【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹
ついでの仕事(1)
――――――――(1)――――――――
―――――――それっぽっちじゃ ちぃっとも 足りやしやせんぜ
―――――大ぇ変 申し訳無ぇんでございやすが 他所を頼っておくんなせえ
「何だとォ!
これじゃ足りないっていうのか!」
「そうだ!
何だァ、それは!
ふざけるなよ、高過ぎるだろうが!」
続いて揺れる机の音の中、大きな怒声が、周囲を切り裂くように飛ぶ。
夕食を摂る為にごった返す、食堂を兼ねた酒場の一角へ、皆が顔を向けた。
食事をするには少しだけ、早い時刻。
そこには壁が無く、幾つかの柱、そして雨除けの平たい屋根だけが設えてある。
見通しの良い敷地を柵で囲む事もせず、その内側には、木の机と椅子が所狭しと立ち並ぶ。
奥に立てた、申し訳程度の仕切りの向こう側で、額に汗を掻く幾人もの男女が、大声で合図を互いに伝え合い、肉や魚を煮焼きし、刻んだ菜を鍋に放り込む。
慌ただしく働く者達の辺りからは、何やら良い香りが、ゆらゆらと漂って来ていた。
客達は思い思いの席に座り、食欲が沸く香りに違わぬ味の、温かい食事にありついたり、または友や仲間、そして恋人や家族と、微笑ましい会話を繰り広げつつ、注文した料理が来るのを待っている。
味も香りも良いと評判の、簡素な店。
さぞかし、美味い食事が楽しめたに違いない――今日という日が、雨でなければ。
屋根の中に立ち込める、水の臭い。
漂うそれらが、料理の香りを薄める原因となり、また明かりを灯していても、やや暗めの店内に運ばれて来る料理は、普段よりもやや味気無い様に見える。
味を確かめる為に頼りになるのは、ほのかに感じる暖かさと、薄く緩やかに漂う香りしか、手段が無いであろう。
食事を摂っていた客達、その集う怪訝そうな視軸の先にて、への字口で顔を顰める、銀の髪の娘の前に置かれた袋から、大枚の貨幣が溢れているのが伺える。
目深に被る、湿った笠はつい先程まで、ぽたぽたと雨粒を滴らせていた筈だ。
やや暗い上に笠が邪魔をしていて、見える口元でその情を察する以外、遠目ではきちんと判別出来そうな部分が無い。
声色から辛うじて理解出来る範囲では、女の機嫌はすこぶる悪そうではあるが。
四つ足の、背もたれの無い質素で小ぢんまりとした、丸い木椅子に座る娘の目の前には、これまた椅子の親と思しき、似通った形状の、大きいが簡素な丸い机の上に、出来栄えは並ではあるが、意趣返しとばかりに、意匠が施された皿と匙が置かれ。
対して、座る女の反対側には、細面で剽軽そうな、顎髭を蓄えた男、目付きだけは異様に鋭い、眼帯を付けた隻眼の男、そして厳格そうな面持ちを崩さぬ、頬に傷痕のある男の姿が立ち並び、その三人が血相を変えて、座って食事をしている彼女を、厳しく問い詰めているように見えた。
彼等が大盤振る舞いだ、と思っているこの貨幣の量にも、目の前のエルヴンの女は、一瞥する様な素振りすら見せない――それにはまるで、興味が無いとでも言いたげに。
思わず机を叩き、席から立ち上がった怒り顔の男の一人が、彼女を見下ろし睨め付ける。
木で出来た机の表面と、勢いで浮いた貨幣がぶつかり合う音が続く。
男達の激高し、今にも火が出るかのような視線を、への字口でさらりと受け流し、カヤは続けた。
―――――――折角のお誘いを 蹴っちまって 申し訳ねえ
その声色を例えるならば、深々と冷え込む中を吹き荒ぶ風。
再度、申し訳程度に詫びた銀の髪の娘は、机の上に散らばった貨幣を丁寧に、袋の中へと仕舞い込むと、それを男達の方へと押し戻す。
そして、徐に匙を取り、黙って食事の続きを摂り始める。
淵に擦り減った波模様が浮く、木の深皿の中へと、花と蔦の模様が掘り込まれている、塗り物が剥げ落ちた木匙を、そっと差し込むと、カヤの手はくるりと円を描く。
漸く揺れが収まったばかりだというのに、掻き混ぜられた煮込み汁の表面は、軽く波紋を広げ、再び揺れた。
