アンシエンラント創世記 2話
―――――未知の力―――――
3章.人の成し得ぬ技法
1歩踏み込むと、背後には壁が再び現れていた。
中は2人、いや3人も並ぶと、恐らく窮屈に感じる程の幅。
後ろに並ぶ、娘が手にしたランタンの光が、前を歩くハザの影を伸ばし、その床や壁に映し出している。
一応は慎重に歩を進めるが、心配されるような、罠などは見当たらなかった。
壁が消えた先の脇道は、暫く進むと行き止まりとなっており、崩れた岩々が彼等の行く手を阻む。
何処かに繋がっていた様子はあるのだが、袋小路となった通路を見た娘も、消え入るような小さな声で、他に通れそうな通路は無さそうです、と言う。
少なくともさっきの様に、消える壁は無い、という事か。
行き止まりの岩の出っ張りに触れたり、崩れた柱を軽く蹴り付けたり、等もしてみたが、崩れた部分は簡単に動かせそうには無い。
残念だが、これ以上進めない行き止まりの様である――だったら、直ぐに引き返しても良いが、折角だ。
「少し休む」
突如としてぶっきらぼうに言い放ったハザは、同行者の返事も聞かずに、長剣の留め具を背負う為のベルトを外し、鋼で出来た相棒を放る。
がらん、と狭い通路の果てに、鉄が転がる音が大きく響いた。
そして壁際に座り込むと、鞄から水筒と干し肉を取り出し、齧り付く。
こうしている間に、屯していた連中が、何処かへと移動しているかもしれない。
ひとつ、十分な時間を掛けて咀嚼した干し肉を、喉の奥に水で流し込むと、青年は気が付いた様に、ぼんやりと立つ娘へと声を掛ける。
彼女はじっと、ハザが干し肉を食事とする様子を、見ていた様に思う。
「……。
おい、食うか?」
口にした水の中に、僅かな肉の味が溶け込んでいくのを感じつつ、彼は問うた。
青年の思い起こせる限りでは、出会ってからただの1度も、この女は食べ物を口にしていない。
恐らく、食料は持っていない筈だ。
何も言っては来ないが、随分と腹が減っているのではないだろうか?
がさりと乱雑に鞄へと手を突っ込み、掻き回してから更にもうひとつ、ずるうりと干し肉を引き出すと、対面の壁に立つ彼女へと差し示す。
すると、あまり面持ちを変えない、娘の声がすぐに聴こえた。
「いいえ――。
それは、我等が食せる物ではありません。
どうぞお気になさらず、召し上がってください、ハザ」
じっと見ていたのは、食べたい訳では無かったのか。
「そう――、か。
……別に、腹が減って無いのなら、かまわん」
不要との返事を聞くと、再度勧める様な事はせず、まるで関心が失せた様に、ハザは彼女から目を外し、指し示していた干し肉を、口元へと引き寄せ、躊躇無く齧り始める。
少し前までは聞こえていた、独りだけの足音は、今は聴こえては来ない。
しかし、たった独りむしむしと、干された肉の繊維を噛み千切る音、そして交互に響く、水筒からごくごくと水を飲む音が、暫く辺りを支配していた。
食事を摂り、十分に休んだハザは、やがて床に転がせた長剣を背負い直し、立ち上がる。
女は緩やかに輝くランタンの取手を、両手で掴んで下げ、その明かりでぼんやりと、身動ぎひとつさせずに、彼を見ているように見えた。
それを確認した青年は、顎で元来た道を指し示し、引き返す。
行き止まりから引き返すと、先程と同じ様に壁を消し、隠されていた脇道から、大きな通路の様子を窺う。
先程見えた屯する者達は、どうやら、まだそこに居る様であった。
この先へ進む為には、ひと悶着を覚悟せねばなるまい。
彼は見え得る限りの視野から、敵となる者達の数を数える。
「ハザ。
戦うのですか?」
「ん?
ああ、そうだ。
俺の知る限りでは、そこを抜けなければ、上に登れんからな」
確認の為、何度か数え直している途中、隣へと音も無く進んできた女が、声を掛けてきた。
彼は話を聞きながら、女をどうするか考える。
この娘は後ろに控えさせるか、それとも、どこか遠くで待たせるか。
近過ぎれば巻き添えを食う気がするし、離れ過ぎれば徘徊する他の者に見つかってしまうに違いない。
そうだ、行き止まりだが、さっき出て来たこの通路に隠れさせる、と言うのも良いだろう。
青年は戦う覚悟を決め、女へ隠れていろと伝えようとすると、娘が更に話を続ける。
「我等にも、戦う術がありますので。
ハザを、手伝えるかと存じます」
突然の申し出に、彼は眉を顰める。
彼女は何のつもりで、こんな事を言い出す?
