2020年2月10日月曜日

ブログ小説 縁切徹 第二話 ぼるけいの(1)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

ぼるけいの(1)



――――――――(1)――――――――



再び街道を抜け、エルヴン族の娘は長脇差の手入れが出来る店を探していた。
町に近づいてきた証か、通りを行き交う者が心なしか増えて来る、町の外れのような風体の景色に差し掛かる。
時折見える建物に、平たい屋根が散見されるのだが、雨の時はどうしているのだろう。
よくよく目を凝らすと、微妙に角度が付けてある様子が見て取れたが、建築に詳しくない彼女は、何故屋根がその形状なのかまでは、思い当たる事は出来なかった。

道の向こうには、幾つかの建物と屋根が見える。
目的の地区に辿り着き、お目当ての店が無いか探す。
この辺りには数多くの店、特に職人が多く集う地区である様だ。
夜が明けたばかりで、住民はおろか旅の者までも少ないのか、道端に露天商を見掛けず、周囲には幾つか似たような店があったが、カヤは隅にある萎びた店を選ぶ。
武具の店、という看板だけを隅に掲げており、価格や売り等の表記は一切無い。
良く言えば質実剛健を志し、華美な装飾や美辞麗句を、可能な限り排除したとも言えるが――悪く言えば質素で、飾り気の無い物である。
しかも間の悪い事に、その素朴さは、飾る気が無いという意志が剥き出しだ。
客を呼びたいなら、もう少し愛想良く着飾る事を考えても、罰は当たらないだろう。
一体全体、風采の上がらない店の何が気に入ったのか。
その貧相な入り口に声を掛け、ぽつぽつと拳で木の戸を叩き、少しだけ引き開けると、その隙間に身を滑り込ませる。
彼女の背後で、年季の入った古い扉は、静かに閉じた。



天窓の付いた陽差しの明るい店内が、視界に写り込む。
左右には白い漆喰壁、右の壁際には四角い机と四つの椅子が一組。
反対側の壁には、何処に通じているのか木製の扉が取り付けられていた。
奥には作業台、更に奥の左右の壁には、所狭しと置かれた棚の中に武具が収められている。
家屋は古いが手入れが行き届いているのか、歩く床に軋み一つなく。
また、傷だらけの古い棚に、乱雑に置かれているように見える商品には傷一つなく、よく見れば店の隅々まで、埃が積もっているような様子は見られない。
作業台の隣に椅子を置き、その上に座る男が刃物を磨いていた。
恐らく、この男が店主であろう。
来客があったにも関わらず黙ったままの店主、その不躾な視線が彼女を射抜き、出迎える。
さして気にした風もなく、まるで長年店に通って来た、常連の客のような佇まいで娘は店の奥へとやって来た。
被っていた笠を脱いで軽く頭を下げ、腰に差していた朱塗りの鞘を外し、刀身を抜きかけのまま机に置く。

―――――――申し 其処のお方様 卒爾乍ら お尋ねいたしやすが
―――――此処はこいつの 面倒を見てくださる御処で 相違ございやせんでしょうか

麗らかな陽差しの中を吹き抜けたような、暖かみのある、ほのかな風を思わせる声。
彼の訝しげな視線を崩さず、軽く目で頷く。
店主の反応を伺うと、目の前の作業台に腰かけた彼女。
艶やかな光を反する硝子の付け根が印象的な、腰の提げ物の中からエルヴン金貨を一つ取り出す。
旅をして来たとは、にわか信じられぬしなやかな指で、作業台の上にそっとそれを置く。
そして、先程の耳に心地良い声で再び問うた。

―――――――砥ぎ料はこれで 良うございやすかい?

黙したまま答えず、店主は刺すような視線を更に強く光らせ、ねめつける。
この娘が持ち込んだこれは、エルヴン式の刀剣か、商売柄取り扱った事が無い訳ではないが。
驚く程良く使われ、丁寧な手入れがされているようだが、この刃はもう駄目だろう。
例え腕の良い職人がこれ以上手を入れても、次に使用した時、運が悪ければ曲がるか、折れるかするに違いない。
自身が手を入れれば、もう少し長持ちするかもしれないが。
それでも、付け焼刃の応急処置程度が限度だ。
新しく刀剣を誂えるとなると――、己の腕前に見合う料金を支払って貰わねばならん。
流石に、この金貨一枚だけでは、動く気にはなれんな。
大変残念だが、俺の店の相場を知らん小娘には、お帰り頂く他あるまい――。
店番をしながら売り物の刃物を磨いていた店主は、それを見て鼻を鳴らす。
「……フン、お嬢ちゃん、その程度じゃあ足りねえよ。
すっこめて帰ェりな」
置かれたエルヴン式の刀剣から目を離し、興味を無くしたかのように手にした商品の手入れに戻った。

―――――――小判で足りねえ? するってぇと 御入用は切り餅の方で?