皿の底が見えぬ程に、白く濁った汁を掬うと、乗り切らなかった菜と肉がぽろりと落ち、そして暖かければ、水の様に滑り落ちていたであろう油が、冷めた煮汁の上に浮く白膜となり、薄皮の如くぴったりと匙に張り付く。
掬い上げたものに一瞥もせず、女は躊躇や逡巡を行わず、匙の上にある水面に口付ける。
一時の間、思わず息を呑む様な、静けさを取り戻したばかりの場に、ずう、と汁を啜る小さな音。
エルヴンの女の態度が、もうこの件で話をする事は無い、と言う強烈な意思表示である事を意味するのは、誰の目にも明らかであった。
諦めたくなかったのか、漸くその意図を理解したのか、男達は苦虫を噛み潰したような表情を、より濃くして睨みつけると、もう一度机を強く叩き、押し戻された袋を、奪うようにしてその場を離れる。
彼女の目の前の皿に並々と注がれた、乳白色の汁が波紋を広げたが、娘は男達の方へと一瞥すらしない。
そしてどかどかと、床に硬い靴底を激しく打ち付け、怒りを示す様な足音が続き、荒くれ男達は遠く離れた席へと向かった。
荒波の如く揺れる汁に、匙が突き立てられ、浮き沈みする菜ごと、その流れに抗うかの様に掬う。
するとぱしゃり、と微かに匙と汁が触れ合う音が続く。
しかし、その僅かな音は、外の雨音に負けじと床を激しく強く鳴らす、幾つもの荒々しい足音に踏み抜かれ、誰かの耳に聴こえる事は無かった。
丸木椅子へと男達が、乱暴に腰かけると同時に、騒ぎが終焉を迎える。
その中で、鳴り響くものは静かに降り注ぐ、雨の音のみ。
不規則にかき鳴らされる音色に、酒場の客は一人、二人と騒ぎの中心に居た、今はもう静かに匙を口に運ぶだけの、エルヴンの女から興味を無くし、徐々に自らの食事へと戻ってゆく。
傍から見れば、交渉内容の何が気に入らなかった、のかは判らず仕舞いだが、大方、荒くれにしか見えぬ男達が、調子に乗って失礼を働いたか、用意すべきものを間違えたのか。
エルヴン族は古くから、帝国貨幣かエルヴン貨幣のみでしか勘定を行わない為、他通貨での交渉や取引を行う事は、ままならなくなる事を、先程の男達は知らなかったのだ、恐らくは。
自らの利益のために欺き、騙す、等の目的が無い取引と見るならば、彼女との取引を巧く進めたい、彼等は先ず両替商に駆け込み、帝国貨かエルヴン貨を用意するべき――、で、あったに違いない。
手順を違えて取引に挑んでしまった以上、先程の交渉が難航する事、想像に難くない筈だ。
さりとて男達が十分用意した、と言う辺境の貨幣がこの量あったとしても、予想される両替後の枚数では、このエルヴンの女が首を縦に振る保証は、まるで無いのではあるが。
ただ、今となってはもう、何が原因で破談となったのかは知る由も無く、想像に任せるしかない。
厄介事に関わりたく無かったのであろうか、誰も彼も興味本位で、何があったのかを訪ねようとはしなかったし、黙したまま食事を続ける銀の髪の娘も、周囲に不満を漏らす事をせず、客達は、先程の騒ぎをまるで何事も無かったかの様に、会話を始めている。
カヤの閉じた口から、しょりしょりと、細かく刻まれた肉や菜を噛む音が、夕食時の店内に相応しい雑音の中に空しくに紛れ、誰にも気付かれる事無く消えていった。
深皿の底が見通せぬ程、白色に濁った水面の中に、沢山の肉や菜が浮いている汁料理。
男達が語り掛けてくる前は、溢れんばかりに白い湯気が登り、暖かかった食事も、今ではすっかり冷えてしまっている。
届けられた時には、際立っていたであろう味も香りもが、もはや幾分かしか感じられない。
暖かければ、さぞ美味かった事だろう。
しかし、エルヴンの女は店員を呼び、温め直してもらう事をせず、冷めて薄く白く固まった油が浮き、味の落ちてしまった汁料理を、黙って匙で口に運び続けてゆく。
――――――――(2)――――――――
薄い屋根を叩き、子供が悪戯をして愉しんでいるかの様な、不規則な雨音の下。
皆が話す声は、少し大きめである様に感じる。
「畜生!