当たり前の疑問が胸中を満たしてゆく――戦えるのならば、何故あの時、最初から戦わなかったのか。
「お前が戦う、だと?
こんな時に冗談は止せ。
幾らお前が不死――とは違う、と言ってたな。
いや、不滅とは言うが、そうそう何度も死なれると、流石にな」
脳裏に浮かぶのは、最下層での出来事、そして先程の、巨石が落ちるの罠――。
思い起こせば、戦いと言えない様な部分で、この娘は斃されてばかりだった。
例え、彼等の前に出ても何もせず、静かに討たれる女の姿は、想像に難くない――このまま放っておけば、今度もきっとそうなるだろう。
相対してきた敵を背にした長剣で、死の淵の向こう側へと、幾度となく追いやって来たハザと言えども、年頃の容姿を持つ娘に、目の前で何度も何度も死なれては、流石に寝覚めが悪い。
「確かに――。
我等は非力で、争うのは得意ではありませんが。
魔の力を振るうならば、現状の打破にお役に立つのでは、と」
目の前の、茫洋とした澄まし顔は、またしても、良く分からない事を言う。
剣や槍はおろか、片手で持てるであろう、軽く小さい短剣ひとつすら所持していない、彼女はそれこそ何を振るうつもりなのだ。
様々な所をほっつき歩いてはいたが、何処に行っても魔の力など、噂にも聞いた事が無い。
悠長に間の抜けた話でもして、油断でも誘うのかもしれんが、それも敵が話を聞いてくれるからこそ、効果が出る。
あれか、誰も訪れん地の底の遺跡で、剣に貫かれたまま干乾び、幾年も歌って時を過ごした挙句、暫く風呂に入って無いから酷く臭うなどと、面白可笑しく話をして聞かせるのか。
それは一体、何処の国の御伽噺だ?
楽曲と共に詩でも朗し読むのが好きな、暇を持て余した知恵者にでも聴かせてやれ、そんな話は――ハザはそう思うと、鼻でせせら笑う。
「眉唾だな。
言葉では、振り下ろされる刃を止める事は出来んぞ」
「それは――ハザ。
貴方が想像しているものとは、違います。
ここはひとつ、我等にお任せ下さい」
彼からの強い語調を受けても、その面持ちは変わる事が無い娘。
彼女が何を行うつもりかなのかは、ハザにはまるで想像する事が出来そうもない。
否定的な見解を聞きつつも、それでも食い下がろうとする娘に、青年は面倒臭そうに言った。
「それなら――。
俺よりも速く斃せるのなら、良いだろう。
出来るものなら、な」
「はい、それならば可能ですよ。
準備がありますので、少々お時間を頂けましたら」
軽い返事で、女はそうは言うのだが、アテにする心積りなど毛頭無いハザ。
一体どれ程の、自信に満ちているのかは知らないが、彼等を斃す方法を娘が持っているとは、到底思えない。
彼は不確かなものを、戦力として期待し、戦い抜こうとする程、甘い世界では生きていないのだ。
「無理なら大人しく、そこに隠れていろ。
奴等は俺が片付ける」
続けて、剣を振る邪魔にならないのなら好きにしろ、と生返事を返すと、すぐに身を隠していた脇道から、広い通路へと躍り出る。
そして、わざと足音を高く鳴らし、通路を踏み締めた青年は、ゆっくりと歩む。
わざわざ1人づつ、丁寧に相手にするのは、まどろっこしくて敵わん、纏めてかかって来いと言いたげに。
こうすれば、敵を目の前にして、居眠りをする不届き者でも無い限りは、幾ら何でも気が付くだろう。
案の定、足音とその姿に気付いた者が、大きな声を上げる。
「何者だッ!?
