2020年1月27日月曜日

ブログ小説 縁切徹 第一話 揉め事探し(4)

【ブログ小説】

R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

揉め事探し(4)



――――――――(1)――――――――



一行の首領である大男が、ある時この町訪れた。
偶々立ち寄ったこの飯屋を営む娘を一目で気に入り、執拗に迫る。
だが、娘には大男の要求に応えられない理由があった。
なかなか靡かず、業を煮やした男は一行を使い、店に嫌がらせを行う。
客足は遠のき、残ったのは店と、娘の婚約者たる青年だけであった。

そして、今。
店に押しかけた大男の手下が暴れ。
話を聞いていた青年が娘を庇いに飛び出し、怪我をする。
そういう事、なのだろう。
この界隈ではどこかで聞く様な、よくある話だ。

街には自警組織もあるにはあったが、数が少なく、勢力も弱い。
地区によっては対応が後手に回り、もっと酷い所もあるが。
一応の話を通してはいても、全ては支度が出来次第、任せておけば対応はもっと遅くなるだろう。
とうの昔に我慢の限度は超えている。
結局は、力無き者であっても自らの身は、自ら守るしかないのか。
「貴女の言う縁というものが、どんなものか分からない。
でも、僕はもう、これ以上君が傷付くのを見ていられないんだッ!
……お金は、お金なら僕が何とかして払います。
お願いだ、あいつらを!
あいつらを、この店に二度と近付けない様にしてくれッ!」
打たれて痣の出来た頬。
口中を切ったのか、乾いた赤い筋が口端から見えている。
くにゃりとあり得ぬ方角へ折れ曲がった右腕を、左手で押さえ横になった青年は、苦しそうに語った。

―――――――お前様も それで良うございやすかい?

静かなカヤの言葉が、雨音に紛れて響く。
項垂れた飯屋の娘は顔を上げ、改めて辺りを見渡す。
ひっくり返され倒れた机、折れ砕けた椅子、傷だらけで穴の開いた壁や床が視界に入った。
何も、ここまで酷い事をする必要があったのだろうか。
「……彼の。
――彼の、言う通りにして下さい」
惨状に涙を湛え、あれを何とか出来るなら、と、藁にも縋る思いで娘は重く口を開く。
青年は頷き、カヤの方をじっと見つめる。
この銀の髪を持つ娘が、腕前の披露にと床の上に突如咲かせた、小さな独楽の華。
彼は、そして彼女は、この妙技を持つ銀の髪の娘に賭けてみる事にした。

エルヴンの女が要求した仕事料は、時間を掛ければ何時かは払える額ではあったが、今すぐの支払いとなると、まるで手が届かない。
青年は全て払うのは待って欲しいと言い、手付金として一割程の銭を支払う。
彼は、お願いします、という呻きを何度も口にしながら意識を失った。
話を聞き終えると立ち上がり、朱塗りの鞘を軽く握りつつ、戸口の方へと向かうカヤ。
これから片を付けに行くのだろう。
しかし、まるで散歩にでも出掛けるような、その軽易な雰囲気を崩さぬ足取りと背中は、荒事に縁の無い娘から見ても、あまりにも軽々しい様に映った。
その背筋を改めて見たが、自分と左程変わらぬ歳の頃の様にしか見えず、その可憐な姿は、美しく寸断された独楽を見ていなければ、狼藉者を何とかすると言われても、到底信じられるものではない。
軋む戸を押し開けながら、カヤは娘に微笑みを向け語り掛ける。

―――――――明後日 銭を受け取りに参ぇりやす へい

飯屋の娘は、目を瞬き、何度も擦った。
戸口を潜り出るその一瞬、姿が揺らめいた気がしたが、気のせいだろうか?
すぐに、玄関が控え目になった雨音と共に閉じ、銀の髪の娘の姿は見えなくなる。
……何だったのだろう。
思えば、荒くれの一人があの人の笠を掴んだ時、突然表情が強張り、凍り付いて……。
青年を相手取った男達は、暴れる事に夢中で、彼女に気付いていないようだった。
もしかしたら、本当に荒事に慣れているのかもしれない。
そのままふらりと出て行って、何故かまた戻ってきて。
彼女は、実は、揉め事を探していたのだろうか?
――それも、私達のような。
厄介事を捜し歩くなんて、真っ当な商売を営む者にとっては、到底正気の沙汰ではない。
しかし、思えばその妙な習性のお陰で、彼女がこの店にやって来たのは、ある意味僥倖であったのかもしれないが。
これで自分達は何とかなるかもしれないのだが、それにはお金が――?
そうだ、お金を用意しないと。
娘はそこで思い悩むのを止めると、婚約者の青年を診療所に預け、簡単な修繕を行うと、明日の為に床に就く。



