2020年4月10日金曜日

ブログ小説 縁切徹 第三話 刺客(2)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

刺客(2)



――――――――(1)――――――――



あれから七日程が経過したが、何者かが襲ってくる気配は無い。
カヤは旅路を急ぐが、拍子抜けする程何事も無く、その行程は順調にも思えた。
彼の者は魔法か何かで、姿や気配を隠しているのだろうか。
しかし、追われている風も無く、銀の髪の娘は街道をひたひたと歩く。
先は道が分かれている様で、左側には森のようなものが見え、右側は短い草が生い茂る草原が広がっており、そこまで黄色のような色味を持った、剥き出しの乾いた土が小路となり先へと続いている。
もう片方を見ると、左手に見えるこんもりとした森を避けるように、長々とした先へ道が続く。

追分の先、先程見えた左手に生い茂る森の奥、そこに集落のようなものが見えた。
ちらり――、と足を止め彼女は後ろを振り返る。
眼前に広がるのは、晴れ間を塗り潰す様に、曇り空が迫る草原。
遠い雲の下では、雨が降っているのだろうか。
空を見れば遥か遠く、向こうの空が曇り、雨が降ってきそうな気配をひしひしと伝え、それはまるで彼女の後を追う様に、不気味な薄暗さが立ち上り陽を覆いつつ、どんよりと低い雲が、少しづつ近づいてきている様子が、遠目にもはっきりと分かった。
その下を曲がりくねる、通って来た小道には、足元に足首程の丈の草が生えるのみで、誰かが隠れられそうな場所は何処にもない。
一見追ってくる者は、何処にも居ない様ではあるが。
この間の皺枯れ声の年老いた男が何らかの手を使い、彼女を追っている筈である。
今日は朝から歩き詰めの上、そろそろ安全な塒の確保を優先した方が良い時刻へと差し掛かっていた。
道先を行けば、一夜が過ごせそうな塒が見つかるだろうか。
足を止め、後ろを振り返っていた彼女は、左手の道へと歩を進める。
ふわりとそよいだ一陣の風が、カヤの髪をそっと撫でてゆく。
そのひと時、まるで後ろ髪を引く様に、眩く光を映す髪が靡き、肩の上で優雅な舞いを披露した。

程なく、集落へと差し掛かる。
ここへは何時から誰も住まなくなったのだろう。
道こそ何とか原形らしき型を保ってはいたものの、ほぼ獣道と変わりない道の左右には、風化し崩れ去る寸前の建物が、幾つか目前へと現れた。
そこかしこへと草木が伸び、手入れが忘れ去られた建物を、飲み込まんとその領土を広げつつある――もう暫くはかかるだろうが、長い刻が過ぎ去れば、完全に木々覆われ、誰かが住んでいた痕跡など、跡形も無くなってしまうに違いない。
すっかり忘れ去られた集落の中を、ゆったりとした風が通り抜け、木々の重なり合う葉を揺らす音だけが、寂し気に鳴り渡る。
その中を尖った耳の娘が、廃屋と呼んでも差し支えない建物にそっと近づく。