何なんだあの女はッ」
怒り心頭、と言った面持ちで怒鳴る声は、喧噪の中に紛れ込む。
食事に、会話にと勤しむ客達はもう、荒くれ男共の事を気にしてはいない。
彼等は既に日常の一部なのだ。
自らの生活を害さない限り、大っぴらに干渉して来る事は無いだろう。
席に着いてから暫くの間、愚痴を肴に、荒くれ男三人は、腹を立てた勢いに任せ、飲み食いに勤しむ。
「おっ、アイツ店を出るぜ」
すると、仲間との話の最中でも、時折恨みがましい視線をぶつけていた、顎髭を蓄えた男が、件の女が店を出てゆく所を、目敏く見つけた。
女の座っていた辺りの木机に、エルヴン金貨が置かれているのを見つけた給士が、驚きの声を上げている。
彼等も、周囲の者たちと同じく、あんぐりと口を開け、何事かと訝しむ。
流石に手にした事位はある、だが近頃は稼ぎも悪く、とんとご無沙汰だ――最後にあれを手に取ったのは、何時の頃だったのか。
しかし幾ら美味いと評判だとは言え、いくら何でもこの程度の店に、平然と置いていく額では無い。
暫くすると、状況を察したのか、頬に傷痕のある男が言う。
「あの女、金持ちじゃねえか!
その癖あんなに吹っかけてきやがったのかッ。
ますます許せんな」
「おい、ぼさっとしてねえで追うぞ。
独り者みてぇだしな、目にもの見せてやろうぜ」
続く顎髭を蓄えた男の声に、すぐさまその連れ合いが応じる。
その背に担いだ幅広の剣を指し、眼帯を付けた隻眼の男が、勇ましく仲間達に宣言した。
「不意打ちは好かん、状況にもよるがな。
堂々と戦うのなら、手伝ってやる。
手を出すなら、先に俺に譲れ」
「ッ――チッ!
先に言われちまった、仕方ねえな?
先手は譲ってやるぜ。
その次は俺だ、お前等は邪魔するなよ」
頬に傷痕のある男が締めくくると、身支度を整える。
三人の荒くれ男達は、飲み食いした料理の量と比較し、微妙に足りない料金を机上に放り出すと、慌ててエルヴンの女の足取りを追う。
外へ出ると雨は止んでおり、娘はすぐに見つかった。
そう離れていない所を、この辺りでは珍しい格好で、濡れた石畳の上をのんびりと歩いている。
待て、と眼帯を付けた隻眼の男が、咳払いをした後に、厳つい声で呼び止めると、振り返ったエルヴンの女は、何かを悟った様に口を開く。
―――――――お前様方の腕前じゃ あっしにゃあ届きやせん
―――――何もねえ こんな所で無駄に散る事たぁ 無ぇでしょう
―――悪い事ぁ言いやせんぜ お止しなせえ
「問答無用。
誇り高き剣士を愚弄した罪、今ここで償わせてくれる!」
殺気立ち、聞き入れぬ男の態度に、はぁぁ、と深い溜息を一つ漏らすと、カヤは朱塗りの鞘に左手を掛けた。
やれやれ仕方がない、とでも言いたげに、口元をへの字口に結ばれてゆく。
立ち合いの意は伝えた、とばかりに、背中に吊るした剣を抜き放ち、頭上高く掲げた男が、銀の髪の娘に駆け寄ると、手にした獲物を振り下ろす。
次の刹那、振り下ろした幅広の剣が、ぱっくりと二つに断たれる。
――うぉわあ!