朝も早くから店を開け、陽が暮れるまで客引きを働いたが、成果は芳しくない。
だが、一縷の望みが消えた訳では無かった。
娘の客引きを知り、恐る恐るではあるが、知り合いや友達も様子を見に訪れてくれる。
それでも、暗雲垂れ込めるような不安は拭える訳ではなかったが。
噂を知らなければ客は来てくれたし、味にも満足してくれた。

そして夜が訪れ、人通りが少なくなったところで後を片付け、戸締りをする。
最近は連日の様に嫌がらせを続けてきた荒くれが、今日は未だ姿を見せていない。
明日は来るかもしれないので、安心はできなかったが。
結局店を閉める時間になっても、荒くれ者達は現れなかった。
都合が悪くて、今日は、来れないのかも。
そう思うと、幾分と気が楽になる。
彼女は、気を取り直すと店中のお金をかき集め、銀の髪の娘への謝礼を数え始めた。

昨夜のエルヴンの女は、個人を雇うには高い。
高過ぎる金額と言って良いが、荒くれ者と戦える様な戦力を持つ、一党一家を雇うとなると、とても彼女が掲示した額では済まないだろう。
銀の髪の娘も恐らくは、エルヴン達が自らを渡世人と呼ぶ、冒険者だ。
何とかして工面しなければ。
もし、もしも、支払いが滞れば、次は彼女が……。
赤い鞘から迸る閃光が、自分達に向けられる。
そんな。
あの穏やかな笑みの彼女が、まさかとは思うが。
恐ろしい想像が一瞬、脳裏を過ぎ、背筋を冷たいものが走る。

――私はいい。
――でも。
彼には、これ以上――。

思い悩んだ飯屋の娘は、青年との生活を夢見て、密かに貯めていたお金を持ち出す事にした。
厨房の奥、肉や菜を付け置く壺、水瓶の隙間に置かれている、小さな木箱。
壺や瓶は長い間使っており、年季が入って汚れて来ていたが、木箱の方は定期的に触れている所為か、目立った汚れは少ない。
貯め始めた頃は、こんな事に使う事になるなんて、思ってもみなかった。
しかし、かき集めたお金が、朱塗りの鞘を腰に差すエルヴンの女が言う額に足りてない為、出さない訳にはいかないだろう。
仮にも冒険者に後始末を頼んだ以上は、支払が遅れれば何をされるか分からないのだ。
でも、こんな事の為に、頑張ってきたんじゃないのに。
痛々しいまでの尖った思いが、境遇に対しての不満が、大粒の涙となって、ぽろぽろと頬を流れ落ちる。
両手で顔を覆い、一頻り泣き伏せた彼女は、隠していた木箱に手を掛けた。

――開けてしまえば。
これを、開けてしまえば。
心待ちにしていた彼との生活の始まりや、挙式の日も、今よりもずっと、ずっと遠い所へ飛び去ってしまうだろう。
もしかすると、もう二度と手の届かない所へと。

お金は、また貯めればいい。
――彼が無事なら、きっと、きっとまた貯められる筈。

それよりも何よりも、彼の帰ってくる場所を、手放したくない。
その一心で彼女はそう何度も念じ、箱を開ける。
これだけは来るべき日の為に、決して手にすまい、と固く誓っていた金貨を、赤子を扱うような手つきで丁寧に、そっと取り出す。

陽気な日差しが踊る日、店に彼は訪れる。
あの頃はまだ、何もかもが淡く、薄く、儚げなものだったのに。
気が付けば、自然と目で追うようになっていて。
彼が居ない時は、窓の外へと何度も視線を向けていた。