―――――――申し申し 御免くだせえ

数少ない残った家々を一つ一つ、丹念に見て回り、集落の中に誰も居ない事を確認するカヤ。
置き去りにされた屍等は――無い。
打ち捨てられたのは家など持ち運べない建造物のみで、家具や食器は見当たらず、何らかの事情があって住む者が居なくなり、病の類で寂れたのでは無さそうだ。
全部で、十と六つの建物があり、その内崩れた家屋が七つか八つ程。
残りの家屋は傾いたり軋みが酷かったりと、中に入る事を戸惑われる状態のものであった――この間の様な奇妙な業で、建物ごと崩され埋められては敵わない。
それらは既に倒壊しており、住める状態ではない家屋の木材を何とか起そうにも、どうにも人手が足りない事が一目で分かった。
見れば柱であろうか――見るからに丈夫そうな木がへし折れ、ささくれ立った表面が剥き出しである。
エルヴンの女は壁や床を押し、家屋の傷み具合を調べ、確かめてゆく。
押す程度では崩れはしなかったが、軽く押すだけでその殆どが、まるでか細い悲鳴を上げるかの様に、軋む音を上げ、多少の差はあれど動き、容易に傾いた。
流石にこれでは、無事に一夜を過ごせるとは言い難い。
他、残っているのは、倉庫にでも使っていたのだろうか、小さく丈夫そうな建物が幾つか残っている。
それは納屋であろうか、木でしっかりと組まれた、まだ丈夫そうな建物。
銀の髪の娘は手頃な所にあるその建物へと近づいた。
打ち捨てられた納屋の柱や壁を、そっと押してみたが、その程度では崩れたりはしない。
旅の女が力一杯押した位ではどうにもならない、確かな頑丈さが掌に伝わる。
これならば暫くの間、多少の雨風位なら一先ずは凌ぐ事が出来るだろう。

―――――――申し申し 御免くだせえ

再度、カヤの透き通った声が、誰も居なくなった集落の中へと吸い込まれ、消えてゆく。
その納屋を今宵の塒と定めたのか、雨風に打たれ痛んだ戸をぽつぽつと叩き、中に誰も居ない事を確認すると、取っ手を掴む。
すると、壊れた蝶番がごとりと外れ、大きな音を立てて戸が奥へと倒れた。
重い木の板が、大きな音を立ててばたりと倒れ、もうもうと土埃が宙を舞い――、娘は素早く一歩飛び下がって、舞い上がった埃が静まるのを待つ。
そして、納屋の中を視線で調べようと、紅い目を少し細める。
ここにも家具は無く、がらんどうの空間が広がり、木などで拵えた床は無く、平らに慣らされた土が剥き出しであった。
他に見て回った建物と同じく、何も置かれていない納屋の中は、生活感がまるでない様子が、ここからでも伺える――予想した通り、中にはやはり誰も居ない。
矢張り、随分と前に、何らかの理由で廃れた集落と見て、間違いないのだろう。
放棄された理由は分からない――病が広がったのでは無さそうだが、そうなるとすると――外敵が現れたか、内部の争いが激化したのか。
しかし建物は全て、痛んだり壊れたりしてはいるが、壊されたものでは無かった。
もし他の生き物を襲う危険な生物が居たとしても、長い期間住む者が居ない集落の近くをうろつくとは考え難い。
となると、当面の心配は、怪しげな業でこの間襲撃を仕掛けて来た年老いた男だけとなる。

誰も居ない筈の中へと向かって、彼女はぺこりと頭を下げると、納屋の中に入り込んだ。
陽はまだ暮れ前で明るく、視野に困る様な事は無い。
左右を見渡すと、両側に木壁が続き、建物は納屋の奥に向けて、やや細長い形状である事が分かる。
目に付くものを強いて言うならば、左手の壁側に風窓が一つ、ぽっかりと口を開けているのみ。
そこから、そろそろ雨が近くなってきたのであろう――水の香りを強く感じる緩やかな風が、ひゅうひゅうと吹き込んでいた。
倒れた戸口をみしりと踏み越え、エルヴンの女は壁に大きく開いた、風通しの良い風窓がある壁際へと進むと、外側を覗く。
風窓の外には、母屋だったものの残骸と、先程通って来た街道に繋がっている荒れ果てた道が、手の届く様なすぐ傍らに目にする事が出来る。
そのまま風窓の前を通り過ぎ、少し奥まった場所でその脇に荷を下ろすと、中から敷物を取り出して敷き、上がり込む。
片方づつ肩を回し、首を右に左にと傾け、腰に手を当てて背筋を逸らす。
何気無く、右足の膝から下を両手で少し引っ張り、何事も無い事を確認すると、何かを思い出したような面持ちで、カヤは寂し気に笑った。
両足を伸ばし、両手を腰よりやや後ろの位置に着いて、暫しぼんやりと物思いに耽る。
そして、暫く足を揉んだり、伸びをしたりして過ごす。
気を取り直したのか、一瞬だけ見せた先程の寂し気な風貌は、もう既に見られない。