眼帯を付けた隻眼の男は、驚きのあまり、その様な声を上げたつもりだったが、それはぐぶぶぅ、という音が喉から漏れ出るだけであった。
気付けば額が断ち割られた挙句、何時の間にか、喉から頚部へと、冷たい鋼が貫いている。
恐らく、もう助からない事は、誰の目にも明らか――よしんば運良く生き残ったとしても、刃が抜かれて後、手拍子で数拍、生き永らえる事が出来たのならば、御の字と言えるだろう。
もし彼を、すぐそこに迫り来る死から救う為には、直ちに魔の力を集め、魔法を行使し傷が癒えるのを願うしか、手段が無い。
彼等は、魔の力を集める術を持たないのか、それとも、元よりそれほどの仲では無かったのか、残念ながら、救おうと動く者は、この一行の中には誰も居なかった。
すぐに、口元から薄く赤い泡を零し、そしてぐるり、と瞳が上に廻り。
娘が鋼の刃を引き抜くと、ぐらりとその体が地へと向かい傾く。
常在戦場、もし死すならば戦いの中で、と日頃願っていた、眼帯を付けた隻眼の男。
彼の想いは、図らずとも今ここに叶えられる事となった。
―――――――ふふ ほうら あっしの言った通りだ
―――――言わんこっちゃねぇ 親切は 聞いておくもんですぜ
寂し気に戦ぐ、風の様な声が、残った二人の耳のそばへと流れてゆく。
物言わぬ屍となった後では、全てがもう遅い――のだが、吹き抜ける風に髪を揺らす娘は、踵を返しそう独り言つ。
返事を聞く気など、初めから無かったのであろうか、斃れた男の方を、振り返る事は無かった。
そのまま、ゆっくりとした足取りで、雨上がりの角を曲がり、目抜き通りから裏路地へと姿を消す。
だが、荒くれ者共の方は、たった一人が斃れた程度で、退く理由など無い。
次は俺だと、隣に居る者に注意を促すと、頬に傷痕のある男が前に進み出、エルヴンの女の後を追った。
入り組んだ迷路の様な裏路地を、時折立てられている篝火を頼りに、手分けして娘を懸命に追う二人。
手入れがされておらず、凸凹の激しい路地の向こうに、女は居た。
腰の赤い柄に左手を軽く添えており、何するでも無く悠然と立ち構え、不敵な笑み浮かべている様にすら見える。
軽れる気など元より無かったが、追って来た者に気付き、待ち構えていたに違いない。
迎え撃つ準備は万端、といった所だろうか。
彼女に、薄暗く汚れた路地の向こう側から追い付いた、顎髭を蓄えた男は、エルヴンの女の背後から、短刀を投げつけるべく、慎重に身構えている。
密かにそれを確かめた頬に傷痕のある男は、手を出すなと目配せしつつ、カヤに声を掛けた。
「よお、探したぜ。
用件は――その様子じゃ、分かってるな」
あれ程の金を積んでも首を縦に振らなかった、この剣士の腕を自ら確かめてみたい。
もし、倒す事が出来たのなら、己の腕にも箔が付くだろう。
勝った後の、自身の輝かしい未来を想像する事で、胸中を満たし、彼女に負けず劣らずの不敵な笑みを返すと、剣を抜き放ち、腰を落として身構える。
エルヴンの女は何も言わず、右手で柄を握ると、前後に両足を広げ、腰を落とす。
互いに無言、間合いを図っているのか、呼吸を読んでいるのか――。
音の無い、ただ静かな刻が流れてゆく。
ぼぼ、と路地を駆け抜ける風に押され、篝火の炎が揺れた。
力任せに剣を振り打倒さんと、裂帛の気合と共に詰め寄る男に合わせ、飛び出す女。
そして、篝火の炎に揺れる、壁に映った二人の影が交差する。
刹那、男の背から血の華が舞った――、かの様に見えた。
彼女の手にした刃が、篝火に写し出された影の如く、そっと揺らめいた気がしたが、気のせいだろうか。
鋼同士の打ち合う音は、何故だろう――その所為であるのか、不思議と聞こえて来る事は無い。
やがて、頬に傷痕のある男は、壊れた人形の様にぽろりと首そして、手にした剣を落とし、薄汚れた路地に俯せになる。
体の方は糞尿を撒き散らし、手足をあらぬ方向へと、子供が駄々をこねるかの如く、激しく暴れ動かしていたが、やがて命の力が尽きたのか、それも静かになり。
男は安らかな泣き顔で、何かを呟く様にもごもごと口を動かし、瞬きを続けていたが、胴の方とは対照的に、崩れ落ちた時にごとりという音を立てた以外、何かしらの音を発する事は無かった。
仲間が、二度も目の前で倒されたのを目の当たりにし、闇に隠れた者がひっそりと息を呑む。
しかしそれでも、勝ち残り油断しているであろう、今の好機を逃すまいと、エルヴンの女の背後に、短刀を投げようと、刃物を持った手を振り上げる、顎髭を蓄えた男。
今なら当たる、呼吸を合わせ満を持した、絶好の機会。
だがその時、こちらに駆け寄って来ようとする、幾つもの気配があった。
――――――――(3)――――――――
「居たぞ、あそこだ!」
このような夜更けには、誰も通らぬと思われていた、裏路地に突如として、幾人かの大声と慌ただしい足音が近づく。
隻眼の男の死体が見つかり、警備兵の出動を促してしまった事は、想像に難くない。
それを聴くや否や、顎髭を蓄えた男は、憎っくきエルヴンの女を背後から襲撃する事を、すぐに諦めると、舌打ちをその場に残し、目抜き通りの方へと、一目散に駆け出した。
「待てッ!