そこの者、武器を捨てて止まれ!」
彼等は口々に誰何を問い、物々しい様相の連中が、それぞれの獲物を手に、詰め寄ろうとしてきた。
彼の方も、大人しく長剣を投げ捨て、投降する様な真似はしない。
仮に降伏したとしても、見逃してくれる事など無いであろう、今、この血気盛んに集う者達は。
ハザは、口の端を吊り上げる事を、誰何への返事とし、背中の長剣を引き抜くと、切先を前に悠然と構えつつ、多数の敵を前におくびもせず、石畳の上を駆け抜ける。
互いが互いを敵として認識し、相手という存在を、己の力で制する為、その距離を徐々に縮めてゆく。
絶対に引かぬ、という強い意志が、通路に満たされてゆき、ぶつかり合うような気がした。
そして、通路を塞ぐように屯する者達と正対し、いよいよ剣を交えようとした時、それは起こる。
突然、何処からともなく、美しい音が鳴り響く。
ハザは後ろに居る筈の娘が、唐突に歌い出した様に思えた。
何故、この期に及んで、彼女は突然歌いだすのだろうか。
その意図を解さない、その場にある全ての視線が、一点に集まる。
思わず目を見張る程の、美しい顔立ちは、先程から寸分も変わらない。
小さく開けた形の良い唇から、通りの良い透き通った歌声が発され、地底の薄暗い遺構の通路を、そして彼等の耳を通り抜けてゆく。
これは、何処の国の言葉だろう。
聞き覚えの無い、異国の言葉の様なものが、まるで心に直接染み入る様に、聴こえて来る気がする。
それは、星の瞬く夜の様な、粛然たる旋律――。
それは、去る者を想う様な、物悲しい音律――。
それは、燃え盛る炎の様な、勇ましき韻律――。
全く別の楽曲を同時に奏で、それでいて全ての音程が、幾重にも重なり、見事に調和しているかの如く、不思議な調べ。
耳障りの良い、艶やかな奏楽を耳にした皆は、ぽかんと一様に、呆けた面持ちを浮かべ、若い娘を見ていた。
まるで、時間が止まってしまったかの様に。
すると足音も無く、滑る様にして彼女は前に、ゆっくりと進み出る。
何をしようと言うのか、皆目見当が付かず。
そして、その結果――誰も、身動きをしない。
進み出た娘は徐に、左腕を正面へと掲げ、軽く握られていた、しなやかな指先を開く。
次の瞬間の事であった。
突如、突き出した掌から、荒れ狂う炎が吹き出す。
「ひっ?」
「ぎあっ!」
「うわああああ!?」
驚愕の声が響き、その炎に触れた者の鎧は燃え盛り、幾ら叩き回っても勢いを弱める事が無い。
纏えぬ程熱を持った鎧兜を、慌てて脱ぎ捨てた男達は、それでも消えぬ不思議な炎の熱気に押しやられたのか、床へと倒れ、のた打ち回った。
彼等の服にも燃え移ったのか、それとも彼等自身が燃えていたのか。
娘の手より、吹き出し続けるその炎は、決して消える事無く、彼等のその身を焦がし続け、やがてわあわあと騒ぎ、叫んでいた動きが、弱々しいものとなる。
そして、徐々に、声が小さくなってゆく。
歌、いや、音楽だろうか?――何時の間にか、それらも鳴り止み、静寂が訪れていた。
既に、前方に居た男達は皆斃れ、呻き声ひとつ上げてはいない。
今はもう、先程の見事な歌声は聞こえておらず、周囲はしん、と静まり返っている。
咳払いひとつ許されぬ、そんな緊張感で張り詰めた沈黙が、辺り一面を満たしていた。
茫然としていた彼の視線が、漸くそちらを向いた――背後の――いや、今は目の前に居る、娘の方へと。
何が起こったのか、今ひとつ理解がし難い面持ちのハザ。
だが、目の前の出来事、それが夢ではない事に、通路に倒れ伏す黄白色に爛れた肉塊から、異様な香りが漂っていた。
生きた者が居たなら、何者か問い質したかったのだが、動く者は1人も居らず、またここまで焼けてしまえば、最早何者であるのか、判別が付かない。
そして、静寂を破り、青年がひと言の声を発する。
「準備が必要とは、この事だったのか」
この女は準備が必要、と言ってはいたが、左程時間は経っていないようにも思えた。
彼女の言っていた戦う術というものは、こんなにも恐ろしく、強力無比なものだったのだろうか。
自身より速ければ、やっても良い、と言った事を彼は思い出す。
剣を振る邪魔にさえならなければ、好きにしろ、と言った事も。
その好きにさせた結果が、これだ。
確かに、この人数を斃すには、彼が剣を振るより、余程速かったかもしれない。
「はい。
ハザが目立って、関心を集めていましたので、十分な時間が取れました」
茫洋とした澄まし顔はそのままに、静かな透き通った声が、彼の耳へと届く。
焼け付いた者達から視線を外し、改めて娘の方を見遣る。
そして再び、感想を口にするハザ。
「……これは驚いた。
お前は……、こんな事が出来たのか。
あれは……何と言う技なんだ?」
何も持たない手から、炎を吹き出す技。
そしてその炎は、恐らく命そのものが、燃え尽きてしまうまで、決して消える事が無い。
ハザは生まれてこの方、そのような技を、炎を、見た事が無かった。
確か、何の力と言っていたか――話をたっぷり盛られた御伽噺と思い、一笑に付した為、彼はどれ程深く思い出そうとも、その名の欠片すら思い出す事は出来ず、言葉に詰まる。
「申し訳ないのですが――。
あれに、名は無いのです。
魔の力を扱う術は、発見よりあまり時間が経っておらず、未だ、謎に満ちておりまして」
徐に、そして微かに小さな、詫びるような声色で、返してくる彼女。
ごく最近、と娘は言うものの、それは気の遠くなるような、途方もない長い時間を経て、なのだろうか、それとも――?