仕事を終えた彼が店へとやってきた、熱い陽射しが印象的なあの日。
拭く物と、冷たい水を慌てて差し出した。
お礼を言う彼の笑顔が眩しい。
胸に焼き付く、とはこの事を言うのだろうか。

買い出しの帰り、偶然彼と出会う。
二人きり、落ちる葉を眺めながら歩く道で、そっと手を差し出した。
気付いた彼は、はにかみながらもそっと、握り返してくれる。
何よりも、拒まれなかった事が嬉しかった。

そして何時の日か、休みの日には一つの部屋、暖炉の前で共に過ごすようになり。
寒がりの彼の為に暖かい飲み物と毛布を用意する、何気ない日々。
他愛ない話で笑い合うと、いつの間にか陽が暮れていた。
お互いの気持ちを確かめ合うまでは、もう暫くかかってしまったが。

あれからも過ごした、少々気恥ずかしくも、もどかしい時間を重ねて。
それもまた、何時の日か良い思い出に変わってゆく筈であった。
しかし、密かに願っていたささやかな日々は、今はもう遥か遠く。
何時か叶うと信じて来た想いが、まるで走馬灯のように駆け巡り、尽きた筈の涙が、再び溢れ出す。
娘は夜が白むまで、人知れず静かに嗚咽を漏らしていた――。



――――――――(2)――――――――



その夜、町外れの廃屋に集う荒くれ共の前に、奇妙な女が現れた。
五人の荒くれ男達が一堂に集い、雨の夜のこの屋根の下で、飲み明かしている。
息をする価値も無いと感じられる程の、余りにも代わり映えのない退屈な日常から逃げるように、そこいらの茶飲み話より他愛のない、下品な会話に熱を上げる男達。
ふと会話が途切れたその時、ゆらり、と燭台に灯した炎が揺れる――が、その事に気付いた者は誰も居ない。

―――――――申し申し 御免くだせえ

ぽつぽつと入り口で何かを叩く様な音が響く。
最初は気のせいかと思っていたが、確かに何かしら、雨以外の音がする。
外に誰か、居るのだろうか。
「な、何だ?
誰だ!
誰か、そこにいるのか!?」
幾度目かの音に気付いた一人が声を上げ、誰何を問う。
すると、きぃ、と軋む戸が開き。
……薄闇の影より娘がふらり、と姿を現す。
それは、まるで闇から沁み出てきたかの様であった。
いつの間にかそこに立っていた様な娘に、一同の視線が同時に、入り口へと集まる。

突然の艶やかな銀の髪を持つ、美しい娘の登場に、皆暫く呆然としていたが、やがて円卓に座る五人の内二人程立ち上がり、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべつつ、銀の髪の娘へと近づく。
「おいおい、お嬢ちゃん。
ここが何処だか分かってんのかぁ?
何しに来たんだよ」
女、女だ!
これは良い退屈凌ぎが出来るぞ、と内心喜びつつも近づく男は、彼女も、同じように笑みを浮かべている事に気が付いた。
くすくす、くすくすと、鈴が鳴る様に軽快で、どこか含んだような、小さな、小さな笑いが屋内に満ちてゆく。
口元に手を当てひっそりと笑いながら、穏やかだが、若干の肌寒さを感じさせる風の様な声で、娘は疑問に答える。

―――――――へい あっしは名乗る程の者じゃ ございやせんが
―――――お前様方と現世の縁 今宵断ちに参ぇりやした者でさ

突然縁を切る、などと意味の分からない事をのたまう女。
当然だが、この場に居る者達の目は丸くなる。
何を言っているんだ、とでも言いたげに男は辺りを見渡し、仲間の反応を探ったが、誰も反応が無い。
どうやらこの女を誰も呼んでおらず、見覚えも無い様子が見て取れた。
ふと隣を見ると、己の頭を指さした男が、小首を傾げてこちらを見ている。
「エン――、だあ?
何ほざいてやがるッ!
あ?
酌も出来ねえ女にゃ用はねえって言ってんだョォ!
聞こえてんなら、今すぐ帰りな!」
きっと、気の振れた女が偶然、迷い込んできたに違いない。
相手にするのも面倒臭え、脅せばすぐにでも踵を返すだろう。
そう思う事にした男は、声色を低く保ち、凄みを利かせた荒い言葉を投げかけ、追い払おうとする――しかし、娘の反応は、予想とは違うものだった。

