アンシエンラント創世記 4話
―――――封じられし者―――――
4章.休息―rest4―
そろそろ地上も近い。
人目を惹く美しい容姿を持つ娘が、地を滑る様に進むさまは、流石に人気の多い所では、あまりにも目立ち過ぎるだろう。
これ以上怪しまれても敵わないので、練習を始めさせたのだ――せめて浮かずに歩くようにと。
始めは立つ事も出来ず、何かに掴まってよたよたとしか歩けなかったが、練習の甲斐あってか、今はよろけずに歩ける様になった――正面から手を繋いでいれば、の話ではあるが。
「ハザ、足が痛くて、これ以上は歩けません。
我等が歩いて此処より先に向かうのは、大変な困難が伴うのではないかと」
手を放すと、その場にへたり込んだリムが、ハザの顔を見上げながら言った。
疲れてはいるようだが、茫洋とした澄まし顔に変化は無い。
今ひとつ、察し難い奴だと思いながらも、彼は言う。
「ああ、もう浮いてくれていい。
続きはここを、出られてからにする。
少し休憩してからだ」
そして、2人は思い思いの場所で座り、体を休める。
干し肉を齧り、水を飲み、甘いものが欲しくなって、鞄から取り出した、小さな果物の皮を剥いていると、座った姿勢で、少し浮いたリムの方から、声が掛かった。
「ハザは彼の者達とは違いますが――。
何か、願いは無いのですか?
お話下さるのなら、地表へ出てからになりますが、習わしに従って、我等が幾つか叶えても良いかと」
突然の問いに、ハザは少し時間を掛けて、自らの願いを想い起こす。
そして、軽く苦笑いをしつつ、こう答えた。
「地底から女を救い出したら、願いが叶えられたなど、何処の国の御伽噺だ?
願いか……確かにあるにはある。
しかしな、それはお前の怪しげな技で、どうにかなる様な代物じゃあない。
俺の剣は我流でな、きちんと学んだ技でないんだ。
だから、何時の日か――俺に勝る剣の使い手に出会えたら、そいつを師として教えを受け、正統な剣の技を身に着けたい。
済まないが、剣を扱えんお前に、到底叶えられるものでは……」
物心ついた時より、随分と各地を旅したが、未だに叶わぬ想いに、言葉尻が徐々に小さくなってゆく。
こればかりは、巡り会いに期待するしかないと言うのが、とても歯痒い。
目を細めて聞いていたリムは、彼の言葉が終えるのを待ち、そして1拍置いてから、話を始めた。
「それは、お力になれず残念ですが。
ハザのその願い、叶う事は無い、のではないでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、それはどういう意味だ、と言わんばかりに、ハザの頬が引き攣る。
瞬時に膨れ上がる怒りの気配に、彼女は何時も通りの、変わらぬ面持ちで言う。
「ハザ、どうか怒らないで――。
今1度、考えてもみて下さい。
貴方より強い御方が居た、その場合、貴方は剣で腕前を確かめようと、するのではないですか」
彼女がそう言ったには、きちんとした理由があるらしい。
それを悟った彼は、渋々若干怒りを抑え、やや歯を剥き出した様相で答える。
「勿論、受けて貰えるなら、雌雄を決するだろう。
戦う者として、当然の話だ」
「それは、思うのですが。
命の奪い合いに、とても近いもの、となるのではないでしょうか」
「まあ――、そうなるだろうな。
勝負事は可能な限り、シビアな方が良いに決まっている」
「はい、仰る通りでしたら――。
命の奪い合いの結果、何方かが斃れ伏している。
貴方が勝てば、恐らく、相手を打ち斃し、師とする者を得られないでしょう。
逆に、もし貴方が敗れたとしたら。
その時は貴方が、死を得る時だと思うのですよ。
結果として、そうなると思いませんか、ハザ。
それでは、やっと見つけた勝者に、どうやって貴方が師と仰ぐ事が出来るのか。
貴方が、その事に気が付いていない点。
我等には、それが不思議で仕方無いのです」
整然とした娘の考えを聞いたハザは、右手の掌を口に当てたまま項垂れ、暫し言葉を失う。
つい先程まで、爆発寸前だった怒りは、急速に萎んでゆくのが分かる。
暫くの沈黙の後、漸く絞り出された言葉、それは普段勝気な彼にしては、妙に弱々しいものであった。
「考えた事が無かった……」
だが、前提条件として、自分より弱い者に、頭を下げてまで師事を頼む心積りなど、毛頭無い。
