2020年3月25日水曜日

ブログ小説 縁切徹 第三話 刺客(1)

【ブログ小説】
R.M.E.R. 2nd chapter3
縁切徹

刺客(1)



――――――――(1)――――――――



一体何をしたらこうなるというのか――?

昼前に、引き渡した筈のエルヴン式の刀剣は、すぐさま手入れをしなくてはならない程に痛んでおり、それを一目見た店主は頭を抱える。
普段の彼であるなら、もっと丁寧に扱えと叱り飛ばすか、法外な額を吹きかけて脅すかしているだろう。
何故こうなったのかを、伺おうとしたがすぐに思い当たる事柄が、一つ思い浮かぶ。
巷では、歓楽街を仕切っていた一家が、壊滅したとやらの話で持ちきりである。
大きな騒ぎがあった事は、この界隈にもすぐに知れる事態となっていた。
新品同様だった筈の刀剣が、目も当てられぬ程使い込まれての手入れ――そして何やらエルヴンが関わったという噂。
この時期に、あの騒ぎ、まさかとは思うが――いや、噂は噂、俺は与り知らぬ事だ。
しかし、こちらのお嬢さんは滅多に現れない、折角の払いの良い客だ、なるべくならその関係は良好でありたい。
か弱そうなこのお嬢さんが、今日新たに上った噂に聞く様な事を起こす等、果たして可能なのか?

――馬鹿な、寝言は寝てから言えッ。

積まれた小判を目尻に、あの日と同じ様に作業机に腰かけた、銀の髪の娘への余計な詮索を、彼は行わない事にする。

時刻は陽が暮れたばかりの、閉店前――。
手入れや仕上げ作業に夢中になるあまり、暗くなってから夜を迎えていた事に気付き、開けっ放しだった店をそろそろ閉めようと、重い腰を漸く上げた頃。
ぽつぽつと妙な音、そしてぼそぼそと、か細く何かを伝える声。
はて、何の音かと訝しんでいると、その後で銀の髪の娘が、戸を開け滑り込んできたのだった。



初めて訪れた時と同じく、エルヴンの女は左右を見渡す。
家具、そして床へと視線を流すと、店主の方へしずしずと歩む。
ぺたしぺたしと、足に巻いた草鞋の音が静かに響いた。
そちらは専門外だが……忍び足や隠れるのは、どうやら得意では無さそうだな。
彼はその音から、銀の髪の娘の足運びについて、そのような思いを馳せる。
店の奥へと進み距離が縮む――足を止め、ぺこりと頭を下げる娘。
腰に差した朱塗りの鞘を外すと、刃を半分ほど引き出し、店主の方へと置く。
作業台に腰をかけ、提げ物から小判を一枚、取り出した彼女が言う。
その様子は、声色こそやや沈んだ拍子を持っていたものの、初めて会った時の仕草と、全く変わり無いように思えた。

―――――――砥ぎ料はこちらで 良うございやすかい?
―――――それとも 御入用は切り餅の方で?

葉の舞い散る季節を、通り抜けた風の様な、聴き心地良い声が、耳にそよぐ。
何かあったのか、昼間よりは、機嫌が少し悪そうではあるが。
料金の方は全く問題無い。
とでも言おうか、次々と高額貨幣を積み上げており、要求しようと思っていた額を、既に超えている。
勿論、払いも良いし売り甲斐もある、客としては申し分ない。
しかしどう見ても年頃の娘、驚く程の晴眼はともかく、腕が立つかどうかは知らん。
思うが、この客はどれだけの金を持っている事やら。
このお嬢さんはまさか、相場を知らんのか、それとも――?
しかし客にどれ程多くの金を積まれても、持ち得る技術以上の仕事料、それに相応しい以上の料金は取らない、のが彼の主義だ。
自分の店を持つ遥か以前から、それで通しており、どんな者が訪れようとも、その姿勢を変えた事は無い。
手入れが出来ぬ程痛んでいる訳では無いし、これなら何とか出来る。
今回は新しい刀剣へ買い替えずとも良いだろう、自身の腕にかけて、必ずや元の切れ味を、取り戻して見せる腹積もりだ。

「何かご希望は御座いますか?」
これだけの料金だ、少し位の要望なら、聞けなくはない。
エルヴン達が切り餅と呼ぶ、小判が多数入った包みを、もう一つ二つ出してくれるならば、知人に頼み十日程で二~三度は行使できる魔法を、掛ける事も出来るだろう。
そう思った店主の問いに、彼女は頭を振った。