―――――――ふふ どうせお暇で御座いやしょう
―――――どうせなら ちょっくら あっしと遊んでおくんなせえまし
―――何ぁに 大ぇしたお手間は 取らせやせんぜ

言いながらするり、と長脇差を抜く。
鋼の色を見慣れている荒くれ男達は、それで漸く理解した。
ほぉん、今日の獲物はこいつか、と益々笑みが深くなる――この女はまだ若く、美しい。
二日か三日、いやそうだな、保つなら、十日程は楽しめるだろう。
俺達を相手に保つなら、だが。
何しに来たかは知らんが、自分から飛び込んできやがったんだ、遠慮など要らん――そして、様々な男共のその心情を知ってか知らずか、その美しい風貌に同じく笑みを満たせた娘が、刃を手に足を踏み出す。

一人。
――いや、二人。
薄闇の中、腰を落として愛用の獲物を構えんとする者達。
その喉元を一陣の、白銀に輝く閃光が駆け抜け――。
突然瞳に力を失った者達は、声も無く重なり合うように頽れた。
屋内を漂う酒の香りに、戦場で嗅ぎ慣れた生臭い匂いが立ち昇り、その特徴的な臭いがつんと鼻を突く。
二人の体は、もう動かない。
声を掛けるまでも無い事を、残った彼等はすぐに理解した。
唐突に起きた出来事に、手慣れた者である筈の男達も、面食らった面持ちで出迎える羽目になる。
酒に酔い、赤ら顔で立ち上がろうとする男達。

瞬く間に二つの命を奪った刃の切先は、続いて、椅子に腰かけた大男の方へと向きを移す。
傍らには両手で扱う、大きな斧が立て掛けられており、男は斧の柄を片手で掴み、仲間が二人、斬り倒される様を、楽しそうに酒を煽り眺めていた。
迫る死の気配に向き合うと杯を投げ捨て、自慢の大斧を頭上高く軽々と振り上げると、軽く鼻を鳴らし一捻りだ、とばかりに迎え撃つように立つ。
だが、その間境を素早く駆け抜ける娘。
気が付いた頃には、もう既に喉を刺し貫いており、男はその巨体を大きく震わせた。
ぐう、と耳元で自分ではない、誰かが呻くような声が自身の喉から飛び出る。
勢いよく振り上げた腕が、だらんと力なく垂れ下がり、力無く膝をつく。
背後で手を離れた斧が圧し掛かり、押し潰され砕けゆく机が、その断末魔の叫びを大きく廃屋の中へと響かせ――それから少し遅れ、乗せられていた皿や酒の肴が、へし折れた木屑の上に散り積もった。
年端も往かぬ小娘に、この俺がまさか――まさか、こんな。
喉元からびゅうびゅうと、急速に意識が流れ出る感覚。
驚愕の面持ちで目を見開き、思わず押さえた手から、その指の間から、命の源が溢れ返り、床に大きな染みを広げてゆく。
両膝を付き、自らの首を絞めるかのように、両手で喉を抱えた姿勢のまま、巨大な斧を振るおうとした男は絶命した。

そして、振り向きざまに返す刃でもう一太刀。
左肩から右腰にかけて斜めに、まるで何も無かったように剣先が通り抜け。
ひらりと舞うかのようなその一撃は、背後から打ちかかろうとしていた男を、一刀の下に斬り伏せた。
いざ抜かんとばかりに、収まった剣の柄を握った腕が、半ば程で寸断され、ぼとりと落ちる。
男が斃れた後、身に着けていた鎖帷子がぱちん、ぷちりと奇妙な音を上げ始め、うつ伏せた体の向こうで、傷口に沿って編まれた鉄が裂けてゆき、ねっとりと床を濡す赤黒い染みの広がりと共に、呻き声も小さくなってゆく。
やがて、もごもごと開こうとしていた口の動きも止まった。
そしてたちまちの内に場を静寂が支配する――。
これで銀の髪の娘を残して、動く者は全て居なくなってしまったのだろうか。