やがて十分に休息をとったのか、解かれた荷から火着け道具に茶碗と箸、薬缶と水の入った筒を取り出した。
今夜の夕餉に、娘は温めた食事を摂るつもりなのだろう。
手際良く火を起こし、小ぶりな薬缶へ竹筒の水筒から水を移し、組み立てた木枠に取り付けた自在鉤に掛け、下から火で炙る。
火に掛けた後、湯が沸くまで手持ち無沙汰となったカヤは、天井を眺めのんびりと待つ。
暫く暇そうに天井の染みの数でも数えた後、茶碗に握り飯を放り込み、干乾びた菜を振りかけていると、大きな声で楽しそうに駆け遊ぶ、沢山の子供達の声が、納屋の中に響いてきた。
誰か、彼女の他に旅人でも訪れたのだろうか。
その音に気が付き、耳を跳ね上げるように動かしたカヤが、食事の支度を止めて辺りの様子を窺う。



――――――――(2)――――――――



湯が沸く頃に、変化は訪れた。
ぷつぷつと、湯気を立てて鍋底が泡を浮かべ始めている最中の事。
まるでその音を隠すかのように、何者かの声が集落の中を満たしつつある。
わいわいと大きな声が耳朶を打つ。
静かだった納屋の周辺がにわか騒がしくなり、何処から現れたのか、沢山の子供達がそこかしこで駆けずり回っている様子が、納屋の中へと響く。
何も無い集落、暇を持て余した子供達が、何かを探して、または兄弟姉妹、または近所の歳が近い者と一緒に遊ぶ。
この辺りの住む者が集まる処では、ごく普通の光景に違いない。
しかし、ここは住む者の居ない、廃集落では無かったか――?
唐突に聞こえだした子供達の声に、訝しんだ彼女ははたと手を止め、暫しその声を聴き入っていたが、やがて何事も無かったかの様に、食事の支度へと戻る。
放り込んだ握り飯に菜を乗せた茶碗に、薬缶を傾け沸いたばかりの湯を注ぎ、箸で突いて飯をほぐす。
温められた菜が、たちまちふんわりと芳しい香りを立ち昇らせ、漂い始めた。



食事の支度を終えても、活発な子供達――辺りを駆けずり回る声はまだ続く。
飯と菜を茶碗に盛り、湯をかけるカヤの居る納屋の方へ、彼ら彼女らの騒々しい声が、徐々に近づいて来る。
集落中の道という道を移動する、軽やかな声。
納屋の前の道も、元気な足音が幾度も往復し、森に埋もれつつある道筋を行ったり来たり。
「おっ、だれかいるぞ」
そして子供の一人が先程倒れた戸を踏み締め、じっと納屋の中を覗き声を上げる。
先客に遠慮などしている様子を見せず、彼ら彼女らは、建物の中に足を踏み入れた。
入って来た二、三人の子供達は、カヤの事にはまるで関心が無いように、どたどたと駆け回り追いかけっこを行い、甲高い声を上げて騒ぎ出す。
その騒ぐ音を聞きつけたのだろうか、その子達を追って、更に大勢の子供達が納屋へと駆け込む。
すると、陽気な騒ぎの主戦場は、エルヴンの女が塒と定めた納屋の中へと移った。
わぁわぁと奇声を発しつつ、相手の顔を指差し笑い合う。
声を上げ、反応が無ければ、返事があるまで囃し立てる。
ばたばたと足音激しく、納屋の周囲をぐるりと巡る様に駆け回り、何が楽しいのかきゃあきゃあと大声を上げて、お互いを追い回した。
そして、一瞬静かになると再び、疲れを知らぬように、大声を挙げては走り、走る合間に大きな声を出す。
前の子を追う様にぐるぐると回る様に駆け、また何かの拍子で進む方向が全く逆になり、波を押し返す様に動き始める。
そのような行いを飽きもせず幾度も繰り返し、納屋の中を右に左にと子供達は忙しなく走った。