すると、娘がひっそりと笑い、懐から取り出した紙に包まれた塊を一つ見せると、渋い顔押していた店主の目が丸くなり、あんぐりと口を開く。
包みの中身はエルヴン金貨、枚数は――、厚さからして二十枚程。
魔導帝国貨幣とエルヴン貨幣は魔法がかけてあり、偽物の製造が出来ない事は常識だ。
その内、価値が高く扱われているエルヴン貨幣の金貨、知り得る限りの最高額貨幣の塊。
息を呑んでいる内に、エルヴンの女はもう一つの包みを取り出し、更に重ねる。
包みの一つ程度では動じない彼も、店を持って此の方、見た事も無い量の高額貨幣、それも合計二つの包みが、目の前に重く圧し掛かるのを感じ、思わず身震いしてしまう。
「あ、あの、お客様。
キリイモチーでしたっけ。
これこれ、これが、もう一つ、お持ちではありませんかね?」
気が付けば立ち上がっていた。
何時も接客する際のぞんざいな話し方、それが完全に変わってしまっているのを自覚する。
それよりも何よりも、長年望んでいた自信の腕に見合う金額を、支払う客かもしれないのだ。
多少の愛想は振りまいても損はしない、というものだろう。
染みや傷痕の数形まで覚えている、毎日見慣れた作業台の上に、ちょこんと鎮座させられた、エルヴンが切り餅と呼ぶ包みを指差し、恐る恐る尋ねると、彼女は何も言わずもう一つ取り出して、先程重ねた物の上に、更に積み上げる。

それを見て豹変した彼は――、座っていた椅子を蹴倒し、慌てて木製の扉の向こうへと駆け込み、店の奥から自慢の逸品を幾つか選び出す。
転びそうになりつつも駆け戻り、娘の前に並べると、揉み手をしつつ顔色を伺い、不慣れな笑顔と裏声で商品の説明を行う。
今、彼は自他ともに認識している寡黙で頑固、偏屈な職人ではなく、財布の紐を少しでも緩めようと、ご機嫌取りと愛想笑いを駆使する商売人と化していた。



―――――――すっかり世話になっちまいやして あっしはそろそろ お暇致しやす

選ばれたのは、惜しくも自身の作では無かったが、四つの切り餅で保有していたエルヴンの刀剣を譲り渡し、取引は無事終える。
あの作品であれば、少々荒っぽく酷使されても、どうにかなるだろう。
いや、あれを選ぶとはなかなかにお目が高い。
この娘が扱うのなら、今度は己が――エルヴン式の刀剣を拵えても良いかもしれん。
商売人として満足する額と、職人心冥利に尽きる、満足行く内容の取引に、店主の心は実に、実に晴れやかであった。
「ああ、あのの、ありがとうございました!
またの御来駕を!」
慣れぬ対話、慣れぬ応対、慣れぬ送迎。
恐らく、職人を志してからこのような対応をしたのは、初めてではなかろうか?
小走りで先回りし店の戸を開け、突如現れた大口の顧客である、エルヴンの娘を見送りに出た。
彼女は、どちらが客なのか分からなくなる程、丁寧に何度も礼を言い、雑踏の中へと消えてゆく――。

稀有なまでに珍しく、にこやかに手を振る店主を見た、近くの住人は何事かと目を見張り、小声で話し合う。
お陰でここ暫くは偏屈で有名な彼の、その日の態度に纏わる噂が、話題の主役に躍り出る事になるに違いない。



――――――――(2)――――――――



大分使い込んでいた獲物は、もう駄目だろうという見立てで買い替えを薦められ、鍛冶の店主に処分を頼む。

鍛冶の店で随分と話し込んでいる間に、時刻は昼前となっていた。
特に悩みもせず手頃そうな店を選び、彼女は身を滑り込ませる。
やや長方形だろうか、木で出来た四角い机に、これも木で作られた、背もたれの無い丸い椅子が四つ。
それを一組としたものが、広めの店内に所狭しと並べ立てられていた。
食事時にはまだ早いのだろうか、やや空席が目立つ。
壁際の席へと案内されたエルヴンの女は、そこで腰掛ける。
口頭で説明された、僅か三種程しか無い品書きから、一つを選びじっと待つ。