逃がすなよ、追えッ」
新手の内一人が鋭い声で叱咤すると、裏路地に訪れた、四人の鎧兜に身を包んだ男達は、それぞれが二手に分かれてひた走る。
一方は、顎髭を蓄えた男が逃げた方へと、そしてもう一方は、エルヴンの女の方へと。
悠然と歩き、すれ違ったカヤは、逃げる訳でも立ち去るでも無く、壁を背にじっと訪れた者達へと、視線を投げかけていた。
一人が、少し離れた銀の髪の娘の方を見、もう一人が、彼女に背を向け、斃れた男の方へと屈み込む。
飛び散った血の跡が、篝火に照らされ、吹き抜ける風に合わせて、はたはたと揺れている。
頬傷のある男は、首の無い胴の近くに頭が転がっており、既に息をしていない。
彼等は、彼女が刃を振るった瞬間を、ぼんやりと思い出していた。
遠目に見た記憶と、確認出来た状況に相違は無かった、それ故にこれ以上は、調べるまでも無いだろう。
そう結論付け、短い検分を終えた者が立ち上がる。
すると、唐突に口端に僅かな笑みを浮かべ、娘は問うた。
何だか面白くなってきた、と言わんばかりの、楽しげな声を風に乗せて。
―――――――あっしは どう致しやしょうかい?
それは、頬に傷痕のある、斃れた男の死を確かめた事を、まるで待ち構えていたかの如く、実に嫌な頃合いである。
全てを知って居ながら、わざわざ問われる前に、訪ねてきた――という事は、更にもう一悶着を起こす気に違いない。
勿論、そうなるのかどうかは、こちらの答え方次第だろう、厭な女だ。
いつ何時、互いの立場が変わってしまったのか、不明である。
しかしどう見ても、追い詰めているのは、彼等の方である筈なのだが、肌で感じるその場の雰囲気は、そのような生易しいものでは無い――兎にも角にも、どうにかしてこの場を、切り抜けねばならないだろう。
不遜と呼ぶには程遠いものの、この余裕ある態度は、一体何処から来るものなのだろうか。
ふと見れば、抜刀していた筈のエルヴンの女は、音もさせずにいつの間にやら、抜き身を鞘に仕舞い込んでいた。
だが、左手は朱塗り鞘に手を掛けたままである。
この者達が、自らと対峙するのであるならば、そのまま斬り払う、という心積りなのであろうか?
先程の男の様に、慌てて逃げずにこの場に佇んでいるのは、果たして自信の表れだろうか、それとも――。
胸の奥が酸で焼かれるかの如く、沸き起こり満ちてゆく、厭悪な感情。
意図して作り出された、この素晴らしく嫌な雰囲気が、彼女の方から二人へと、びゅうびゅうと凄い勢いで、吹き付けられているように感じる。
これは、脂汗だろうか?
