アンシエンラント創世記 4話
―――――封じられし者―――――
1章.幻影
風が強く吹く、細い通路を青年は独り歩く。
相変わらず少し肌寒いが、歩いていれば、気になる程では無い。
多少左右に曲がってはいたが、覚えやすい1本道。
浮かぬよう腰を落とし、ゆっくりと左右の足を交互に組み換え、地を踏み締めつつ、どの位歩いただろうか。
随分と長い事歩き、再び人の手が入った、石畳が見え始める頃の事だった。
行く先の正面に、人影が見える。
近づくと、見覚えのある姿から、聞き覚えのある声が、静かに青年の耳朶を打つ。
「お待ちしておりました」
リムだ。
――ついさっき、あの場所に、置いて来た筈の。
ハザは思わず振り返る。
しかしそこには何者も見かける事は無く、ただただ吹き荒ぶ風が、強く吹き荒れているのみ。
どういう事だ――此処までは確かに、1本道だった筈。
後ろから追い抜かす者等、ただの1人も居なかったし、見ての通り狭い通り道の事、気付かれずに先に進む事など、有り得ない。
ゆっくりと振り返ると、矢張りそこに見知った女が居た。
風に長い髪を靡かせた娘が、何時もと全く変わらぬ、茫洋とした澄まし顔をこちらへと向け、静かに佇んでいる。
彼はその場で立ち竦み、声の出ない口を何度も開く――何故お前がここに居る、と言いたげな面持ちで。
そして、茫然と立ち竦む彼を、左程気にした風も無く、彼女はのんびりと言った。
「どうぞ――。
お借りしていたこちらを、お返しします。
さあ、お確かめください」
ぷるぷると微かに震えるその両手には、先程この娘に掛けた筈の、毛布が丸めた状態で乗せられている。
間近で確かめるが、それはハザが持って来た物に相違ない。
それでは、目の前に居る彼女は、確かにあそこへ置いて来たリムなのか。
もう何度目となるか、不可思議な出来事に目を丸くしていると、更に追って声を掛けられてしまう。
「あの。
重いので、早く受け取って欲しいのですが」
成程、確かに腕や足の力はほぼ無いように感じた。
腕や足がぶるぶると震えているのは、寒いからではなく、重さに耐えかねての事である様だ。
もう暫く放っておけば、ぽとりと取り落としてしまう事だろう。
勿論ハザにとっては、思わず拍子抜けし、眉を顰める程大した重さでは無い。
これならば、水を汲んだ桶の方が、余程重いに違いないのだが。
丸めた毛布は、リムにとっては、相当な重さであったのか、受け取ると、彼女は安堵した様に、大きく肩で息を吐く。
風の強いここで畳むのは難しい。
小脇に抱え、ひとまずは移動する事とする。
細い通路を通り抜け、岩の裂け目に造られたような階段を登り、人の手の入った踊り場へと辿り着く。
畳んで仕舞おうとして、丸めた毛布を広げると、捻れた様にだらりと垂れ下がった。
それは、無造作に丸めてあるように見えたが、広げてみると、折り畳まれたような跡も見て取れる。
丸めるついでに折り畳んだのか、折り畳もうとして丸まったのか。
「なあ――。
もしかして、コレ、折り畳めないのか?」
怪訝な面持ちのハザの問いに、茫洋とした澄まし顔を崩さず、平然と答えるリム。
「我等にその様な、器用な行いを期待しないで欲しいのですが」
それは、出来ない事がさも当然であるかのような、振舞いである。
……畳めない、という事か。
苦笑を浮かべると、意を察した彼は毛布を折り畳み、鞄の中へと仕舞った。
「では……、先へ進みましょうか。
どうぞ、こちらです」
妙によそよそしい視線で、青年の手元を見ていた娘が、踊り場の壁を指差すと、何時かと同じ様に、そこにあった筈の壁が、薄くなり消えた。
向こうに見えるのは、今までと同じような、石造りの通路。
造られた時期は、同じ様な年代なのだろうが、壁の様相が少しだけ違う。
壁に空いた穴を潜り抜けた後、振り向くとそこにはもう、消えた筈の壁が蘇っている。
試しに触れてみるが、ごつごつとした石の感触。
リムは本当に、技を使って壁を消していたようだ。
これで迷宮のように入り組んだ遺構の壁を、消しながら進めないのだろうか。
「それは無理です。
我等が通り抜けられる壁は、場所が決まっているのですよ」
疑問に思った心を読んだのか、ハザの顔色でも察したのか、内心の正鵠を射た言葉が、彼女の口から転び出る。
何よりも、俄か唐突に話し出すので、心の臓に悪い。