食事を待つ間、疎らであった店内には、何時の間にか多くの客が集まっている。
広い建物で店を構えているのは、流石に伊達ではないらしい。
空席だった隣に、後から座った一組の男達が、カヤに視線を何度も投げかけ、小声で話していた。
容姿を窺うには年の頃はまだ若く、青年と言っても良いだろう。
ただその不遜な面構えには、真面目さや誠実そうな雰囲気は欠片も無く。
彼等が執拗に投げかけるその視線の有り様は、妙な気を持っている事が明らかではあったが――、治安に優れた環境で育ち、平穏に慣れ切った仕草や物腰は、彼女からすれば明らかに隙だらけ、すぐに町の住人である事を判別する。
四人の青年達は、いよいよもってその瞳に、無用の手出しをする意思を映し、ぎらつかせエルヴンの女を見たが、彼等から見て気が付いているのかいないのか、彼女の顔付きは何の変化も無い。
それとも、先に手出しさえしてこなければ、このような輩は捨ておくとでも言うのか。
特に気にした風も無く、娘は食事が届けられるのを待った。

やがて、カヤを案内した者と違う店員が、注文の品であるのか、皿と匙を置いてゆく。
深皿の中には皿の縁に少量見える汁、やや甘めの香りを放つ、煮られてふやけた沢山の粒が盛られ。
平らに慣らされた粒の所々に、所々肉と菜の欠片が顔を覗かせ、浮いていた。
それらの上に黒く色の付いた汁が、波を描く様に撒いてある――この波模様は、意図して付けられたものだろう。
見た目にも美しく、また美味そうにも見える。
届けられた食事を口にしようと、娘は匙を取った。
その時――、何を思ったのか。
唐突に立ち上がった男の一人が、銀の髪の娘の机へと歩み寄りそして、娘が口にしようとした食事の皿を取り上げた――その面差しには、嫌らしい笑みがこびり付いている。

そして、矢庭にカヤへと向けて皿を投げつけた。

果たして、男達は気が付いただろうか――。
彼女の姿が、一瞬、ゆらりと揺らめいた事に。
その時、飛び散った皿や汁は、エルヴンの女の躰をすり抜けるようにして、向こうの壁に激突し、派手な音を立てた。
投げ付けられた深皿は、使い物にならぬ程ひび割れ、汁に入っていた具材が、壁伝いに床に転がり、それを見てあっちゃあ外れた、と隣の席の男の一人が、残念そうに項垂れる。
店の中が静まり返り、返り音を聞きつけた客や店員達が何事か、と向けるその視軸の先に映る、銀の髪の娘――。

「よォ。
姉ちゃん、食ってねえでこっち来て酌しろよ」
皿を投げた男は、注目を浴びても関係無いとばかりに、机を押し退けカヤに迫った。
押した机が別の客の背に当たったが、その客は不快そうな一瞥をくれると、一瞬だけ銀の髪の娘に申し訳なさそうな視線を向け、食べかけの皿を持って別の席へと移動してゆく。
さあ、これでお前は独りだゾ、どうするんだ、と言わんばかりに皿を投げた男が嗤う。
通路を挟んで向かい側の座席に座った、三人の青年がそちらの方を向いて、彼に合わせる様へらへらと嫌らしい笑みを溢す。
その様は、彼女の次の反応を見て、どのような事が返って来ようとも、皆で大いに嘲笑う気であった。
汚された壁を一瞥した彼女は、配置のずれてしまった机の上に匙を置くと、不躾に絡んできた青年を相手にせず、黙ったまま席を立ち、去ろうとする。
「あっ」
小さく詰まらなそうな声を上げる、皿を投げた男。
不満そうな表情で彼はそれを見送り、その様子を見て向かいに座る男の一人が、やった、俺の勝ちだ、と高らかに笑った。

通路側に面した席に座った男が、にやけた顔付きを崩さず、カヤが足を向けた通路の先に、右足を素知らぬ顔で出す。
その様子に気が付いた奥側に座る男達も、結果を予想し合い、即座に賭けに興じる。
彼等の中では今日此の頃、このような遊びが最高に楽しいという風潮なのだ。
先程の狼藉だけでは飽き足らず、青年達はまだ、この銀の髪の娘に絡む気らしい。
未だ楽しめる反応を引き出せてはいないし、このまま帰したのでは何よりも、自分達が全く楽しめていない事になる――彼女がそれに気が付かなければ、伸ばされた足に躓き最悪転倒してしまうだろう。
普通なら、怪我で済めば良い方だろう、怪我だけで済むならば。