寒くもないのに震えが止まらない、二人の脇下が、ねっとりと汗ばんでゆく。
鎧を着込んだ男二人の内、検分をしていた方が、剣に手を掛けて腰を落とし身構え、今にも飛び掛からんとする、もう一人の前を塞ぐ様に手を伸ばす。
振り返らぬまま、手を伸ばした方の者が、辛うじて首を横に向け、娘に声を掛けた。
落ち着いた年輩の男の声が、彼女の問いを迎え撃つ。
頭に被った、顔全体を覆う兜の奥からは、抑揚の無いくぐもった響きが、雨上がりの静かな夜の闇中を、まるで稲妻の様に、突き抜けてゆく。
「我が街では先に抜刀した方が、危害の意志があったと見做される。
……故に。
娘、もう行って良いぞ」
―――――――へい 御慧眼 恐れ入りやす
―――――それじゃあ あっしはこの辺で 御免なすって
好んでその場に居た訳だが、改めて放免を告げられ、そこで漸く、左手を朱塗り鞘から離し、菅笠を軽く上げた後、訛りが非常に強い言葉使いで、軽く会釈を返すカヤ。
音も無くくるりとその場で踵を返し、裏路地から目抜き通りへと進むと、街外れの方へと向かっていった。
再び、一陣の風が吹き抜け、ぺたぺたと、石畳を歩く音だけが遠ざかってゆく。
一体何だったのだろうか――先程まで、辺りに充満していた様に感じた、腹の底から胸の奥にかけて酸っぱくなる様な、嫌な雰囲気は忽然と消え失せていた――通り抜ける雨上がりの清涼な風が、実に心地良い。
もう一人の剣に手を掛けていた男は、安堵したのか柄から手を放し、娘の去った方をぼんやりと眺めつつ、ぽつりと問う。
「あの。
この街にそんな掟、あったんですね」
エルヴンの娘が立ち去った後、真面目そうな青年の声が、兜の向こうから発される。
今まで知らなかったので、大変勉強になりました、という礼の言葉を遮る様に、娘に行って良いと言った、年輩の男の声が飛んだ。
「……。
残念だが、な。
……そんな掟は無い」
その内容は、青年の問いを真っ向から否定するものであった。
間髪入れずに続く、えっ、という不審と、驚きの含まれた声すらも無視して、その声は続く。
抑揚の欠片も無かった先程とは打って変わり、厳しいが、何処か優し気な声色で。
「お前確か……、俺たちの所に来てから、まだ間が無かったな?
何もせずに、先輩面するのも忍びないからな、一つ、この街で長生きする秘訣を、教えておこうか。
今が丁度良い機会だと思って、黙って聞いておけ。
正直な所、俺たちの様な職の者が、こんな事をはっきり言うのも何だが、あんなのに付き合っていると、命が幾つあっても足りんぞ。
こいつ等を、わざわざ路地裏に誘い込んだんだろうな……、それと、倒した後確かあそこに歩き、立っていた。
俺たちが向かい合う様に仕向けて、場所を選んでいやがったのさ。
若く見えるがあの女、相当手馴れてやがる。
見かけちまった俺たちは、運が悪かったのさ――見ただろう?
お前も、アレを。
狙いが俺たちじゃないなら、向こうから問題を起こさなければ、ああいうのとは関わるな。
放っておけば、その内街から出て行ってくれる」
「は、はぁ……」
居着く様ならそん時はまあ仕方がない、覚悟を決めろと続く、年輩の男の声の内容を、理解したのかしていないのか、茫洋と青年が生返事を返す。
すると、目抜き通りの方から、先程逃げた男を追って行った二人が、裏路地へとやって来る。
遠目に人数に変わりはない、という事は、顎髭を蓄えた男を捕らえられず、戻って来たのだろう。
それを感じ、青年と向かい合う年輩の男が、思わず舌打ちをした。
「チッ。
今夜の手土産は無しか……。
ふてぶてしい面構えに似合わず、逃げ足の速い奴だったようだな。
詰所に戻ろう。
もう交代の時間を過ぎてるな、仕事は終わりだ。
……今日はお前、これから暇だったか?
丁度俺もだ、折角だからこの後、他の奴も誘って、一杯呑みに行こうか。
お前はまだまだ危なっかしそうだから、色々教えてやるよ」
年輩の男の声はそこで途切れ、目抜き通りから来た者達に手を振る。
そして、青年の肩を二度程軽く叩くと、後ろから腰を押して、前に進むことを促す。
四人は裏路地の出口で向き合うと、簡単に言葉を交わし、目抜き通りの向こうへと姿を消した。
緩やかな乾いた風が、篝火の炎を揺らし通り抜けてゆく。
それに撫でられた薪が、一拍置いてから、ぱちり、と爆ぜる。
警備の任に就いた、物々しい背格好の者たちが去ると、夜闇の中、通る者も居ない裏路地は、陽が昇りその周囲を照らし出すまでの間、じっと沈黙を保ち続けるのであった。