不思議な事に、子供達が幾ら走り回っても、土埃一つ立たない。
これだけは駆ければ、濛々と上がる筈であるのだが。
それを見て取ったのか、静かに座っている彼女――カヤはうっすらと目を細める。
しかし、騒ぎなどどこ吹く風といった風体を崩さず、納屋の中を走り回る子供達をそっち退けで、茶碗に口を付けた娘の白い喉が動く。
茶碗から少し湯を飲むと、温まった飯と菜を箸で摘まみ、口の中へと放り込む――。
納屋の中で馳せ巡る子供達の騒音に隠れ、ぽりぽりと菜を齧る音が頬の向こうで小さく響いた。

やがて、その内の幾人かが、銀の髪の娘に興味を示したのか、屈託ない笑顔で近づく。
「お姉ちゃん。
何食べてるの?」
楽しそうなにこやかな声で、前に並んだ子供達の一人が、彼女に声を掛ける。
相手にする気が無いのだろうか、エルヴンの女は黙ったまま菜を噛んだ。
娘は笠を目深に被り、口元と頬以外に、その表情を窺い知る事が出来る要素が無い。
黙って菜を噛み締めていると、徐々に騒ぎが収まり沢山の顔向きが、カヤの方に集まる。
彼女の前に立つその子供達の目には瞳が無く、ぽっかりと空洞が空いていた。
一人、二人、三人……。
ふと気づくと、静かになった子供達は皆、一斉に銀の髪の娘の方を向いている。
何も写さない黒い空洞が、まるで視線を向けているように彼女を取り囲む。

「ねえ、何食べてるの――?」

再び目の前、子供の一人が問う。
見ると、銀の髪の娘が手にした茶碗の中には、沢山の目玉が入っていた。
その中に、べったりとした赤い血潮が、なみなみと注がれている――。
更にもう一度、子供達が口を開く。
「ねえ、何食べてるの?
ぼくたちにも、おしえてよ」
悪戯の程度を遥かに超えた、そこはかとない悪意の籠った子供達の声。
口々に、皆一様同じことを尋ね、瞳の無い顔で悪鬼の様な笑みを浮かべつつ、彼女の方へと詰め寄った。
思わず吐き気を催す、にやにやと口端を吊り上げた、不気味な満面の笑みが咲き乱れ、娘の周囲を包み込む。
異様な光景を目前にしても、表情を変える事無く、子供達をちらりと一瞥したカヤ。
大して気にした様な顔付すら見せず――徐に茶碗の中に箸を突っ込み、かき混ぜるようにすると、ひょい、と目玉を一つ箸先で摘まみ上げる。
変わらず茶碗には溢れんばかりの血、そして残った目玉が積み上げられていた。
そして箸の先には、菜の切れ端と、米粒。
滴る様な血流も、箸先には一滴たりとも付着してはいない。

……邪念に満ちた含み笑いが忽然と、姿を消す。
箸先から視線を戻すと、何時の間にか、子供達は居なくなっていた。
あれほど大きな声で騒いでいたというのに、今はしんと静まり返っており、先程の出来事がまるで嘘の様に感じられる。
彼等や彼女等が、納屋を出て行く所を見てはいない。
一体、何処へ消えてしまったというのだろう。
そして、何かに化かされでもしていたのだろうか――食事も元に戻っている。
茶碗の中も、先程拵えた菜と握り飯を、湯戻ししたものであった。
摘まんだものへと口を付けると、ごく普通の米と、菜の味。
別段、何時もの食事の味と、何も変わった所など無い。
だとしたら――先程見たものは、一体何だったのであろうか。
ひゅうひゅうと肌寒い風がそっと、頬を撫でた気がした。