―――――――素人が口を挟んでも 碌な事になりゃしねぇんで

これ程の料金を手入れにでも積めば、他の客ならやれ装飾をもっと豪華にしろだの、もっと良い切れ味にしろだの、強力な魔法を掛けろだの、うんざりする程の無茶な要求を述べる者も居るというのに。
特に最後、魔法は効能がすぐ消え失せるような、か弱い術なら兎も角、何百日と保つ強力な術ともなると、流石にエルヴン金貨の一枚や二枚程度では、到底足りず掛けられる筈がない。
もしそれが出来るのものなら、我々職人はとうの昔にやっている筈である。
彼等はそんな端金で望みが叶うと、本気で思っているのだろうか。
知識も技術も無い、払う金も無いが、労力も顧みない、しかし要望だけは多い客。
それと比べれば、何と簡素な返事であろうか――。
物静かな佇まいのこのお嬢さんは、本当に望んでいる事が無さそうだ。
「それでは、朝までに済ませておきますよ。
陽が昇ったら、またおいで下さい」
店主は小判を三枚受け取ると、刀剣の手入れをする事を約定する。
価格を告げると、娘は特に言う事も無く手を引っ込め、幾つか積まれた黄金色の貨幣を、腰の提げ物へと無造作に仕舞い込み――取引がが成立したと感じたのだろう、作業台から腰を下ろす。

どうせ偏屈な鍛冶屋、で世間様には通っているのだ。
このまま家に帰っても、大して他にする事も無い。
丁度良い暇つぶしにはなるだろう。
夜を徹した所で急がねばならぬ仕事も無く、安心してこの仕事に集中出来る。
邪魔の入らぬ様、戸締りだけはしっかりとしておくべき、ではあるが。

やや硬い笑顔で、エルヴンの女は立ち去り――、彼女を店の外まで見送った後、戸に閂を掛け、店主は改めて持ち込まれた、エルヴンの刀剣をしげしげと見詰めた。

相当傷んではいる、のだがそれに合わせて不可解な点も多い。
何故、折れていないのだろう。
これは、余程巧みな振い方をしたのではないだろうか?
刀剣の限界を、紙一重で避けた使い方をしている、様に感じられる。
これは、真っ先に感じた事だ。
そう言えば、あの日――もう昨夜となるのか――に持ち込まれたエルヴンの刀剣も、限界まで使い込まれていた筈。
まさか、折れなかったのは、運が良かったとか全くの偶然では無かった、という事なのか。
あれは大変驚いた事に、販売されていた事が信じられぬ程の、とんでもない鈍ら刀剣であり、悪い意味で値のつけられない、超の付く三級品も良い所の代物であった。
如何なる経緯で、金を払われた事が信じ難い、見るだけで腹立たしい鈍らを手にしたのだろう。
誰の作かは知らんが、とんでもない物を売りつける奴が、世に居るものだな。
大方悪どい商人に騙されたのだろうが――いや、先日の取引を思い出す限りでは、その道も長い筈の己が、舌を巻く程の活眼を持つ、あのお嬢さんが騙されて掴まされた――、等とは考え難い。

少し間違えば、いや振い方だけではない、相手の動きや当たる場所、刃先の角度の具合、その他様々な要因で、この刀剣は折れるか、曲がるかしていたに違いない――そう、違いないのだ。
それを、奇跡的な程、瀬戸際を越えぬよう取り扱ったのかもしれん。
傷み具合を見た限りではそうとしか思えない。
だが、そんな事が、そんな振い方が――果たして可能なのか?
並の剣士では、到底ここまで使い込めるものではない筈。
考えても分かるものでは無い、何せこのような扱いをされた跡が垣間見える刀剣を、彼も見た事が無かったのだから。

しかし、確かにこの刀剣は折れない様、振るわれた――。

信じられない事に、店主の長年かけて培われた、職人としての経験と勘は、そう告げている。
何度見ても推測から浮かび上がる、摩訶不思議な事実、底知れぬ扱いを受けた刀剣を前に、彼の体は、自然と大きく震えた。