そこは譲れないが、目的までにより一層多難な前途が、双肩に圧し掛かった気がする。
重くなるその心を知ってか知らずか、追撃するが如くリムが再び言葉を続けた。
「我等が此処に幽閉される前、剣を扱う強き者は、幾度か相見えました。
しかし、貴方程、剣を速く振れる者を、我等は知りません」
彼女が発するその言葉は、どのような意味を持っているというのか。
リムがどれ程昔の事に詳しいのかは、全く知らないが、彼は今を生きる人なのだ――昔の事を幾ら語られても、実感は沸いてこない。
それを聞いても、ハザは諦める気にはなれなかった。
衝撃から立ち直ったらしい彼は、更に話を続けようと口を開く娘に、軽く手を振る。
「もういい。
……不毛だ、話を変えよう。
お前が何と言おうと、俺は諦めん。
それよりも、地上に出たら、お前はどうしたいんだ?」
そう言いつつ、鞄から取り出した硬い果実の皮を剥くと、口の中に放り込む。
鼻につく蜜の様な香り、そしてねっとりとした甘さが、溶け出して舌先で踊った。
「我等は此処から出られませんから」
こりこりと、青年が果実を噛み潰す音を聞きながら、彼女は問いに答える。
出られないとは、どういう事だろう。
遺構の出入り口に、見えない壁がある訳でも無い、外に出ればそのまま、古の地を去れば良いだけだ。
「地上に出るまでは、閉じ込められている、と言えるかも知れないが。
今は自由に動けているんだ。
普通は、幽閉されているとは言わんだろう」
青年は顔を顰め、何を言っているんだ、と訝しみつつ言う。
確か、歪んだ遺跡で自身が錆びた剣を抜いてから、この女は自由になった、なれた筈。
ハザの言葉に、彼女は頭を振った。
「いいえ――。
我等は、幽閉されたまま、此処より出る事、叶いません。
もう、定着が始まって来ています。
恐らくは、ずっとこのままでしょう」
「分からん奴だな。
流石に地上に出れば、お前は閉じ込められている、とは誰も言わん。
俺がきちんと、外まで連れて行ってやる、と言っているんだ。
安心しろ」
日の下で暮らす者を、幽閉とは誰も言わず、そう捕えないであろう。
地の底の歪んだ遺跡の中に引っ込み、骨に囲まれて暮らすより、その方が良いに決まっている。
するとリムの整った顔立ちが、ゆっくりとハザの方を向く。
そして、彼女は不思議そうに言った。
「ハザ、時折ですが貴方は、良く分からない事を言いますね。
我等はずっと此処に、幽閉されたままですよ」
「お前こそ、おかしな事を言う奴だ。
さっぱり分からん。
リムの言うこことは、一体どこの事なんだ」
困惑をその表情に思いきり浮かべ、言葉を区切る様にして、ハザは聞き返す。
言いたい事は何となく分かる、だが――肝心の要点がさっぱり分からん、との意を込めて。
しかし、リムの方も理解が進まない様子で、ぼんやりと佇む。
「……、――?
今ひとつ、仰る事が良く分かりません。
どこにって、此処ですよ。
初めからそう、お伝えしているではありませんか。
貴方の目の前に、我等は幽閉されています」
少しの間を置いて、彼女はゆっくりと話し始める。
これで伝わって欲しい、という彼女の意志は、青年にも理解出来た。
しかし、その、目の前とは一体何を指しているのか?
どういう事かと訝しむハザの目の前には、リムが居る――。
彼の目には、年頃の美しい娘の姿が映っていた。
全く持って、信じ難い事柄なのだが、実はそう言う事、なのだろうか?
もう、何度そうしてきたのか、覚えていない――目を何度も瞬いた青年は、あんぐりと口を開け、ぽつりと漏らす様に言う。
「俺が今見ているお前の中に、お前が幽閉されていると。
――、……そう、……、……言いたいのか?」
地底で見たあの歪んだ遺跡に、幽閉されていた、のではない。
今目の前に居る、娘の体に閉じ込められたと、この摩訶不思議な事ばかり言う女は、そう言っているのだ。
だから、自身は幽閉から抜け出せた訳では無い、と。
本当に今ひとつ飲み込めない話だが、そこまで考えるとリムの方から、肯定の言葉が出て来る。
「はい。
仰る通りです」
相変わらず察しが良いのか、考えようとするその合間を、見事に選び抜いているかの様であった。
落ち着き払って答える彼女の返答に、ハザの声が重なる。
「リム、俺をからかっているんだろう?