これ以上心を読まれて、勝手に喋られては叶わん、とでも言いたげに、更に喋ろうとするリムへと、彼はひと言注意を促す。
「すまんが、静かにしてくれないか」
承知してくれたのだろうか、彼女はすぐに黙り込む。
それを見て安堵した様に、溜息をひとつ漏らすと、青年は歩き出した。
やがて先に見えてきたのは、広々とした大広間に架かる2つの橋、欄干の無い円形の踊り場、深みのある穴。
これは、隠れた通路を通って来る前の迷宮と、同じ構造なのか。
同じ場所に戻って来たのか、と錯覚してしまう程、その造りは似通っている。
だが、以前通った大広間の柱は、幾つか崩れていたが、上の橋こそ崩れ去っているものの、こちらの柱は健在で、かつての在りし日の姿を、幾許か想像する事が出来た。
先に平たく見える中央の床は、あの時戦って通り抜けた所と同じく、丸い形をしているのだろう。
その向こうの広い床まで繋がる白い石、これが橋となって通されている――大広間の中をたったひと筋、真っ直ぐに。
先に見える、広々とした床の周囲には、また底抜けの大きな闇が広がり、その周囲に広間を取り囲むように建つ柱が、ぼんやりと写し出されている。
何度も見かけた、何時の間にか付いたり消えたりする光源も、辛うじて見る事が出来た。
その上は――光が届かず、見る事が出来ない。
辺りの見聞を終えたハザは、ゆっくりと、白い石で出来た床を渡る。
こつりこつりとひとつの足音が反し、その事が更なる静けさを感じさせてくれた。
すぐ横は、何処まで続いているか分からない、闇と深潭。
勿論ながら欄干などはこれっぽっちも無い、道幅こそ余裕があるものの、強い風にでも煽られれば、頭から真っ逆さまだろう。
そうなっては御免だ、とばかりに青年は白い橋の中央を歩く。
やがて、橋の袂に辿り着いた頃。
ふと、中央から何者かが、こちらを見ている事に気付き、リムとハザの2人は、はたと足を止めた。
それも1人や2人といった数では無く、大勢の人影が、大広間の中央に陣取り、揃ってじっと1点を見つめている。
誰何を問うても、返事はない。
彼等は何のつもりか幽幻の如く、その場に立ち尽くしているだけだ。
向こうに抜けるには、ここを通らねばならないだろう。
嫌な予感はしたものの、先へ進む為意を決して、橋の袂から大広間に足を踏み入れると、突如、甲高い、唸り声のような声が辺りに響き渡る。
聞いた事の無い言葉だ、これがリムの言う、古の民達が話していた言葉だろうか?
それはどうやら、大広間の中央に屯する、人影から発されている様であった。
やがて、怨嗟の遠吠えにも似た声が鳴り止むと、彼等は何事かを呻く様に、または吐き捨てる様に呟きながら、足音ひとつ立てずに駆け出した――大広間に足を踏み入れた、2人の方へと向かって。
それらの声は、徐々に大きな怒声となり、ひとつの喧騒となって、広間を満たしてゆく。
矢張り、奴等は敵で間違いなかったようだ。
先ずは1人、両腕を前に掲げ、駆け寄って来る者。
その掴みかかって来た者の横っ面に、素早く抜いた長剣の1撃をお見舞いする。
さしたる抵抗も手応えも無く、けたたましい叫びを上げると、呆気無く人影は倒れた。
群れを成しては居るものの、足並みは疎ら、目先の者を追うだけの行動、どう見ても組織立った行動では無い。
これなら、多少は数が多くとも、どうとでもなるだろう。
全く、斬り甲斐の無い。
そう思いはしたものの、石床に倒れ伏した者の姿が、霞の如く消え失せる。
しかし、何処に消えたのかを気にしている暇は無かった。
目前に迫る人影の肩口に、鋼の刃を振り下ろす。
これも先程と同じ様に、無抵抗と言っても良い程の無防備さで、その場に頽れ、跡形も無く消え去る。
何時か何処かで感じた同じ様な感覚を、ハザは思い出していた。
姿形は違えども、地の底で相手にしたあの骨共と、同じか。
だとしたら、狙いも容易に予想出来る通り、この女1点で狙ってくるに違いない。
狙いを察した彼は、慎重に守りを固め、わらわらと群がろうとする影共を、手にした長剣で打つ――摺足でじりじりと、少しづつ退きながら。
胸部を長剣が貫き、1人の影が膝をつき頽れると、視界が開ける。
手に残ったのは、宙に舞う木の葉を断つ様な手応え。
あの時に対峙した、骨の方が遥かに斬り応えがあった、と言った方がより伝わり易いだろうか?