――――――――(2)――――――――



偏屈な店主は店から帰らずに、手入れを続けてカヤを待つ。
もうすぐ、夜明け前といった時刻であろうか。
空腹を覚え、彼は辺りを見渡す。
それもその筈、急な来客の後作業に没頭した為、夕食を食べるのを忘れていたからだ。
作業台の脇には、昼食にと用意した齧りかけの麦餅を、皿の上に置き忘れたままである。
まだ埃を被ってはいない、買って来たばかりの新しい物なのだろう。
新たに用意するのも面倒だとばかりに、店主はそれを戸惑わずに手に取ると、がつがつと食い千切り、飢えを満たした。
そして濡れた砥石へと向き合い、刃を重ねて動かし始める。

如何程の時間が経過したのか、ふと気づくと、ゆらり、と燭台に灯る炎が揺らぐ。
風は無い――この店は古い建物だが、隙間風がびゅうびゅう吹くような、粗雑な修理はしていない。
気のせいか、と思い休めた手をもう一度動かそうとした時。
再び炎が揺らいだ。
……今度は気のせいではない、筈。
何かの報せであろうか、と店主の心の内側に、何か予感めいた感覚が沸き起こる。
その後、ぽつぽつと戸口が鳴った。
音の主は、すぐに分かる――きっと、彼女が来たに違いない。
成程、予感のようなものは、時折当たるものだな。
燭台の炎が揺らいだ気がしたのは、その所為なのだろう。
彼はそう思うと、腰掛けていた作業台の椅子から立ち上がると、うんと伸びをして、徐ろに店と外界を繋ぐ唯一の入り口へと向かった。

小ぶりな扉にしては、やや大きめの閂を外す。
戸を開けると辺りはまだ暗く、エルヴンの女が店の入り口の前に立っている。
その表情は二度目の来訪と違い、幾分か血色を取り戻している様に見えた。
何があったのか気にはなるが、自らの与り知らぬ事。
このお嬢さんも恐らくは冒険者だ、語れぬ事情もあろう、余計な詮索はしない――。
素知らぬ顔で招き入れ、作業台の椅子に店主が腰掛けると、彼女もそれに付き従い、ちょこんと作業台の上に腰掛ける。
見事なまでに蘇った長脇差を受け取ると、それを確かめた彼女は頷いて鞘へ仕舞い腰に差す。
そして小さな声で恐れ入りやす、と頭を下げ、礼を言った。
丁度良い機会だとばかりに、店主は疑問に思っていた、鈍らの刀剣をどういった経緯で、手に入れたかを問う。

―――――――ありゃあ 獲物が手元に無ぇ時に 拾った物でさ
―――――拾い物にしちゃあ それなりに良く 斬れやしたぜ
―――その前の? ですかい? その前のは ひん曲がっちまいやしてね

話を聞き、更に驚愕する店主。
流石に彼女も、刀剣を破損させてしまう事も有るのか。
そもそも、あれを拾ったとは――。
驚き暫し絶句したついでに、彼は銀の髪の娘へと、予備の武器を持つ事を提案する。
隠れるように柄に差している、小さな小さな小刀では、投げるか木でも削るか、の役にしか立つまい。
知り得る知識を思い出す限りでは、エルヴンの剣士や戦士は二振りの刀剣を携えると聞く。
しかし、彼女が持つのは何故か、たった一振りであった。
エルヴンの風習に左程詳しくない店主には、それ以上の事は分からなかったが。

そして、白木の鞘に収められた、少し短めのエルヴンの刀剣を持ち出す。
「俺――、あ、いやこれは……。
私が若い頃、エルヴン式の刀剣を、見真似で拵えたものですが」
倉庫の奥に眠っていようとも、己の作は勿論の事、仕入れた商品であっても、手入れを欠かせた事は無い。
どうせ他に使い手も居ないのだ、店主は娘に贈るつもりであったが。
その刀剣の中身を確かめた彼女は、ひっそりと笑い、黙って切り餅を四つ、作業台の上に並べた。
「えっ?
そんなに……」
硬度の違う鉄同士を、巧く繋ぎ合わせる事が、当時はどうしても出来ず、見た目だけを真似たものとなってしまった。
技術不足を理由に妥協した、苦い思い出とでも言うか。
刻が過ぎ、様々な技法を身に着けた今となっては、笑い話にもならないが、当時は相当悔しい思いをした記憶を、ありありと思いだす事が出来る。
勿論実用品として、市井の品と比べて劣らぬ自信はあるにはある、だがしかし、これは本物では無いし、本物には程遠い。
この剣が、それ程の価値を有するとはとても思えず、微かに残る気恥ずかしさも手伝い、彼は幾つかの包みを返そうとした。
が、その手は、娘の白く柔らかい手で遮られてしまう。