流石にそんな、馬鹿な話があるか。
俺にはお前の言っている事が、どうにも理解出来ん」
「信じて下さい――。
ハザは我等に触れて、それを確かめた筈。
我等は、この身に起きた影響を受けるのです」
妙な技を振るい、変わった物言いをする性格を持つ以外、どう見ても、外観は只の娘。
その性格も、知恵者ならば、変わり者が多いと聞くし、彼が旅先で出会って来た知恵者は、どれも一筋縄ではいかぬ、普通とは言い難い妙な者が、多かった様に思う。
自身も偏屈な方だとは思うが、きっと、生来の変わり者なのだ、と彼は考える事とする――リムもきっとその類なのだ、と。
そしてまた、彼の胸中を察したのか彼女は言う。
「変わり者ですか――。
我等は人ではありませんから。
人から見れば確かにそう、なのかも知れません。
しかし、この大地で変わっているのは、何も我等だけでは無いのです」
「……何が、変わっているんだ」
彼女が変わっていると云う、その存在とは――。
その存在にハザは興味を惹かれ、続きを促す。
話を聞いても、理解出来るとは到底思えないが、青年はその続きを促すと、リムは形の良い口を小さく開き、続きを話し始める。
澄んだ声は、緩やかに吹く風に混ざる事無く、聞き手である彼へと届けられた。
「そうですね――。
変わっているのですよ、変えられた、と云うべきでしょうか。
我等が世を訪れ調べていると、この大地には何もなかったと思しき点を、有していたのです。
ある時期を境に、突然何かしらの変化が起きた跡が、幾つも見付かりました。
それは多くの時間を掛けなければ、起きないと思われる変化です。
突然の変化が、徐々に広がっていく所までは、調べていたのですが。
その変化が起き始めた場所には、似たような形の遺構が、必ずあるのですよ。
まるで――」
何だ、何の事を話しているんだ、こいつは?
唐突に始まった、予想通り理解出来そうもない話を、更に続けようとするリムに対し、ハザは片手を挙げて制し、その様子に気付いた彼女は、すぐに話を止め、彼の方を窺う。
静かになると、渋い顔を崩さない青年は、自身の考えを口に上らせる。
「まるで雲を掴むような話だ。
知恵者でない俺には、さっぱり分からん。
ああ、そうだな――もういい、要約して話してくれ」
「つまり、この世に何者かが手を加え、生きた者が棲める大地に、なったのではないかと。
状況を鑑みて、我等はその様に、考えております」
彼が言い終えるや否や、間髪入れずに話し出すリム。
その様子はまるで、ハザの話を引き継ぐかの如きそして、言いたい事を分かっているかの様な、絶妙のタイミングだった。
しかし、それを聞いても彼は、あまり関心が無さそうに答える。
「……そうか。
世の中には、妙な出来事もあるんだな」
「あまり驚かなくなりましたね」
続く声に、ハザは思わず唸り、考え込む。
もしかして、俺が驚くのを期待していたのか?