しかし再び――、今度は娘の足が揺らめいた。
これも男達は、まるで気が付いていない。
歩幅を図り、良し今だ、と狙い澄まして足を伸ばしたが、まるで何の感触も無く。
不思議に思った男は振り向いたが、何事も無かったように、銀の髪の娘が向こうへと立ち去る後ろ姿を、目にしただけであった――彼女はそのまま、青年達の方を振り返りもせず、店の出入り口へと向かう。
「ケッ、詰まらねえな」
「全くだ」
何の反応も無かったエルヴンの女に、すっかり白ける詰まらなさだ、もっと面白い事をやれよと、男二人が不服そうな舌打ちを鳴らす。
その様相は暇潰しに丁度良い、面白そうな事柄が無くなった、また探すのが面倒だ、と言わんばかりである。
「まあ、これで済ませてやったんだしさあ。
今、気付いちまったよ。
俺達ってサァ、実はとっても優しいんじゃねえの?
ハハハッ」
両手を広げて皿を投げた男が言うと、奥の二人は合わせるかのように笑った。
直ぐに先程の事を忘れたかの様に、彼女に対しての賭けの結果、何方が勝っただの負けただの、アレは惜しかっただの、ぎゃあぎゃあと騒がしい金銭のやり取りが始まり――。

慌てた面持ちで、男達に気付かれぬよう、密やかに店主がエルヴンの女の後を追う。
柄の悪い客に絡まれたのは災難だが、見れば旅人のようだ、うちの店の悪い噂でも振りまかれては敵わん。
出口前に追い付き、詫びようとした所、彼女はやんわりとした笑みで、形の良い愛らしい口元に人差し指を立てる。
喋るな、――と言う合図のつもりだろう。
その顔の様子からして、左程怒っていないようだが、何事かと黙っていると、店主の隣を通って店の出入口の方へと向かってしまった。
擦れ違いざまに、彼の手に楕円形の輝きを握らせて。

―――――――馳走になりやした こいつぁ 割れた皿の足しにでもしておくんなせえ

柔らかい、そして蕾が花開く頃を思わせる、風のような声が、ふわりと通り抜ける。
洗いたての髪の心地良い香り、若い娘の輝かしい色香を、間近で嗅いだ店主は思わずごくり、と喉を鳴らす。
手元の輝きを見て、こんなに貰って良いのだろうか、と思い声を発しようとすると、再び銀の髪の娘は振り向く。
思わず息を飲む店主に、やんわりとした視線を投げかけ、軽く頷いた彼女は、今度は振り返る事無く、そのまま立ち去った。

世の中にはあんな客も居るのか、――と、しみじみ感慨に耽り、感心しているその時。
どっと、店の奥から響く大きな声が届く。
さっきの客が、再び騒いでいるのだろうか?
俺の店はあんな奴等の溜まり場や遊び場ではない。
また(払いの良い)善良な客に絡んで騒ぐようなら、俺の店から摘まみ出してやる!
耳の長い者達が小判と呼ぶエルヴン金貨の、ずしりと重い黄金色の艶に目がくらみ、鼻息荒く意気込んだ店主は、腕を捲りながら、大きくどよめいている辺りへと向かう。
しかし途中擦れ違う、支払を終え、出て行こうとする他の客が、いい気味だと言い、次々と店主の肩をぽんぽんと軽く叩いてゆくのだ。
一体何の事だろうか、と不思議に思った店主は、小走りで店の奥へと駆ける。

辿り着いたそこでは、日雇いの店員も、食事中の客も、先ほど娘に絡んだ柄の悪い客も。
皆一様にぽかんとした表情でそれを眺めていた。
「ううっ、ああ!
痛てえ、痛てえよぅ。
――ひぐっ、ふぐ、痛てえ、いぃいぅぅえぇわぁぉあぁおぉぉあぁぁ!
痛てえ、俺の、俺の足、あしが、あぁぁぁ」
茫然と奥に座る二人の男、信じられないものを見るような目で立つ男。
そして、机の上に突っ伏し、痛てえ痛てえと泣く男。
皆、その足元に視軸を集めている。
先程出て行った娘の足を躓かせようと出した、男の右足首は――、何と、紙屑の様にくしゃりと折れ、奇妙な方向へと捻じ曲がっていた。



