている様がよく分かった。
それらは全て裂け、今はもう動く事が無い。
彼は思わず駆け寄り、恐る恐るそれに触れてみる――。
固くぶよぶよした手触りに、指二つ程が包める程の大きさの、細くぬめるモノが幾つもしな垂れていた。
穏やかな陽の下に映し出される、正に化け物と形容しても差し支えない、異様な姿。
このような獣は、生まれてこの方、一度も見た事が無い。
始めは細長い生き物の群れと思っていたが、全てがこの奇怪な岩のようなものに集結しているのだ。
一体何の為に、このような姿で生まれ、人を襲う様にとなったのだろう。
数歩離れた処から、物思いに耽る行商人の様子を見ていた、カヤの声が緩やかにそよぐ。
彼女もまた、このような怪物を見た事が無い様子であった。

―――――――へぇ こいつぁまた 面妖な獣が居たもんで
―――――もしや こいつが噂に聞く 魔獣やら妖やらと申す 物の怪なんでしょうかい?

……暫しの沈黙。
少し離れた所から、風に揺れる小枝が、葉を擦り合わせる音が耳朶に届く。
まるで、物見遊山でもしているかの様な、娘の軽い声にも、行商人は黙ったままであった。
暫くの間、物思いに耽っていた彼は、唐突に口を開き、問う。
「私の連れは……。
連れは、どうなってしまったんでしょう」
それを聞いた彼女は、可愛らしい仕草で、小首を傾げる。
暫く待ったが、娘からの返答はなく、行商人は背を向けたまま黙って俯いた。
きっと、分からないのだろう。
勿論ただの商人である彼にも、有効な結論を導き出せるような知識や経験は、まるで無い。

そして、……もう暫くの沈黙。

暫く奇妙なモノに手を置き、何事かを考えていたが、やがて意を決したように振り返ると、彼は彼女の方へと視線を投げかけた。
「もしかして、食べられてしまったんでしょうか?
こ、これを割れば、もしかしたら助け出せたりはしないでしょうか」

―――――――こいつの代わりがありゃあ 試しに斬っても良うございやすが
―――――もし斬れずに刃が曲がっちまっちゃあ 此処から先はあっしも お前様も丸腰でさ
―――そいつぁ ちょぃとばかり御免被りてえ お話でございやす へい

今度は返事があり、彼女は左手で腰の朱塗り鞘を握り締めつつ、行商人の男の問いに答えた。
それも、さも残念そうな仕草と共に。
背中に忍ばせた、白木の鞘の感触は健在。
だが、カヤはその事を彼に話す事は無さそうである。
残念ながら彼の商品に、武器は含まれていない。
護身用とはいえど、武術を会得していない商売人に、エルヴン式の刀剣は流石に価格が高すぎる――しかし、無理にでも購入しておけば、この場合は使い道が出来、助かったかもしれないが。
出立の際の取捨選択の妙と云うものを、行商人の彼は今、しみじみと肌に感じ入っていた。

同行者の救出は、今は諦める他は無い。
生きていて、動ける状態で助け出せるのならば、良いのだが。
もし、この化け物の中から死体が出てくれば、運ぶに厄介な荷物が一つ増えるのだ。
それまで運ぶには、あまりにも人数が少なすぎる。
どちらにせよ、中を割って確かめる方法は、今は避けた方が良いだろう。
如何に彼女の腕が立つと言えども、丸腰はまずい筈。
何も敵は、この化け物だけでは無いのだ。
この先遭遇するかもしれない、山賊や野盗等も、行商人の立派な敵である。
その時、この恐ろしい化け物を退治た彼女が居れば、とても心強い。

先ずは生きて帰り、調査隊を編成し改めてこの場所へ訪れよう。
望みは薄いが、もし生きているのならば、同行者ともその時に巡り合える筈。
奇妙なモノの骸は気になるが、今どうこう出来るような代物ではない。
「帰りましょう、カヤさん。
街道に戻って、それから、街に向かいませんか」
後ろ髪引かれる思いを振り切り、商人の男はエルヴンの娘へと声を掛けた。
カヤ――彼女はやんわりと頷くと、開けた土地から背を向ける。
そして、元来た方角へと二人は道無き坂を降りてゆく。