それを聞いた彼は、及びも付かない事へとその考えが至り、それからすぐに思い直したのか、軽く流す様にして答えた。
「そうか。
しかし、酷い臭いだ。
これはもう少し、何とかならないのか」
「ではハザに、お尋ねいたします。
焼き加減は、どのような感じがお好みでしょうか?」
先程まで生きていた筈の肉はおろか、焼けた髪、そして焦げた爪の臭いが、辺りに充満している。
だが、戦場で嗅ぎ慣れたそれとは違い、油や木々の燃える臭いは、全くと言って良い程混じっていない。
その所為か、より強く感じられるのだ――焼け爛れた人の肉の臭いが。
普段とはまるで違う、強烈な違和感に、ハザは思い切り顔を顰め、鼻をつまみながら答えた。
「生焼けだけは、止めてくれ。
――物凄く、臭うんだ」
思えば、酷い胸やけがする。
そのままここに居れば、きっと吐き出してしまうだろう。
これで少しは、意志が伝わっただろうか、と言いたげな彼のうんざりした面持ちを、茫洋とした澄まし顔で眺めつつ、娘は淡々と語った。
「成程。
では、次からはご希望に添える様、心懸ける事と致します」
ああ、そうしてくれ、と軽く頷くとハザは咳払いをし、再び黙り込む。
邪魔者は、図らずも排除された、もう此処に長居する理由は無い。
青年の咳払いを機に話を終えると、彼等は歩き出す。
まだ遠い――地表を目指す為に。
屯する者達を、瞬く間にして焼き払い、旅路に戻ってから暫くしての事。
「そうだ、お前。
何と呼ばれていたんだ?
名が無くてはやり難い、何時までもお前と呼ぶのもな。
何か、名は無いのか?
昔そう呼ばれていた、とかでも構わん」
もう、随分と近くなったらしい、水場へと向かう途中、ハザは背後の娘へと声を掛けた。
あれ程の珍しい技を持つ者なのだ、当然名前位は、いや、それこそ高名な通り名の、1つや2つは持っているだろう。
何と呼ばれていたのか、聞くのが楽しみだ――彼はそう考えていたのだが。
「――、……我等に名はありません」
返って来たのは短くも、簡素に纏められた、期待に反する返答。
答えにくい理由があったのか、返答に困ったのか、それとも――考えあぐねていたのか、少し間が空いた後、女は小さく応える。
あれ程の事が出来ながらも、全く名が無いとは、驚いた。
噂に聞いた事も無い、驚くべき技を持つのだ、異名か二つ名で呼ばれはしなかったのだろうか、と思いつつも話を続けるハザ。
「――またか。
しかし、名が無いとこっちがやり難い」
「それでしたなら。
リム、で良いのではないかと」
「【後ろ】?
そんな名で良いのか」
「ハザ、貴方に識別し易ければ、我等は、それで一向に構いませんよ。
それに此処まで、貴方には何度も【後ろを歩け】と、言われていますので」
名前は、本当に何でも良さそうであった――それならば、当人が名乗りたいという名で良いだろう。
悩みに悩んで、最後には怒鳴り合うより、遥かにマシだ。
彼はすぐに考えと気持ちを切り替え、彼女の提案を受け入れる事にする。
「判った、好きに名乗ってくれ。
俺も今度から、そう呼ぶことにする」
話を終える丁度その頃、微かな水音が、ハザの耳朶へと飛び込む。
先程名が決まったばかりの彼女――リムの云う水場の近くへと、漸く辿り着いたようだ。
「何だこりゃ?」
やっとこさ、この女の臭いからおさらば出来る、と青年は内心ほくそ笑んでいたが、しかし、流れを見た彼は娘の方を見ながら、思わず大きな溜息を吐く。
それもその筈――待望の水場は、狭く、浅く、両手で掬うのがやっと、という様な、ごく小さなものでしかない。
これでどうしろって言うんだ、といった面持ちを隠さない、じっとりとした視線が彼女を貫いたが、その面持ちは寸分も変わる事は無く、小さな流れをじっと見ているのだった。
【仮初とは言えども、原初の炎は熱く】