―――――――こいつで 切れ味の程 見てみやしょうか

彼女は袂から小さな独楽を取り出し、ころりと掌で転がせる。
この小さな独楽で何かをするつもりなのか。
切れ味を見ると云うからには、試し切りなのだろうが……この小さな木製の独楽――これでどうやって?
意図を掴めず、きょとんとした店主を尻目に、紐を撒くと、先ず、手入れを終えたばかりの刀剣の刃先へと、独楽を投げ入れ、切先の方へと滑らせた。
それを見た彼の顔が、驚きの色に染まる。
宙に放った独楽を、平でなく刃先で受け止めるとは。
このお嬢さんの腕前を見るのは初めてだが、見事ではないか。
気付かぬ内にううむ、と店主は唸りを上げていた。
それだけではない。
刃先の上で回る独楽を切先の上へと、まるで滑らせる様に運んでゆく。

ふわり――。

そして、切先から浮いた独楽は、宙を滑る様にして作業台の上へと舞い降りる。
娘が披露する絶妙な技術に、彼は魅入られたかの如く、目を離せずにいた。
独楽の回転が弱くなり、ふらつき、倒れてしまう。
――そう思った次の瞬間、まるで蕾が花開く様に独楽が広がりを見せ。
気が付くと、一輪の華のような形へと、その姿を変えていた。
目を丸くした店主は、食い入るようにその華を見る。
切れ味を見る――その言葉の意味を理解させるには、見事過ぎる腕前の披露。
その意図を把握した際に、ああ、と思わず驚嘆の吐息を漏らしていた事を、彼はまるで気が付いていない。



そしてもう一度。
今度は、白木の鞘から引き抜かれた刃で、彼女は同じ技を披露しようと身構える。
一点の曇りもない磨き抜かれた鋼が、燭台の炎の揺らぎを映し出し、ちろちろと薄く輝く。
自身の作の方だ、本物と、出来栄えを比べようというのか――、意図を察した店主の顔が一瞬曇り、強張った。
だが、その心中をまるで慮らず、素知らぬ顔で娘は、同じ様に、全く同じ様に、慣れた手付きで刃先へと独楽を載せ、刃を微妙に傾けて運ぶ。
くるくると廻る独楽は刃先から切先へと滑らせ――。
あっと息を吐く暇も無く、すとん、と目前に再び独楽が落ち。
花開いた独楽の隣に、もう一つ、咲いた。
木目こそ違うが、その寸断された形、方向、並び、広がり……。
その全てが、同様の作を意図したものを伺わせ、然りとて何もかもが同じでは無く、僅かな揺らぎが、自然な美しさを醸し出す。
結果を見た店主は、先程と変わらず、目を丸くしたまま、だ。
……沈黙が場を支配する。
やがて陽が昇る時刻なのか、暗がりがやや引きつつある店内に、娘の声が響く。

―――――――そんじょそこいらの シト族の刃じゃあ こうはいかねえ
―――――ふふ そんなに御心配なさらずとも こいつぁ良く切れる刀でございやすよ

確かに。
……試しに使う事は一度として無かった。
実際に本物と比較して、自身の作の方が劣る事を証明されるのが怖かった、からなのかもしれない。
エルヴンの女が立ち去った後、店主は置かれた包みを、しみじみと見詰める。
作り方や中身こそ違うが、刀剣としても切れ味は遜色ない、それを証明してくれた。
違う刃で、寸分の狂いも無く、断たれて開いた独楽の華、二つ。
そして本物と、その見真似である筈の、古い自身の作に同等の支払額。
あのお嬢さんはそんなに俺の腕を、高く評価してくれたのか……。
目を閉じると、あの時の、若い時分の己の姿が思い浮かぶ。

天窓から朝の陽の光が、じわじわと差し込む。
作業台の上、彼女が突如咲かせた、二つの木片の華の周りが明るく照らされ、輝いているように見える。
椅子に腰かけたまま、彼は熱くなった目頭を押さえ、静かにすすり泣いた。