――――――――(3)――――――――



奇妙なモノから離れる際に、小刀で切り取った細長いモノを、娘が紙に包み、行商人の彼に持たせてくれた。
見た事を、街の警備兵にでも話し、これを見せ警戒を促すしか行えそうにないが。
それでどうにかなるとは思えないが、現状商人である彼に出来る事は、それ位しかない。
行商人と娘の二人は、その場を一旦離れ山を下り、本来の行き先である街へと向かう事にする。
一体ソレが何であるのか、全く分からないまま、二人はその場を後にし、先を急ぐ。
行商人からすれば、とんだ道草である。
彼の命は助かったが、相方であった同行者の行方が分からなくなってしまい、その荷も置き去りにされていた。
誰かが先に見つけるとは思えないが、調査隊を手配し、荷だけでも回収を急いだ方が良いだろう。

下り道は大変心強い旅路である。
何しろ、見た事も無い怪物を刹那に退ぞけた剣士が、自分に付いてきてくれているのだ。
幸いながら、賊の手合いとは全く遭遇しなかったので、その見事な剣の腕をこの目で確かめられない事が、心残りで残念な話ではあるが。
この道中、例え何者に襲われようとも、瞬く間に何とかしてくれるに違いない。
そして昨夜から全く休んでもいないのに、歩く速度はまるで落ちず、商人の男の方が汗をかき、必死で付いて行くような有様であった――先日見せた、胆の太さと合わせ、その体力気力共に、実に大したものである。
「そ、そう言えばカヤさん。
昨夜から寝ていないのではないですか?」
街道に出てからの事、自分の事ばかりで、相手の事を気遣えてなかった事を思い出す。
慌てて声を掛けたのだが、取り繕ったような雰囲気になってしまってはいないか、という事だけ彼は気になっていた。

―――――――へい まあこれ位じゃ あっしはどうともございやせんぜ

行商人の問いに、川縁に屈み、背を向けた銀の髪の娘からは、素っ気なく軽く流すような返答。
途中見つけた、清流の流れる小川に立ち寄り、彼女が手持ちの食器と手拭いを洗っていた――その手元は、ぱちゃぱちゃと小気味良い音を立てている。
その手拭いとは、昨晩、涙と鼻水で濡れた顔を拭いて、汚してしまったものだ。
顔を拭いた事を思い出した彼は、商品から新しい手拭いを取り出し、彼女に手渡す。
あの時これを使えば良かったのだが、彼は、そこまで頭が回っていなかった事を、気にしている様子が伺える。
布の質を確かめたエルヴンの女は、これなら買い取ると云い、手拭いの代金にしては、目を剥く程の大金を支払う。
自身の方は大して実害は無かったが、今回の旅の損失は、この取引で損失がほぼ補填されてしまう程の額に、彼は目がくらみ、思わず受け取ってしまった。
商売を営む者としては大変有難い事だが、こんな事をしても良いのだろうか――。
不安そうな彼を見たカヤは、釣りは要りやせんぜ、と改めて言い放ち、軽く笑い固く絞った手拭いと、真新しい手拭いを、昨晩と同じく丁寧に畳む。
そして洗った方は袂へ、新しい方は懐へと放り込んだ。
支度を済ませると、二人は再び歩き始める。
帰る道すがら、何度も何度も頼み、再会を約束したが、このエルヴンの娘は、何処に行くのか分らない旅人でしかない。
果たして次に会えるのは、何時の日になる事やら。



やがて、陽が傾く頃となる。
街道と街とで分かたれる追分にて、エルヴンの女とは別れる事となった。
この先の街にある自宅へと招いたが、彼女は急ぎであるという。
妻に腕によりをかけさせ、とびきりの食事でも振舞わねば、と張り切っていた矢先の事。
それでも、別れの刻が訪れるまでの僅かな間に、彼は恩を少しでも返そうと、躍起になっていた。
幾らかの金銭を包み、せめてもの礼と言って差し出したが、約束の飯はもう貰ったと言って、エルヴンの女はなかなか頷いてくれない。
どうした事かと悩んだ、商人の男。
――待てよ。
確かカヤさんと出会った時、糧秣を要求してきた筈。
と、言う事は――。
話を切り替え、護衛の追加料、という理由で改めて話を通すと、今度はすんなりと受け取ってくれた。
成程、どうやらそういう事らしい。
考えた末、待望の結果が得られた事に、彼は得心の行った面持ちで頷く。
仕事料を渡し終えると、彼女は朗らかに笑う。
艶やかに整った形の唇を、そして口元を柔らかく緩め、軽やかに耳朶に溶け込むその声は、まるで明るい陽差しに花咲く草原をそよぐ、爽やかな風の様であった。