しかし、その表情に、先程の事で恐れ戦いた様子などは、微塵も見られない。
気味の悪い思いをした筈なのだが、最初から落ち着いた様子の佇まいを変える事無く、湯戻しした米と菜を、箸でさらさらと口に運ぶ。
納屋の中に良く通る、ぽりぽりと菜を噛み締める音が止み、娘は食事を終える。
そして辺りが急に薄暗くなり、ぱらぱらと水滴が納屋の屋根を叩く。
遠目に見えていた筈の雨雲が頭上にでも訪れたのだろう。
補修もされていない古い屋根は、隅の方で雨漏りを起こしていた。

―――――――はぁ また降ってきちまいやがって

うんざりとした声色で独り言ち、暗がりでも左程影響はないのか、彼女は戸惑う事も無く、荷から取り出した蝋燭へと火を移し、光源を作り出す。
暗がりを押し退けようと灯る、ほんのりと柔らかい光が、納屋の中を少しだけ明るく照らしたが、納屋の中には娘以外誰も居ない。
隠れる場所も無く、先程の騒がしい子供達の声も、不思議と全く聞こえなくなっていた。
雨音以外は何の音もしなくなった納屋の中で、静かにぽつんと独り、座っているエルヴンの女。
騒いでいる内に雨が降ってきたから家に帰った、という訳でも無さそうである。
何せここは、森に呑まれつつある、誰も住まなくなった廃集落なのだ。
子供が帰る為の、家族が住む家など、一軒たりともありはしない。
だとすれば、一体何だったのであろう。

病に斃れた屍がある訳でもなく、皆が離れていった、家財の無い土地。
他に思い当たる事があるとすれば、魔獣や魔人に呪われたとしか考えようがない。
しかし極稀に姿を見られる魔人は兎も角――、見かけたという噂すら聞かない魔獣は、幾ら調べても遭遇した者が全く居らず、その存在は言い伝えなどの伝承に伝わるのみで、実在は疑わしいとされている。
旅を初めてこの方、様々な平街山村を巡った彼女も、魔獣と言われるものの類はついぞ見かけず仕舞いだ――はて、この世の何処に行けば、そのようなものが居るのやら。
もしかすると、この間の敵が、仕掛けて来たのかもしれないが、しかしその推測は果たして正しいのだろうか。
ぽたぽたと雨漏りの聴こえる中、じっと何かを考えている様であったがやがて、こうして考えていても仕方がないとばかりに、薄明かりを頼りに茶碗と箸を片付けようとした時、何者かの気配を感じ取ったカヤ。
それらを素早く敷物の上に転がし、朱塗りの鞘へと手を伸ばす。
鞘が薬缶に当たりかつん、と音を立て転がり倒れ――蓋が外れた拍子に、地にとぽとぽと零れた湯が沁み込み、消えてゆく。



――――――――(3)――――――――



奇妙な子供達の来訪、そして再び――。
カヤは、敷物の上に転がしていた朱塗りの鞘を掴んだ。
上がり込んでいた敷物から降り、立ち上がると、鞘を腰に差し戻す。
鞘に添えたカヤの左手が、鍔を押し鯉口を切った――それに合わせるように、ぱちり、と小さな音が響く。
間髪入れずに、皺枯れてはいたが、自信に満ちた男の声色が彼女の耳朶に飛び込む。
「いやいや、随分と待たせたのう。
さっきのは、儂からのほんの挨拶代わりよ。
気に入って頂けたかのう?」
彼女の返事を待たずして、納屋の入り口に、ふらりと人影が現れる。
夕闇に紛れるような薄暗い色味の、ゆったりとした衣服を纏った年老いた男。
何かしら秘術で支度を整えたのであろうか、指先には幾つかの光が集まり、それらは手の動きに合わせてふわふわと漂う。
身に纏う服の背に、縫い付けられている頭巾を目深に被り、それを一目見ただけでは、影と見紛うばかりの様相を醸し出す。
影から写し出された様な、年老いた男が一歩進み、倒れた戸が踏まれ、めきり、と小さく軋む。
その音が、そこに居る者が辛うじて影では無い、という事を示していた。
この間、不意を突いて襲いかかって来た者の声と相違無い。
その声が、先程の気味の悪い現象は、全て己の仕業であると語っている。
あのような子供達を見せつけて、何をするつもりだったのかは知らないが。
何かの拍子に、呪いか何かで廃集落となってしまった土地にでも、足を踏み入れたのかとも考えられたが、その心配はたった今、消え失せた。

―――――――とんだ 御挨拶があったもんで
―――――挨拶巡りはちょぃと前に済ませたんじゃあ ねえんですかい?