――――――――(3)――――――――



柄の悪い住民でも堅気は堅気。
仕置きは済ませたから、当分あのような悪戯は出来ない筈。
もしあれ以上の悪になるようなら、彼女の縁切り家業の対象となるだけだ。
そうなった時に、もし客が付いたのならば、改めてあの青年達の所へと、御縁を断ちに伺う事となるだろう。
あの程度では、そこまでの者に成る事を、全く期待出来そうにないのではあるが。

しかし、あのような客が居たのでは、落ち着いて茶を愉しむ事も出来ない。
ただひと口すら、食べられなかった食事で、だが――店や他の客に迷惑を掛けた事を含む詫び料として、金を払って食事処を出たカヤは、再び街並みを眺めつつ、昼食を摂れる店を探していた。

昼時が過ぎ、閑散とした通りには出店も無く、あれ程いた筈の往来は、がらんとした通りに変わり果てている。
もうすっかり、音や匂いの少なくなった大通り。
ぺたぺたと草鞋の音を小さく鳴らして、彼女は独り練り歩く。
大通りから裏路地に差し掛かる丁字路にて、漸く出店が一つ見つかったが、それももう店仕舞いを始めている様子が、遠目にも伺えた。
その露店には細切れの肉を固め、串に刺し火で炙った物の売れ残りが、ごく少量、片手で数え切れるよりは、少ない数が並んでいる。
焼き上がってから大分時間が経ち、冷めてしまったからだろうか、味が想像できるような香りは漂って来てはいない。
遠目にも油が白く浮き固まり、すっかり冷え切ているのが見て取れるが――、それでも構わないと、銀の髪の娘は提げ物から、小判を取り出そうとした時だった。
野太い男の声が、彼女の耳に届く。
「お、おお~い。
そこのお嬢さん、ちょっといいか?」

声のした方を見れば、顎髭を蓄えた巨漢が小走りで、カヤの方へと近づいて来るところであった。
腕は剥き出しで袖の無い、すっぽり頭から被る単純な構造の衣服を着、編み上げた突っ掛けのような物を穿いている。
歳の頃は四十周期から五十周期と言った所か。
どすりどすりと、大きな足音を響かせ近くに来れば――小柄なエルヴンの女が見上げる程に大きく、まるで小山の様な影が、カヤの全身を覆った。
手のあちこちには、剣だこが見て取れる――それなりに年季の入った冒険者、という奴だろう。
並の闘士ならその大きさと力強さで、あっという間に一捻りにしてしまうに違いない。
それほどの体躯を誇る巨漢を見上げつつ、臆さぬ声色で彼女は言った。

―――――――へい あっしに何か御用命で?

気持ちの良い晴れた日和に吹く風の様な、ふうわりとした声がそよぐ。
顎髭を蓄えた巨漢は、娘の声色に気を良くし、がはがはと笑う。
警戒させない様、微笑んでいるつもりらしいが、相手がカヤで無ければ、恐れ戦き、逃げ出していたかもしれない。
そして、顎髭をしごきながら野太い声で話し始めた。
「あ、あのな。
さっきの店のな、見てたんだ。
そしたらあの糞餓鬼ゃあ……、足があんなになって泣いてるじゃねえか。
あんな芸当出来る奴は、俺ぁ見た事がねえ。
それで――、追って来たってえ訳だよ。
実は、お嬢さんの腕を見込んでな、ちょっと頼みてえ事があるんだ」
確かあん時すり抜けてたよな、と言いたげな表情である。
驚いた事に、この大男は彼女の姿が揺らいだのを感じ取ったらしい。
それなりに年季の入った男の様に見えてはいたが、伊達に歳だけを重ねている訳ではないようだ。

―――――――そいつぁありがてえ話ですが 飯の後でも宜しゅうございやすかい?
―――――お陰様で あっしは昼飯を食い損ねちまったんで

巨漢への返事に、風の様にふわりとした、静かな声が耳朶を擽る。
もしこれで断られても、顎髭を蓄えた巨漢は、このような娘の声が聴けた事に満足して、帰路に就くに違いない。
「お、そうなのか。
この時間じゃ、この辺りは閑散としてて探し難いぜえ。
あんまりうまい飯は出ねえが、俺達の根城にしている店で良ければ、案内するぜ!
そこなら俺が言えば――、この時間でも飯くらいは出るだろう。
お嬢さんの口に合えば良いがな、がはがは!
どうだ、俺達の頼みってのは、そこで話を聞いちゃくれねえか?」
がはがはぐふふうと豪快に笑いながら、巨漢は銀の髪の娘を根城へと誘う。
カヤは少し考え、にんまりと顔色を変えながら言った。
何も無くても良し、仕事にありつけるならまあ良し、面倒事が起きれば尚良しの――、笑みを口元へと浮かべて。