否。
がたり、と奥で何かが動く気配。

もう一人。
入りきらぬ小さな物陰に体を押し込め、隠れたつもりの、様子を窺う男が居た。
残りは店で暴れ、青年に怪我を負わせた者であろう。
じり、草鞋がと床を擦り、振り向く音。
屋内で風もないのに揺れる燭台の明かりに照らされ、手にした刃がちろりと鋼の色に煌めき――血の匂い、漂う死臭の中で唯独り動く、片手で菅笠を上げた彼女の紅い双眸が、隠れて怯えた男をまるで追うように射貫いている。
鋭い視線に慌ててその辺りの物を手当たり次第に掻き回し、更に隠れる所が無いかを探す。
しかし、大きな図体を隠すには程遠い、盆や皿が散らばる音が、空しく響き渡るだけであった。
気が付けば、振り上げた刃を手にした娘が、己を見下ろしている。
――もう、終わりなのか。
も、ももも、もしかして、風邪を引いたとか言って帰った、あいつが言ってたエルヴンの女ってのは。
まままままさか、こいつの――?
跳ね上がる心の臓、冷たい汗が脇と頬をしとどに伝い、表情と、心が凍り付いてゆく。
もう引き返せない途を自ら選んでしまっていた事を、男は肌で理解した。
越えてはならぬ間境を、踏み越えてしまった事を。
「ひっ、いいいい!
や、やややめろ!
頼む、止めてくれえっ」
観念し最後の足掻きとばかりに喚く男の耳に、しんしんと積もりゆく雪空を、深く潜り抜けた強い風を思わせる、凍えた声が届く。

―――――――お前様 卒爾乍ら御壱つ お尋ね致しやすが
―――――お前様は止めろと言われて 止めた事が御座いやしたかい?

吹き荒ぶ嵐を思わせる、厳しく問う娘の言葉。
果たして、その事が何なのかを思い起こす時間があったかどうか。
次の言葉を発する間も無く、縮こまる様に盆を頭上へと構えた男は、頭蓋を断ち割られ、物言わぬ屍と化した。
後には、炎の揺れが収まった燭台達が、こうこうと屍を照らし出している。



廃屋の中に居た、全ての命の灯火が絶えた事を見届けたカヤ。
懐から紙を取り出し、長脇差に付いた血糊を拭き上げると、朱塗りの鞘に仕舞う。
ねっとりとした染みを含んだ紙がひとつ、ひらりと床に落ちた。
斃れた者達に一瞥もくれず、戸口へと向かい外に出た銀の髪の娘は、来た時と同じように、影に染み入る様に姿を消す。
そして、夜闇は元の静寂を取り戻し、ただ交わる風と雨の音だけが辺りを賑わしている。



――――――――(3)――――――――



約束の日から何度か昼夜が入れ替わったが、あの日のエルヴンの女は現れない。
何かあったのだろうか?
しかし、心配はすれども、向こうから音沙汰が無いのでは、単なる飯屋の娘である自分には、どうしようもない事だ。
唯、狼藉を働く男達の足取りは、不思議とあの日から、ぱったりと途絶えている。
それだけが、不幸中の幸いといっても差し支えない。
事情を知った知人や友人達が、店を手伝いに来てくれる話もしてくれた。
町外れの廃屋で、冒険者一行が死んでいた噂も流れていたし、皆非日常を愉しむかの如く、その件の様々な噂話に興じている。
――まさか、彼女が……?
もし、もしもそうなら、奴等に壊されてしまった平穏な世界は、これから元通りの日常へと修復されていく事だろう。

怪我をした彼は治療を頼んだが、治療費は随分と嵩みそうだ。
店の方は簡単な処置だが、まだどうにか回していける。
でも、彼だけは早く何とかしてあげたい。
帝国金貨が、あと幾枚か在れば楽になるだろう、在れば、の話だが――。
金が足りない以上、少しでも稼ぐ為に店を続けない訳にはいかず、料理の仕込みを続けているのだが、狼藉者のお陰ですっかり評判の落ちてしまった今、恐らくは今日も客は来ないだろう。
朝から酷い雨が降っている。
天候の様に、もうずっと晴れぬ気を引きずりつつも、娘は支度を続けてゆく。