先を見ると、大広間の中央には、まだ大勢の者達が屯しているのが見えた。
取り囲む者共を、粗方片付けたというのに、再び現れた人影が、2人の方へと向かう。
全て見知らぬ新手のものかと思えば、寄る人影をよく見ると、もう2、3度は対峙したであろう者の顔も見かける。
この者達は、何処から沸いて来ているのだろうか。
数が減らないという事は、この場に踏み止まる限り、延々と相手をし続けねばならない事に、他ならないのだ。
しまった、と感じたが既に遅い――こうしている間にも、迫り来る影共は、こちらへと向かって来ている。
何処かで退くチャンスを得なければ。
更に後退り、リムに手を伸ばそうとする者を、盾で殴りつけ、蹴り飛ばす。
呻き声を上げて伏した人影は、すぐにその姿が見えなくなる。
倒せるならば、こんな攻撃でも良い、という事か。
薄らと消えゆく影を尻目に思うと、新手に勢いに任せ体ごとぶつかり、続いて次の相手に向かい剣を振り抜いた。
倒す為の1撃を浴びせるだけならば、非常に容易いが如何せんこの数だ、1人1人、いちいち丁寧に相手にしていたのでは、埒が明かない。
数は多くとも、全てこの女狙い、どうせ防がれはしないのだ、それならば――。
位置を合わせる様にして2、3体の手近な者を斬り倒し、素早く1歩踏み込むと、長剣を大きく振り払い、集まる人影を薙ぎ倒す。
すると、まばらに駆け寄ってきていた、人影達がそこで途切れた。
横目で娘の安否を確かめると、気のせいか、そこにはもう既に、1人が倒れている様に見える。
すぐ後ろには、無事だが暢気に立つ女が1人。
大広間の中央からは、瞬く間に蘇った者共が列をなして、大声で何事かを喚き散らしながら、2人の方へと駆け出した。
急げッ、躊躇している暇など無いぞ――!
どちらに手を差し伸べるか、ひと時混乱しかかったが、内心を厳しく叱咤し、すぐ傍らに立っている方のリムを、左手の小脇に抱え、踵を返すとハザは走り出す。
倒れている方は、恐らく手遅れに違いない。
だったら、残っている方を優先して、何ら問題無い筈だ。
ゆっくりと駆け出しながらも、青年は大きく息を吸う。
そして1拍の後、勢いのある足音が響き出すと、すぐ後ろから聞こえていた騒がしい声が、瞬く間に遠くへと離れてゆく。
小脇に抱えられた彼女は、静かに大人しく抱えられており、これ以上の邪魔になる事は無い。
娘の手に下げられた、ランタンの取っ手が足音に合わせて揺れ、キイキイ、カラカラと音を立てる。
そこに灯るのは、少々の風で消える事の無い、妙な光の珠だ。
多少乱雑に扱っても、光源が失われないのなら、もう少し速度を上げても良いだろう。
そして、石橋に打ち付けられる、甲高い靴底の音調が、更に速く強くなる。
耳のすぐそばを、びゅんびゅんと風を切る音が、走り抜けてゆく。
今、どの辺りを通っているのだろう、後どの位駆ければ渡り切れるのか――そんな思いが胸中から沸き起こる――だが、ここで振り向く訳にはいかなかった。
もし安易に後ろを振り返り、奴等に追い付かれでもしたら。
それこそ本末転倒というものだ、苦しいが、此処は走り抜けねばならない局面。
何とか距離を取らねば、またリムが斃されるだろう。
どれ程の数の彼女達が居るのかは知らないが、放っておけばその命もやがて尽きるに違いない。
奈落に架かる橋の上、正面に悪鬼の如く大きく口を開ける、通路の入り口が徐々に大きく迫り、交互に差し進める足の音が、遠く反響する。
その自身の足音の木霊を感じつつ、懸命に足を動かす。
橋の袂を過ぎるまで、後もう少し。
ハザは大きく息を吐き、そして大きく息を吸うと、ぎりりと歯を食いしばった。
やがて2人は大きく開いた、悪鬼の口の中に飛び込む。
これで十分な距離は取れただろうか、薄暗い通路へと駆け込み、小脇に抱えたリムを下ろすと、呼吸を整えるのもそこそこに、元来た道を振り返る。
ひと息に駆け抜けた彼の方が、確かに早かったとは言えども、奴等の影は橋の麓まで辿り着こうとしていた。
橋の袂から、通路に雪崩込んでくるまで、最早時間の問題と言えるだろう。