―――――――へい 宜しゅうございやすよ

あっさりと承諾され、巨漢は拍子抜けした面持ちで尋ねる。
もっともっと苦労するかと思っていて、あの手この手を考えあぐねていたというのに。
話で済んでくれれば上策、銀の髪の娘の指定する場所に出向く中策、何か物品や金で片を付ける下策、そして――、もしもの時は、地に頭を擦り付け、大声で泣き縋り懇願する事も視野には入れていた――のだが、どうやら最悪の事態は避けられたようだ。
「えっ?
い、いいのかよ?
こう言っちゃなんだが、アレでよぅ」
眼下の娘の足元を見ると、裾に見慣れぬ葉の模様が誂えられた着流しを身に纏っており。
その大きく広がった裾から、申し分なく形の良い足が、すらりと伸びている。
胸元へと視線を上げると、年端も往かぬ小娘の様な容姿に、全く似つかわしくない、発育の良い乳房を、包帯のような布で包み込む。
それらは荒々しく開けっ広げたまま、彼女は大して気にも留めていない様子だ。
着直すのも面倒な性分なのか、それとも――。
更に上へと視線を上げてみると、目深に被った菅笠。
見上げてはいるが、遠目に見た時と変わらず、娘の表情を窺い知る事は出来ない。
巨漢は上からではあるが、広げられた衣服から大胆に溢れる、美しい娘の肌をじっとりと堪能する。
改めて見ても、このエルヴンの女は華奢で、護衛も無く旅をしている事が、不思議にしか感じられず。
件の結末を目の当たりにした今ですら――あれ程の騒ぎが起きた後でなければ、彼女の仕業である事を信じられる筈も無く。
果たして本当にこの娘の仕業であったのか、今となっては不確かな気持ちが、朧げに宙に浮き、漂ってしまう感じがしてくるのである。
腰の朱塗り鞘を見ても、護身の為に持っただけ、単なる虚仮脅しかはったりの様にしか見えない。
何も知らぬ、小柄で幼気な娘を、言葉巧みに拐かしているような、そんな気分に陥り、大きな男は次の言葉を言いあぐねた。
先程の奇妙な技を見る限りは、決してそんな事は無い、無かった筈――、なのだが。
矢張り、彼女の風貌と身形を見る限り、次に発すべき言葉は見当たらず、尻窄みに断ち切れてしまった気がして、男は思わず黙り込む。
が、その話を戻すかのように、涼し気なカヤの返事が漂う。

―――――――お気遣いは無用でさ お前様も 見りゃあシト族の渡世人
―――――何かお困り事で あっしに お声をかけなすったんじゃあ ねえんですかい?

銀の髪の娘の耳に心地よい声を聞き、巨漢は破顔する。
荷運びの役夫や、水夫か何かと勘違いされるかと思ったのだが――、どうやらその心配は無用であったようだ。
一通り目端は効くようだ、時折僅かに感じさせる、手練れの物腰から見るに、確かに腕は立つのだろう。
見た目通りの容姿と声色から、ほんのりぽやぽやとした雰囲気に感じたが、なかなかどうして、この娘は見る所はしっかりと見ている様子が伺える。
渡りに船とは正にこの事、彼女に頼んで間違いない筈。
追いかけて来た事が正解であった事を、彼の勘所は確かに感じていた。

がはがはぐっふううと巨漢の彼は大きな声で笑い、気易く娘の肩を叩く。
別に、すり抜けたりなどはしなかった。
あの時見たあれは、一体何だったのであろうか?
知りたい事は沢山あったが、これ以上は調べられる筈もなく、聞いた所で答えてはくれまい。
また、込み入った内情に踏み込み過ぎて、距離を取られ、最悪逃げられても事だ。
顎髭を蓄えた巨漢は内心訝しみつつも、笑顔を崩さず言葉を続ける。
「いや、わかってるのかあ!
こんなナリをしてても、お互い性根は似てるんだな。
その通り、全くその通りだぜ。
俺達は、同種じゃあねえし、各々の稼ぎも違げぇし、腕の差ってもんもあるが。
それを差し置いても、好き好んで危ねぇ橋を渡りたがる、同族だ!」