―――――――申し申し 御免くだせえ

料理の仕込みがそろそろ終わろうかという時、来客があった。
店を開ける時間には、まだ早過ぎるし、こんな時間に誰だろう。
さっきから聞こえるこの音は、一体、何の音なのだろうか?
それに、何だか、聞き覚えのある声も聴こえる気がする。
飯屋の娘は首を傾げ、不定期的にぽつぽつと鳴る店の玄関へと向かう。
「あ、……、貴女は……ッ」
立て掛けていた鍵代わりの突っ張り棒を外し、戸を開くと、濡れた菅笠を被った女が立っている。
右手で笠を上げて目を合わせ、軽く会釈をすると、カヤは店の中へと歩を進めた。



店内は粗方片付けが終わっており、数は減ったが、腰掛けと机が配置し直してあった。
あの日とは違い、椅子に腰かけて話を進める。
遅くなった理由として、鼻の利く犬っころを撒いていた、と彼女は云う。
いぬっころ、とは何を指しているのかは分からなかったが、この件で彼女を追う者――恐らくは、この街の治安維持を担う自警団に怪しまれるか、追われるかなどして、身を隠していたのかもしれない。
雨に濡れ、艶やかさをいや増した銀の髪を、手拭いで拭きつつ、エルヴンの女は話を続けた。

―――――――この店と輩共の御縁 確と 断ち斬って参ぇりやしたぜ へい

この店に狼藉を働く者は居ない。
少なくとも暫くの間は寄り付かない筈だ、と。
もう、あんな思いをせずに済むと、娘は胸の痞えが降りた気がした。
これからは腕の良い用心棒をお雇いなせえ、と言うと、銀の髪の娘は水を飲み、口を湿らせて話を終える。
そして、お約束の銭を頂戴しに参えりやした、と、ここを訪れた目的を口に上らせた。
事情を説明し、約束のお金が少し足りませんと、飯屋の娘が詫びると、エルヴンの女は数えるから直ぐ持って来てほしいと笑う。
叱られ反省する子供の様な面持ちで、飯屋の娘は店中からかき集め、また貸してくれる所から借り、それでも足りない分を、あの人と一緒に暮らす時の為にと、貯めておいた金を取り崩してまで、用意した金を尖った耳の娘の前に並べる。
美しい彫刻が施された小さな棒、帝国の貨幣が合わせて半数程。
これらは見る角度次第で様々な色に変わる、不思議な色味を放つ。
それから、辺境の支払によく使われる通貨で一番額の大きなものが三分の一程を占める。
他、大小様々な貨幣が、所狭しと並べられた。

―――――――こいつぁ 未だ払ってねえ あの日の飯代でございやして

彼女は積まれた金を一瞥し、ろくに数えもせぬままに、腰の提げ物から、黄金色に輝く貨幣を一枚取り出し――、無造作に置く。
提供出来る食事の内容と到底釣り合わぬ、その特徴的な楕円形の貨幣が突然飛び出し、それをぼんやりと眺めつつも、何を言っているのか、といった面持ちでうら若き娘の瞳が丸くなる。
勿論ながら、この店の食事の値段を鑑みるに、釣り銭は小銭が山と用意される事だろう。
子供の頃から商いの手伝いをしているが、この額面のお金はそもそもこの辺り、辺境の庶民の間で使う者などほぼ居らず、取引が多い店でも一周期に一度見られれば良い方の物だ。
飯屋の娘も見聞きしてはいたが、支払に差し出された事は一度もない。
それを知ってか知らずか、目の前に居る銀の髪の娘は、にこやかにもう一つの金貨を取り出し、用意した報酬の中に重ねてしまう。
エルヴン金貨を二枚も見た飯屋の娘の目は、益々丸くなった。