男に向けて返したのは簡素な返事――呆れたような調子の乾いた風の様な声が吹く。
しかし、それを聞いて年老いた彼は肩を揺すり、朗らかに笑う。
「ふははははは。
思いの外楽しんで貰えた様じゃのう!
何処へ向かっていたのかは知らんが、うぬの旅も、此処で終わりよ。
誰も訪れる者がおらぬこの廃墟の中で、誰にも看取られず朽ち果てて逝くが良いわ。
儂の魔法の粋を極めた秘術を、とくと味わわせてやろうぞ」
入り口に立つ影とでも見紛う姿の歳経た男から、皺枯れた声が、再び響いた。
手指に集まった光が、徐々に強く輝きを増してゆく。
あの時と同じ様に、何処から聞こえて来るのだろうか、あちこちから響き渡る嘲笑を遮り、凛としたカヤの声が押し返す様に言い放つ。

―――――――そうは問屋が卸さねえ
―――――お前様の技前は 確かに 一目置ける御手前にございやす
―――しかしねえ 其れはあっしが独楽を回すのと 何がどう違うんですかい?

「何じゃとォーッ!!?
か、片手間にやる小銭拾いの曲芸如きと、長年の研鑽を積んだ儂の魔法の神髄を、一緒にするでない!」
激昂する皺枯れ声が、納屋の中へ大きく弾け飛ぶ。
様々な方角から聞こえていた筈の嘲笑が、ぴたりと止む。
エルヴンの女に届く年老いた男の声は、入口の方から聞こえるもの、一つのみとなっていた。
相手が言い終えるが早いか、銀の髪の娘は、朱塗りの鞘に左手を添え、腰を落とすと、呪術師の男の前から忽然と消える。
傍らで地に置かれた蝋燭の炎が、まるではためくように激しく揺れ、写し出された影を大きく震わす。
「えっ!?」
怒鳴り終え、改めて娘をねめつけようとした年経た男から発される、驚愕の視線。
身構えた、ように見えたエルヴンの女の姿が消える――消えた?
人知れず魔法を行使した訳では無い、その証拠に漂う魔の力がまるで動いていない。
眼を離していた訳でも無い、この局面で油断をする程間が抜けてもいない、だのになぜ――。
呪術師の男は一瞬でエルヴンの女の姿と見失い、距離を無くし茫然と立ち尽くす。

彼女の姿は果たして何処へと消えたのか。
姿勢低く地を蹴り距離を詰めつつ、突風の如き速さで右に左にと素早く駆け、間合いを計らいしなやかに跳ぶ。
そして今、カヤの身は宙空にあった。
左手を朱塗り鞘に添え、右肩をやや前に両膝を曲げ、身を乗り出すような姿勢。
右手は刀身の柄へと向かい、掴もうと僅かに手を広げていた。
着流しの長い袖がたなびき、裾の間から、すらりとした形の良い脚が見え、宙に翻り棚引く袖と裾が揺れ、ばさりと鳴る。
その音と気配を感じ、漸く首を上に傾ける歳経た男。
納屋の天井には小さく、しかしまばゆい光源に揺らめくエルヴンの女の影が、大きく映し出されていた。
素早く動くその影が、意表を突かれた表情で動けぬ年老いた男の顔を覆う。
つい先程までは、どう振り回そうが小娘の刃など届かぬ、届く筈が無い、そう思っていた万全の位置取り。
だがしかし、ふわりと浮いた彼女のその体は――、事実彼の直ぐ眼上に在る。
風、大きく揺らいだ緩やかな風と音によって、漸く位置取りを気取った頃には、何もかもが手遅れであった。
薄暗い中にあっても、尚艶やかな銀の髪が靡き、鞘に向かった右手が柄へと軽く触れ――。