――――――――(3)――――――――



夜明け前、独りひっそりと町を離れるカヤ。
自らの家業の出来事とは言え、少々遊びが過ぎた。
先日の仕事っぷりが明白となり、恐らく、朝一番からの騒ぎとなる筈である。
鼻が利く者は、栄えた場所に住む者の中に少なからず居て、彼女の事を嗅ぎまわって来るかも知れないのだ。
離れるなら、速やかな方が良い。

人目に付かぬよう、慎重に通りを抜け、街道へと赴く。
幸い朝早くの大通りには誰もおらず、エルヴンの女を気に掛けるものは居なかった。
街道筋も人気が少なく、カヤが追い抜かす様に擦れ違う者は、全て街から離れる向きで歩んでいる。
町を離れてからというもの、まるで駆ける様な速足で、陽が完全に昇るまで歩を進め。
薄暗さが無くなり、小休止を挟む頃にはその体はしっとりと熱く、汗ばんでいた。
あの町から追手が差し向けられる事は、恐らく無いだろう。
汗が引くと歩度を少し落とし、彼女は山へ向かい旅を続ける。



陽が傾き、街道を外れて草を掻き分け、道なき道を進む。
、日が暮れる前に、やや広い開けた場所が見つかった。
ここなら歩けば音がする。
街道から姿を隠せ、飛んでくるものがあるのなら、背の高い草が防いでくれる、かもしれない。
空の見えるこの地を宿とするのか、彼女は荷を下ろす。
小さな敷物を敷くと上がり込み、いつかの日と同じ様光源を作り、火種を枯れ木の下に入れ扇子で仰ぐ。
火を起こすと小ぶりな鍋へと水を移し、四角く小さな塊と菜、を、纏めてぽちゃりと放り込む。
そうしている内に陽が沈み、薄暗い夜の帳が降りた後、煌々とした小さな光源が、ぷつぷつと湯を沸かし始めた時であった。
出来上がったのは、小さく刻まれた菜が浮いた、味噌汁。
湯気を上げ始めた鍋の中身を、小さな柄杓でかき混ぜると、芳醇な香りが微かに広がり、香りを嗅いだカヤは、とても満足そうな面持ちを浮かべる。
慈しむ様にゆっくりとかき混ぜられ、小鍋の中で踊る、十分に温められた味噌汁を、欠けた茶碗へと注ぎ。
次に薄い木の皮に包まれた、三角に模られた米の飯を取り出し、茶碗の横に並べ。
何かに気付いた様に振り返り、背の高い草の方へと視線を投げかけ、身を低くして伏せ様子を窺う。
そして彼女は立ち上がると、草むらの方へと素早く身を投げた。

直後、隣にあった背の丈程の木が、粉々に砕け散り――。
強い風が、地に伏せた彼女の艶やかな髪を、激しくはためかせ、木片が雨の様に降り注ぎ、ぱらぱら木管の様な音を上げ、何度も菅笠を叩く。
倒れた光源がぶすぶすと生草を燻し、すぐに立ち消える。
弱々しい輝きが失せ、照らされていた辺りへと、瞬く間に夜闇が押し寄せ、埋め尽くす。
その様子はまるで、力を失ったものから何もかも奪い尽そうとする、侵略者のようであった。

偶発的な突風や、つむじ風等ではない、何者かの意志を持った、明確な攻撃。
その証拠に愉しそうな、煽りを含む声が、すぐ近くから響いてくる。
「――ほぉう?
良く避けられたな。
小娘、狙われるのは、初めてでは無さそうじゃの。
うぬは身に覚えがあろう。
クカカカ、忘れたか?」
薄闇の中、聴こえて来たのは皺枯れ、歳経た男の声であった――その声から、歳を想像するに難くない。
身に覚えと言われて、所以を思い出したのか、尖っていた娘の口が、やんわりと広がり、笑みを作り。
そして、どんよりと曇った日に流れる、湿った風のような声でエルヴンの女が、一言だけ口を開く。