―――――――飯だけで良うございやしたのに 御丁寧に 銭まで頂いちまって
―――――お気遣い頂きやして かたじけのうございやす へい

「ととと、とんでもない!
礼を言うのは、こちらですよ。
あんな恐ろしい化け物まで退けてくだすった。
貴女は私の命の恩人です」

―――――――へい お前様も 御無事で何よりでさ

礼を言うと、再びにこやかな返答。
彼女にとっては単なる儀礼かも知れないが、今の彼はそれがとても嬉しく感じられる。
手を指し出すと、娘の方も口元へと笑みを浮かべ、両手でしっかりと握り返してくれた。
何とも言えぬ滑らかで、柔らかい感触が、差し出した手を包み込む。
肌触りを三度思い出した商人の男の思考は、ゆっくりと白く染まってゆく。

―――――――それじゃあ あっしはこの辺で 御免なすって

短い間ではあったが、握り合った手を放し、別れの挨拶を済ませると、軽く頭を下げた銀の髪の娘は踵を返す。
途中一度だけ振り返り、挨拶のつもりなのか、彼女は片手で頭に被る笠を摘まんで上げ、目元を行商人の彼の方へと向けた。
徐々に小さくなるその背が、姿が霞み見えなくなるまで手を振り、見送った後、漸く帰路に就く商人の男。
街への道を歩きながら、彼は恩人であるエルヴンの娘――カヤの事を考える。
流石に容姿が自慢との噂を持つエルヴン達は、例え旅人であっても、手入れを欠かせていないのかもしれない。
もしかすると、手入れなどしなくても、ああなのだろうか。
彼女について様々な思いを巡らせる内に、最初の鮮烈な印象を持つ記憶が、男の脳裏に蘇った。
布越しと言えども、この手にはっきりと伝わって来た、滑らかな手触り。
あれに、直に触れる事が出来たら、どのような心地だったのだろう。
今ですら、手にその感触をありありと思いだす事が出来る。
そして、頬に伝わる、女体の柔らかさ――。
歩きながら行商人は、何度も生唾を飲んだが、果たして気が付いていたのか。
女と言えば生まれてこの方、妻しか触れた事の無い彼ではあったが、そんな彼ですら、あの肌触りは終ぞ味わえない、極上のモノなのだと、無意識に知覚する程の代物であった。

当然の事だが、このような事があった等、妻には言えない。
あの事を、思い出すだけで、頬が熱くなっていく。
決してわざとでは無い、わざとでは無いのだが、触れてしまった、あの娘の感触が手に頬に蘇り、歩く道すがら、どうしようもない程、自身が漲ってしまうのが分かる。
山中は生きた心地がしなかったというのに、生きて帰れるとなれば全く、現金なものだ――だが、彼も商人の端くれだから、現金に弱いのは仕方が無い事、とも言えるが。
行商人は、その感触を思い出すかの様に、何度も手を擦り合わせ、揉みしだき、頬を撫でた。
そうしている内に、街並みがはっきりと視野に写り、自然と足が速くなる。

今晩でも早速、と彼はふと思い立つ。
暫くご無沙汰だった気がするから、妻は驚くだろうか。
何か、土産でも探して、渡した方が良いだろう。
突然の事に、一体何事かと疑われるかもしれないが、今晩はもうどうにも止められそうにない。
何時の間にか、もう一人、家族が増えた場合の収支を考えてしまっていたが、すぐに辞めた――。
ええい、もう一人位増えても、構うものか。
全く、何と無粋な事を、うじうじと思い悩んでいたのだろう。
そんな事を気にする必要はない。
もし増えたなら増えたで、もっともっと働いて、更に稼げば良いだけだ。

思い悩んでいる内に、街外れの見慣れた景色が、早足で進む速度に合わせて後方へ流れてゆく。
もう少し進めば、商売仲間や友人、近所の知り合いとも、顔を合わせる事が出来る筈だ。
この時初めて商人の男は、生きて帰って来た事を実感する。
脳裏に鮮明に浮かび上がる、自宅への道のり、そして帰りを待ってくれている妻の顔。
やがて彼は居ても立っても居られなくなり、愛する妻の待つ自宅へと向け、駆け出していた。