あそこでお前に会ってから、どれだけ経ったと思っている。
俺が知らんだけで、お前が識っている事だって、数多くあるだろうからな。
そろそろ慣れもするさ。
しかし、リム、お前は本当に突拍子も無い話をする。
年寄りが知る様な、言い伝えにも残っていない様な事は、流石に分からん。
そいつ等が訪れる前は、どんな大地だったと言うんだ。
「それは――。
分かりません。
我等が魔の力を探し、この大地を見付けた時、既に生きた者が居ましたので。
彼の者達は、この大地に満たされた魔の力までは、気付かなかったようですが」
リムの言うそいつ等が、大地で何をしていたかは知らんが、お前に理解出来んのなら、俺にも出来ん。
そもそも、なぜそこまで分かる。
分かるなら、代わりが出来るんじゃあないのか。
「……代わりなど、到底務まりませんよ。
跡地には沢山の、小さな石がありました――。
その石は、細かな紋様が入った石です。
……大変に目の細かな紋様を、小さく薄い石に縫い付け、幾重にも幾重にも織り重ね、ひとつに束ねて。
驚くべき事に、その紋様ひと筋ひと筋が、何かの通り道なのです、まるで水が流れる川の様に。
彼の者達は、恐るべき技術を用いて、その不思議な小石を幾つも造り、巧みに使い、大地を変えていった様なのです。
残念乍ら――。
何の為に、そんな事をしたのか、までは分からないままですね。
我等の手では、その小石を造れず、その方法も試す事が出来ませんでした。
それは、大地に変化を与えた者と我等は、まるで扱う術が違う、という事に他なりません。
ですから、我等は決して、その代わりを務める事が出来ないのですよ」
これまた珍しく、声のトーンを落とす美しい娘。
だが、聞いている彼の側からすれば、実によく分からない、遠い遠い国の事を語られている、その様に感じる話でしかなかった。
しかもリムの話している事は、知る者も恐らく居ないであろう、遥か遠い昔の話の事である。
古の地と呼ばれる土地に、棲み処が残っているだけで、伝承にも残っていない古の民。
それが栄えたよりも、時代をもっと遡る、という事を言っているとしたならば。
一体どれ程昔の事を言っているのか、彼には見当もつかない。
これこそ本当に、何処かの国の御伽噺ではないか。
また頭の痛い話をする。
ハザは自然とこめかみに手を当てると、リム――表情に乏しい彼女は、おくびもせずに答えた。
「すみません。
薬は手持ちがありませんので、頭が痛い事は、今の我等には、どうしようもありません」
正直な所を言うと、薬の問題では無いと思うが、もしそれがあれば、どうにかなるのだろうか。
それから、1つ確信出来る事がある――さっきから俺は一言も話してない。
「リム、お前やっぱり、心が読めてるな」
「……心など読めませんよ。
もし、本当に読めているなら、我等が此処に幽閉される筈が、ありませんから」
しかし珍しい事に、僅かに表情を曇らせつつ、彼女は言った。
心を読んだ事を否定する回答の内容は、以前とほぼ変わりが無い――が、先程言っていた内容を鑑みるに、彼女の言う此処とは、ややこしいが、リムのその体の事を指すのだろう。
その様子を窺った彼は、如何ともし難い面持ちを浮かべ、ひと言口に上らせる。
「……独り言だ、気にするな。
少し休む」
「はい。
どうぞごゆっくり、お休みください」
気持ちを切り替えたのか、元の顔付きに戻った彼女が言い終えると同時に、壊れて火が着かなくなったランタン、に灯る不思議な輝きが、見る見るうちに萎み、薄らと消えてゆく。
そして辺りは、物音ひとつしない、静かな空間を取り戻す。
闇の中、吹き抜ける風を感じつつも、ハザは横になり、眠りに就いた。
呼んでいる――。
呼んでいる――。
呼んでいる――。
誰だ?
俺を呼ぶのは。
ここは、何処だ――?
意識が闇に飲まれ、どの位の時間が経ったのだろう。
暫くすると、暗がりの奥から、何かが聴こえて来る。
それは、大きな流れの中を揺蕩う、小枝の心を奏で。
それは、自らの群れを離れ彷徨う、野獣の心を奏で。
それは、遥か遠く続く道を流離う、旅人の心を奏で。
色とりどりの調べが、辺り一面に満たされているのが視えた。
これは何だ――?
音――果てしなく、向こうまで伸びてゆく、音の、繋がり――。
今までは楽曲になぞ、まるで関心は無かったが、それらが此処まで美しいとは、知らなかった。
人々が、小鳥達が、囀る様に歌い合う理由、やっと分かった気がする。
もっと、聴いていたい。
もっと、触れていたい。
もっと、感じていたい。
誰だ? 誰だ? 誰だ? お前は――誰なんだ?
俺にもっと、その美しい歌声を聴かせてくれ――。
敵です
ハザ 起きて下さい
呼んでいる――。
呼んでいる――呼んでいる――呼んでいる――彼女が。
どうした? 聴かせてくれないのか?
もっと、歌を――。
続く呼びかけに、答えようとしたつもりだったが、喉を通る掠れた声は、言葉にならなかった。
それでも、暗がりから彼女は言葉を紡ぐ。
ハザ ハザ
起きて下さい 起きて下さい 起きて下さい
短いが、心が澄み渡ってゆく様な、美しい旋律が聴こえる。
言葉ではない韻律が、耳朶の奥へと染み渡ると共に、それらの意味を解する、実に不思議な感覚。
起きなければ――そうだ、起きなければ。
ハザはすぐに微睡の中から、引き上げられてゆくのを感じ、瞼を開く。
【清音の奔流】