応戦しようと、彼は慌てて剣を前に腰を落とし、身構える。
が、不思議と奴等は、橋の袂へ屯するだけで、襲っては来ない。
通路入り口側の橋の袂から、何故かこちらには入って来ないのだ――何かを放り投げてくる様子も無く、ただただ声を上げて騒ぐのみ。
しかしその足は床を蹴り続け、前に進もうとしている。
何かしら、見えない壁がそこに在り、熱心に進もうとする彼等の行く手を、阻んでいる様であった。
またしても怪しげな技かと思い、隣に立つリムの方を見たが、静かに佇む彼女の方は、何かをしている様子は見られない。
まだ何もしていないのか、それとももう終わった後なのか。
憎らしいまでのその落ち着きぶりからは、何も窺い知る事は出来なかった。
振り向くと幾多の人影は、わあわあと聴き取れぬ言葉で、暫くの間、何事かを喚き騒いでいたが、警戒して様子を見ている内に、その姿は薄れ消えてしまう。
後には、闇に満たされた奈落の底から立ち昇る風が、緩やかに吹き上げるのみ。
御伽噺の1場面でも、見ていたのだろうか。
前髪を揺らす風に首を傾げつつ、思わずそんな気分に陥ってしまう程、呆気無く静けさが訪れた。
実に不思議な出来事に、青年は目の当たりにした事を、まるで信じられない、とばかりに何度も目を瞬かせる。
そして、唐突に訪れた静寂が満ち、ハザはようやっとひと息つく。
壁に背を預け、額を流れる汗を拭い、空気を求めて喘ぐ、青年の荒い呼吸が、暫く鳴り止む事は無かった。
跡形も無く消えてしまった彼等も、気になると言えば確かにそうだが、それよりも何よりも、こちら側に来なかった事が不思議に思われる。
が、魔の力や呪いに詳しくない彼が見ても、何の仕掛けかは分る筈も無く、ただ黙って吹き抜ける風の音を聞く他、何も出来る事は無い。
思い起こせばこちらも、あの影達を幾人か倒した筈なのだが、斃れた者は忽然と消え失せそして、何事も無かったかの様に、彼等は再び向かってくるのだ。
どうにか呼吸を整え、手にしたままであった長剣を止め具に収める。
そして鞄から水筒を取り出し、ごくごくと喉を鳴らして飲む。
勢い良く零れた水が、びしゃびしゃとジャケットとシャツにかかり、濡れた染みを作った。
「キリがない。
斃しても斃しても出て来るとはな――。
もしかすると、何度も現れるお前と同じか?」
唯ひとつ、違う所を上げるとするなら、リムは斃れた体が遺り、彼等は体が遺らない事。
青年からすれば、どちらも似た様なもの、なのかもしれないが。
ひと息ついた後、軽口のつもりでハザは訪ねたが、それに対して返事は無く、彼を一瞥した彼女は、床や柱の方をじっと見ているだけであった。
何故だろう、どういう事か先程から、やけに静かにしている気がする。
単に、様子を見ている訳でも無さそうだが、出会った時から左程変わり映えしない、茫洋とした澄まし顔から心中を察するのは、大変に難しいだろう。
言いたい事が無いのか、暫く待ってもリムは話を始めず、風の音を聞きながらハザは思案に暮れた。
此処で手を拱いている訳にもいかん。
あの数だ、たった独りとは言えども、逃げも隠れも、また避ける事もしない、無抵抗の女を守り切るのは難しい。
しかも、既に1度は失敗している――。
矢張り俺が先行して、全てを倒してゆく他、方法は無いだろう。
問題は何度も現れる奴等の、全てを屠り去るまで、体力が持つかどうか、だ。
リムも何処かに隠れて貰う必要がある。
あの影共が蘇る為の仕掛けがあるのなら、それを壊しても良い――予想した通りにそのような物があり、自身に見分けが付けば、の話ではあるが。
しかし、彼女が何も言わない以上、解ける様な仕掛けがあるのかどうか、分からないのだ。
こちらに何度もちらちらと、視線を投げかけはするものの、黙したままの彼女は、例え問いかけても答えてくれそうにない。
頼りになるのは、背にずしりと重みを感じる、愛用の長剣しか無さそうである。
ただ、今は、道を切り開く覚悟を重ねよう。
「すまんがソレを、貸してくれないか」
深く溜息を吐き、意を決した彼が壊れたランタンを指差すと、彼女は黙ったまま、それをそっと差し出した。
【影と剣】