―――――――へい 思ったよりは しつっけぇ御方様方で

ある時は、支払いを渋る一家に殴り込み、またある時は、邪魔者を消す為に一党に金で雇われ、そしてまたある時は、復讐を企む一行に乞われ、仇の命を絶つ――。
ここ暫くは銭を貰っては獲物を斬り、斬る者が居なくなっては、揉め事を探して次の町へと、根無し草の放浪生活を営んできた、エルヴンの娘カヤ。
誰かの恨みを買う等、身に覚えは幾多有れども、こんな僻地まで追手を放ちそうな一党を、彼女はひとつしか知らない。
「ふははははは。
小娘、うぬが奴等に何をしたかは知らんが、安心せぃ、儂は只の雇われよ。
奴等とは銭だけの関係だわい」
呆れたような彼女の口上を聴くと、年老いた男の声は朗らかに笑う。
長々と恨み言を聞かされるかと思いはしたが、そうでは無かったようだ。
突如あちこちから響き出す、皺枯れた笑い声。
その広がりは、まるでカヤを惑わすかの様であり、彼女は更に笑みを深める。
彼女の背後から忍び寄る人影。
影は抜き足、差し足、忍び足、と音を立てぬよう、密やかに足を運ぶ。
笑い声に惑わされている隙に、銀の髪の娘を害しようという魂胆なのであろう。
闇に紛れ近づきつつ、手頃な長さの獲物を振り翳す。
その手に持つは、果たして刃物か鈍器か。
それは、立ち尽くすカヤの所まで今一歩の所で、落ちていた小枝を踏み抜く。
ぺきりと微かな音が、笑い声に混じった。

振り向きながらの、横薙ぎの一閃。

手応えはあったが、叫び声などは無い。
四方八方から響く笑い声に惑わされた様子も無く、カヤは抜く手も見せず斬りつける。
一斉に、笑い声がぱったりと止む。
草むらに倒れた筈の、背後から忍び寄っていた人影は、煙の様に消え、後には何も残ってなどいなかった。
「――何とッ!?
ハハ、流石になかなかやりおるわい。

ククッ、ふふふ、今日は日が悪いようだ。
……小娘。
近い内にまた会おうぞ」
驚愕の後、くつくつと、くぐもった笑う声がカヤの耳朶へと届くと同時に。
ざざ、と草が掻き分けられ、何者かが駆け去る音。
夜風に銀の髪を靡かせ、娘の視線はその方角へと向けられていた。



招かれざる客が失せ、静かな夜に戻り――。
時には強く、時には囁く様に朧げな風に吹かれ、草木がざわつくのは、何時の夜も変わりない。
特に警戒せねばならない気配も今は無く、長脇差を鞘に戻す。
落ち着いて食事でも、と思ったのか、ふと脇を見た銀の髪の娘は、驚いた様に息を飲み、目を見開く。
比較的丈夫な食器こそ無事だったのだが、味噌汁を盛ったその茶碗がひっくり返り、折角温めた汁が草むらのあちこちに、無残なまでに散乱していた。
勿体ない程の量を草木に吸わせた汁、多量の土埃と木片が付着し、ひしゃげて酷く汚れた握り飯には、もう既に飢えた小さな生き物達が、突然訪れた天の恵みを逃すものかと押し寄せ、ぞろぞろと群れ集っている。

形跡からして、先程の年老いた男が、狙ってやった事では無いだろう。
しかし気付けば、夕餉が台無しとなっていた、覆しようが無い事実。
食料は左程持ち歩いてはいない上、明日の分を今食べてしまえば、何か不測の事態に陥った時、あっという間に困窮する事と成り果てる。
今からこの時刻では、食べられそうな物を探すのは辛い――食べられそうにない、夜をさ迷う肉食の獣なら、見つかるかもしれないが。
もしそうなった場合は恐らく、戦闘は避けられないもの、となるに違いない。
つい今しがた戦った敵が近くに、それも未だこちらを窺っているかも知れないのだ、怪しげな輩の持ち味らしい、得体の知れぬ業での奇襲を避ける為にも、余計に争いを作り出すのは聡くない筈。
と、なると――どうやら今晩は、食事にありつけない様だ。
彼女の脳裏が、先程避けた衝撃が何処へ向かったのかを思い浮かべ、それを想定した模擬検証とそして、状況証拠による現場検証を行い――、極めて絶望的な結果へと辿り着く。
頭を掻き、ふうぃ、と深い溜息を吐くと、散らばった食器を集めて片付け、敷物の上に座り込む。
やがて、不満そうに口を尖らせ、笠で顔を覆うと横になり、そのまま夜が明けるまで、カヤは寝る事にする。
きゅうきゅうと収まらぬ腹の虫が鳴き、その音が風に乗って遠くへと運ばれ、か細く立ち消えていった。