――そして、柄に添えた右手から、一筋の銀閃が輝く。

鞘走りそして、薄暗い色味の衣服と、肉を断つ音は、その煌めきの後から続いた。
見れば刃は既に、朱塗り鞘の中へと納まっている。
年経た呪術師の男は、右手を挙げ身を捩り、自らの身を庇う様な姿勢を取ったが、もう遅い。
彼女が振るう、疾風の如き速さの刀剣術の前には、全てが遅過ぎた――。

「ぐわああーーーっ!!」

次の瞬間、皺枯れた悲鳴が響き渡り、年経た男は切り口から煙を吹き出し、倒れ伏す。
指先へと纏わり付く様に、幾つか漂っていた光の軌跡は、同時にその輝きを失う。
それらは徐々に昏く鈍い色と姿を変え、瞬く程の間で、景色に溶け込む様に消え失せた。
勢いに任せ宙空から斬り抜けたカヤの姿は、何事も無かったように、すたりと地に降り立つ。
倒れた呪術師は、そのままどろどろと、煙を噴出していたように見えたが、やがてそれも収まり、嘘の様に姿が見えなくなる。
気が付くと、後には何も残されてはいなかった。
誰かが倒れた跡も無く、影に絡まれる様に消えたというのに、身に着けていた物も、何かが染み込んだ跡も全く見当たらない。
影も形も無い、と言うのはこういう事を指すのだろう。
討ち果たした手応えはあった、確かにあったのだ。
しかし、倒した筈の相手は既に露の如く消え去り、跡形も無くなっている。
これも魔法か何か、彼の言っていた秘術の一つなのだろうか。
目を丸くしたカヤは、年老いた男が斃れたであろう辺りに屈み込み、地に手を這わせて調べたが、何も見つける事が出来なかった。

―――――――ふうん? こいつぁ一体ぇ どういうこってす
―――――何だか 狐にでも化かされちまったみてぇで 気味が悪ぃや

手に付いた土を払い落としつつ、彼女が一言、辺りへと吐き捨てるような声が屋内へと響く。
摩訶不思議なものを見た、その口元はへの字に曲がり、気味が悪いとは言うものの、恐れなど一片も含まれておらず、夕闇を戦ぐ風を思わせる、透き通った語気は、やけに愉し気である。
まるで続きが楽しみだ、とでも言わんばかりに。
やがて、地面より手がかりを得るのを諦めたのか、ざあざあと雨音が納屋の屋根を叩く中、彼女はつと、敷物に目を移す。
その傍に置かれた光源はそのまま、柔らかい光でその身を揺らし、煌々と納屋の中を弱々しく照らしていた。
敷物の上に小さな薬缶と、茶碗と箸が転がっている。
薬缶はその中身を敷物の上に溢し、湯が沁み込んだ跡が残されており、ほんのりと湯気を立てるそこへと手を当てれば、まだほんのりと温かい。
火は既に燃えかすとなっていて冷たく、蝋燭以外に火種は無い事が伺えた。
カヤは敷物の上に座ると、湿らせた布で茶碗と箸を拭き、風呂敷包みの中へと丁寧に仕舞い込む。
まだ何か起きそうな予感と共に、銀の髪の娘は相手の出方を待つ事にしたようだ――何かあれば、また向こうからやって来てくれるに違いない、とでも考えたのだろうか。
納屋を照らす弱々しい明りをそのままに、もう今出来る事も無い、とばかりに顎紐を外した彼女は寝転がり、菅笠を顔の上に乗せる。
そして恐ろしくは無いのか、つい先程まで妙な子供達や、その身を狙う者が現れたと言うのにも関わらず、カヤは辺りを調べるでもなく、塒を変えようともせずに、間も無くすうすうと寝息を立てて眠り始めた。