―――――――それから こっちぁ今からお頼み致しやす 飯と汁の分でさ
―――――ほうら これで足りちまったじゃございやせんか ねぇ

さも愉し気に、彼女は更に言葉を重ねた。
これの何が面白いのか、手の甲を口元に当て、くすくすと笑う銀の髪の娘。
一頻り笑い、呆気に取られている飯屋の娘を尻目に、カヤはがさがさと積み上げた銭を巾着袋に放り込む。
高すぎる金額である事を伝えたが――他所の店にも何時も払っている金額だから公平だし、構わない旨を告げられ、彼女は娘に食事の支度を急かすだけだ。
何度も礼を言い、厨房に戻り注文された料理の用意をする。
せめて、食事だけでも気持ちを込めて作らねばならない、そんな想いが胸中を占めていた。

やや時間が掛かって到着した一皿の料理。
それは、薄皮で何かを包み、茹でたものが、幾つか皿の上に載っている。
薄く膨らんだ包みの上に、とろみの付いた汁を垂らしたものだ。
魚の骨をじっくりと煮込んだのだろうか、癖は強いが、甘味を含んだような上品な香りが、ふわりと漂う。
ほこほこと湯気を上げるそれを匙で掬って口に運び、噛み締める。
皮の中には、薄く味を付け炒めた米飯に、小さな肉と菜の欠片が詰まっていた。
何よりも歯応えと舌触り、そして程よい温度の、出汁の効いた汁が良く絡み合う。
一つ、包みと汁の味見をする様に、慎重にゆっくりと咀嚼していた彼女は、味が気に入ったのか微笑み、一つ、もう一つと遠慮無く掬い、口に運ぶという、非常に単純な作業を夢中で繰り返す。
品書きには無い品だが、気に入って貰えたようだ。
本来なら食べ終えるまで給仕すべきかもしれないし、もう少し眺めていたかったが、店に客足を戻す事も考えなくてはならない。
やらねばならぬ物事、片付けねばならない仕事は山とあったし、腕の立つらしい彼女には毎日でも来て欲しい所だが、この客はいずれ街を離れる事だろう。
時折、座席まで様子を見に来れば問題は無い筈。
そう思うと、カヤが満足そうに頷いたのを密かに盗み見た、飯屋の娘は内心嬉しそう表情で、厨房の雑用を片付けに戻る。

―――――――御馳走になりやして あっしは そろそろお暇致しやす
―――――お前様方も 達者で暮らしておくんなせえ

寂たる刻が過ぎ行く店内では、食器と匙の触れ合う音、そして水事の音だけが静かな協演を繰り広げていた。
何時の間にか、幾許かの時間が過ぎ去り、片付けも一段落しようかという頃。
ふと、物音がした気がして食堂の方を覗くと、机上に空の食器が置かれているのが目に映る。
彼女が食べていた席に間違いない。
席には誰も座っておらず、もう彼女は出て行ってしまったようだ。
一声位掛けてくれてもいいのに――。
そんな一抹の寂しさと共に片付けに向かうと、食べ終えて空になった食器の隣には、先程まで恩人に散々見せつけられた、黄金色の鈍い輝きが一つ、置かれている事に気が付く。
思わず振り向いた店の出入り口。
頭に被った笠を右手で少し掲げた銀髪の女が立ち、優し気な目元に揶揄うような笑みを浮かべている。

―――――――ふふ そいつぁあっしから お前様方へ祝言の祝い金でさ

その声は、雪解け水を運んでくる暖かい、澄んだ風を思わせた。
貨幣を握り締めたまま、外へと消えたエルヴンの女を追いかけ、まだ居る筈の大通りを何度も見渡したが、何処へ行ったのか、不思議と彼女の姿は無い。
通りを行く人に声を掛け、尋ね歩く。
数少ないエルヴンの旅人にも幾人か巡り合ったが、彼女では無かった。
一体どれ程の間、大通りを捜し歩いたのだろうか――。
探すのを諦め店に戻ると、ゆっくりと自身の手を開いてゆく。
掌の上には、鈍く輝く塊の感触は、夢などではなく、確かにそこに在った。

「ああ!
――ッ、神様!」

贈られた金貨を胸に抱き寄せるようにして、その場で屈み込む飯屋の娘。
自然と溢れた涙が頬を伝う。

何時の間にか雨は上がり、雲の晴れ間から柔らかい陽差しが顔を覗かせていた。